【明日、白夜になる前に~睦拾漆~】
文字数 2,346文字
いくつにも分身した大きな月が、ぼんやりとした薄闇の中で眩しいほどに輝いている。
意識は白濁。何だかわからないが目眩がする。回転する視界、そういえばひと昔前のホテルには回るベッドがあったという。自分がホテルに入ったことは覚えていた。だからこそ、そういったベッドが僅かに残っていた場所に入ってしまったのだろうと思ったのだろう。
薄ボンヤリとした視界も少しずつではあるが焦点が合い始め、分身した月ーーいや、丸い照明がひとつに纏まっていく。
ホテルの放つ独特のにおいが鼻をつく。そうか、ぼくは里村さんとホテルに入ったのか。ふとそう気づくと、ぼくは辺りを見回す。
誰もいない。
ただ、水の弾ける音が浴室のほうから聴こえてくる。そうか、ぼくが寝てしまったから、その間に身体を洗っているのだろう。ここ最近ずっと入浴出来ていなかっただろうし、さぞ気持ちのいいことだろう。
何となくだが、ぼくは自分の気持ちに余裕があった気がした。
まぁ、今ここで変に緊張する理由がないのはいうまでもない。それに多分、ここ最近ナーバスになりすぎていたこともあって疲れていたのだと思う。本当によく眠れた気がした。気がしたが、唐突にスレッジハンマーで鐘をぶっ叩くような、そんなガンッとした頭痛が響き渡る。
胃の中のモノが今にも逆流してくるんじゃないかっていうよう。この数ヶ月で一体、何度こんな不快感に襲われているのだろうという感じではあったが、これは今まで以上にヒドイものであったような気がした。
何だろう、この感じ。
ふと疑問に思う。何も可笑しいことなどないだろう。だけど、何かが変だ。だが、その違和感の正体がぼくには掴めない。
身体はフリーだ。何の拘束もされていない。これで拘束でもされていたら、それはそれで異常事態だとすぐにわかるのだが。
持ち物の確認もした。別に彼女のことを疑っているワケではないが、念のためだ。だが、やはりなくなっているモノもない。ただ、スマホは電源が落ちていた。とはいえ、普通に電源もつくし、充電もある。壊れてはいないよう。
財布も普通にある。中身も金銭やID、クレジットカード等含めて何もなくなっていない。
やはり、考えすぎなのだろうか。
身体を起こしてみても、腹部に妙な痛みが走る以外は何もない。
……いや、何だかわからないけど左の前腕に妙な痒みが走っている。
ぼくは義手である右手でそれを掻く。が、よく見ると掻いたそこから僅かながらに出血していることがわかる。
そんなに強く掻いたつもりはない。では、どうしてそんな出血なんか。ぼくは漸く焦点のあったふたつのまなこでそれを凝視する。
注射の跡がある。
何だこれは。ぼくは左手を近づけてその注射跡をじっくりと眺める。どうしてこんなモノが。ここ最近で注射をした経験などない。そもそも注射ぐらいじゃ、二、三日もすればその跡は消えてしまうだろう。だとしたらーー
この注射跡は、少なくとも数時間以内につけられたモノに違いないということだ。
どうして。いや、そもそも誰がこんな。疑問は浮かび、ひとつの形をなしていく。だが、ぼくはその浮かび上がっては具現化しようとするそのビジョンを必死に掻き消そうとした。
そんなはずがない。
そんなことをする理由がない。
またお得意の人を疑うのが出たか。まったく成長しない男だ。ぼくはぼく自身を詰る。しかし、今回ばかりはその疑念に妙な現実味を感じているのもまた事実だった。
確かホームズがいっていた。有り得ないことを除外していって、その上で最後の最後に残ったモノこそが、仮にそれがどんなに信じられないことであっても、それが真実だと。
……いや、だとしてもホームズなんてフィクションの世界の登場人物でしかない。そのキャラクターのことばを鵜呑みにして現実の判断を下すなどバカげている。バカげているが……。
だとしても今のぼくに出来ることは、その有り得ない要素を解体していって、そのコアにあるモノを剥き出しにしていくという作業だけ。
ぼくは考えた。考えに考えた。情けや私情を捨てて、今そこにある現実だけにフォーカスして、この現状に対するアンサーを求める。
空気の流れる音だけが無機質にこだまする。まるでぼくの思考が組み合わさっていく音のようだ。空白。ぼくが気を失っていた時間。そこまでにあった違和感を整理する。
というより、そこには違和感しかなかった。違和感だらけ。まず、このリスキーでガバガバすぎる誘拐計画。そもそもこれ自体が可笑しい。スキだらけ。そんな余裕を持っていられるということは、監禁対象と犯人が同一人物か、犯人が監禁対象と密接に行動を共にしている、ということだ。
しかし、そんなことは有り得るのだろうか。そもそも、里村さんが犯人だとしたら、どうして自分をそこまで追い込む必要があるのだろう。そう、目的はそもそも何だ。わざわざ風呂に入らず、仕事を無断で休んで失業してまでしなければならないことなど、過激派による国家転覆、大掛かりなテロリズムぐらいしかぼくの頭では思いつかない。
プラス、犯人が里村さんと密接に行動を共にしているということ。これも変だ。電話で盗聴しているとはいえ、行動を共にするほど密接な場所にいれば、ぼくも何処かで違和感を抱くはずだ。だが、可笑しな点はなかった。逆に可笑しなところばかりで、そこが盲点になっていたとでもいうのだろうか。
シャワーの音が止まった。
音がした。
多分、彼女が出てきたのだろう。と、彼女が姿を現す。身体を拭かず、裸の彼女がそこにいる。絹のような肌から珠のような水滴が垂れる様は、こんな状況にも関わらず、とても妖艶だった。ぼくは彼女の顔を見る。
彼女の目は凍りついていた。
【続く】
意識は白濁。何だかわからないが目眩がする。回転する視界、そういえばひと昔前のホテルには回るベッドがあったという。自分がホテルに入ったことは覚えていた。だからこそ、そういったベッドが僅かに残っていた場所に入ってしまったのだろうと思ったのだろう。
薄ボンヤリとした視界も少しずつではあるが焦点が合い始め、分身した月ーーいや、丸い照明がひとつに纏まっていく。
ホテルの放つ独特のにおいが鼻をつく。そうか、ぼくは里村さんとホテルに入ったのか。ふとそう気づくと、ぼくは辺りを見回す。
誰もいない。
ただ、水の弾ける音が浴室のほうから聴こえてくる。そうか、ぼくが寝てしまったから、その間に身体を洗っているのだろう。ここ最近ずっと入浴出来ていなかっただろうし、さぞ気持ちのいいことだろう。
何となくだが、ぼくは自分の気持ちに余裕があった気がした。
まぁ、今ここで変に緊張する理由がないのはいうまでもない。それに多分、ここ最近ナーバスになりすぎていたこともあって疲れていたのだと思う。本当によく眠れた気がした。気がしたが、唐突にスレッジハンマーで鐘をぶっ叩くような、そんなガンッとした頭痛が響き渡る。
胃の中のモノが今にも逆流してくるんじゃないかっていうよう。この数ヶ月で一体、何度こんな不快感に襲われているのだろうという感じではあったが、これは今まで以上にヒドイものであったような気がした。
何だろう、この感じ。
ふと疑問に思う。何も可笑しいことなどないだろう。だけど、何かが変だ。だが、その違和感の正体がぼくには掴めない。
身体はフリーだ。何の拘束もされていない。これで拘束でもされていたら、それはそれで異常事態だとすぐにわかるのだが。
持ち物の確認もした。別に彼女のことを疑っているワケではないが、念のためだ。だが、やはりなくなっているモノもない。ただ、スマホは電源が落ちていた。とはいえ、普通に電源もつくし、充電もある。壊れてはいないよう。
財布も普通にある。中身も金銭やID、クレジットカード等含めて何もなくなっていない。
やはり、考えすぎなのだろうか。
身体を起こしてみても、腹部に妙な痛みが走る以外は何もない。
……いや、何だかわからないけど左の前腕に妙な痒みが走っている。
ぼくは義手である右手でそれを掻く。が、よく見ると掻いたそこから僅かながらに出血していることがわかる。
そんなに強く掻いたつもりはない。では、どうしてそんな出血なんか。ぼくは漸く焦点のあったふたつのまなこでそれを凝視する。
注射の跡がある。
何だこれは。ぼくは左手を近づけてその注射跡をじっくりと眺める。どうしてこんなモノが。ここ最近で注射をした経験などない。そもそも注射ぐらいじゃ、二、三日もすればその跡は消えてしまうだろう。だとしたらーー
この注射跡は、少なくとも数時間以内につけられたモノに違いないということだ。
どうして。いや、そもそも誰がこんな。疑問は浮かび、ひとつの形をなしていく。だが、ぼくはその浮かび上がっては具現化しようとするそのビジョンを必死に掻き消そうとした。
そんなはずがない。
そんなことをする理由がない。
またお得意の人を疑うのが出たか。まったく成長しない男だ。ぼくはぼく自身を詰る。しかし、今回ばかりはその疑念に妙な現実味を感じているのもまた事実だった。
確かホームズがいっていた。有り得ないことを除外していって、その上で最後の最後に残ったモノこそが、仮にそれがどんなに信じられないことであっても、それが真実だと。
……いや、だとしてもホームズなんてフィクションの世界の登場人物でしかない。そのキャラクターのことばを鵜呑みにして現実の判断を下すなどバカげている。バカげているが……。
だとしても今のぼくに出来ることは、その有り得ない要素を解体していって、そのコアにあるモノを剥き出しにしていくという作業だけ。
ぼくは考えた。考えに考えた。情けや私情を捨てて、今そこにある現実だけにフォーカスして、この現状に対するアンサーを求める。
空気の流れる音だけが無機質にこだまする。まるでぼくの思考が組み合わさっていく音のようだ。空白。ぼくが気を失っていた時間。そこまでにあった違和感を整理する。
というより、そこには違和感しかなかった。違和感だらけ。まず、このリスキーでガバガバすぎる誘拐計画。そもそもこれ自体が可笑しい。スキだらけ。そんな余裕を持っていられるということは、監禁対象と犯人が同一人物か、犯人が監禁対象と密接に行動を共にしている、ということだ。
しかし、そんなことは有り得るのだろうか。そもそも、里村さんが犯人だとしたら、どうして自分をそこまで追い込む必要があるのだろう。そう、目的はそもそも何だ。わざわざ風呂に入らず、仕事を無断で休んで失業してまでしなければならないことなど、過激派による国家転覆、大掛かりなテロリズムぐらいしかぼくの頭では思いつかない。
プラス、犯人が里村さんと密接に行動を共にしているということ。これも変だ。電話で盗聴しているとはいえ、行動を共にするほど密接な場所にいれば、ぼくも何処かで違和感を抱くはずだ。だが、可笑しな点はなかった。逆に可笑しなところばかりで、そこが盲点になっていたとでもいうのだろうか。
シャワーの音が止まった。
音がした。
多分、彼女が出てきたのだろう。と、彼女が姿を現す。身体を拭かず、裸の彼女がそこにいる。絹のような肌から珠のような水滴が垂れる様は、こんな状況にも関わらず、とても妖艶だった。ぼくは彼女の顔を見る。
彼女の目は凍りついていた。
【続く】