【明日、白夜になる前に~参拾参~】
文字数 2,228文字
湿った空気は湿っぽい雰囲気に更なる湿気を与える。
そして、それは彼女の頬も例外ではない。
ぼくは彼女の頬を流れるひと筋の雫を見て動揺する。別に何かマズイことや如何わしいことをしているワケではないのに、どういうワケか女性の流す涙には、男性を戸惑わせ、混乱させる効力があるのだーーぼくだけだろうか、いや、そんなことはないはずだ。
「ど、どうした、の……?」
やっとの思いで吐いたことばがそれだ。どうしたのって、シンプルにセンチメンタルな気分になっただけだとはわかるのだけど、それを確認しなければならないほどに、ぼくは混乱していた。そもそも、普通に生きていれば、女性に泣かれることなどないのだからーーあくまで、「普通に」生きていれば、の話だが。
晴香さんは目許の涙を小さな指で静かに拭いながら、声を震わせる。
「うん……、ちょっと昔のことを思い出しちゃって……。ごめんね、急にこんな風に泣いちゃって。迷惑、だったよね」
「そんなことないよ」
そうはいったが、内心ではハラハラしていた。これは夢かーー絶対にそんなことはない。ただ、目の前にはかつて自分が好きだった人が涙を流しながら、ぼくの前で寂しげに佇んでいる。童貞の中学生ならば、これほど興奮するシチュエーションもないだろう。
だが、ぼくはもう大人だ。
それも三十代半ばのいい年した未婚の男だ。
これでぼくが中学生や高校生ならば、そのまま彼女にクサイ台詞でも吐いて何とかしてしまうのかもしれない。
だが、ぼくも彼女も一塊の大人なのだ。
大人ともなれば、結婚を見据えた関係ともなることもあって、様々な事情が絡んでくる。収入や職業、未婚かどうかも絡んでくる。当然、彼女のように子持ちかどうかも判断材料になるだろう。それが所謂「世間体」というヤツだ。
まぁ、大人の男女が付き合うということは、親族が増えるかもしれないという可能性が出てくるということで、「世間体」を気にしないワケがないのは当たり前だと思うし、それが普通なのだろうとはわかっていた。
だが、ぼくには自信がなかった。
正直、勘違いも甚だしいとは思うのだけど、もし仮にそういうことであれば、と考えるとこころも身体も硬直せざるを得ない。そもそもこんな状況が異常なのだ。
ウダウダいってないで抱いてしまえーーそういった考えもあるかもしれない。だが、やはり、ぼくには無理だった。亡くなったとはいえ、相手は友人の奥さんだ。そんな女性に軽々しい態度を取るワケにはいかなかった。
「何かあったの?」
またしてもバカな質問。何かあったからこそ泣いているというのに、それをワザワザ質問しなければ理解できないという自分のマヌケさにはほとほと嫌気が差す。
晴香さんは首を小さく横に振る。
「ううん……、ただ、何か今日斎藤くんに会ったら懐かしくなっちゃって……。直人のこととか、小、中学生の時のこととか……。ダメだよね。まだ小さい子供がいるのにこんな弱音を吐いてちゃ」
そんなことない。そういえたらどんなに楽だっただろうか。そのことばは、ぼくのノドから少し出掛かり、そしてあとひと息のところで暗い闇の中へと引っ込んでいった。
彼女のすすり泣く声が聴こえる。そんなことない、という気休めのことばを引っ込めたのはいいが、何かしらの反応を見せなければならないのもわかっていた。
ぼくは考えた、必死に。何をいうべきか、彼女がどんなことばを欲しているか。
が、考えても無駄だった。
結局、ぼくの頭のボキャブラリーでは慰めのことば諸々が出るのが精一杯だった。
急に何かがぼくの身体に当たった。
いや、当たったというよりかは、「包み込まれた」といった感じだった。
一瞬、何が起こったのかわからなかったが、その後すぐに自分が置かれている状況を理解し、そして身体が熱くなった。
ぼくは晴香さんに抱き締められていたのだ。
パニックがぼくの頭を、精神を、肉体を蝕んで行く。判断能力は失われ、ぼくは自分がどうするべきかわからなくなる。
が、そうこうしている内に、ぼくの身体は彼女の細い腕によって強く、より強く締め付けられていく。ぼくの腕は完全に行き場を失い、空中で宛もなく硬直している。彼女を抱き締めるワケにもいかない。ただ、ブラリと腕を垂らしているワケにもいかなかった。
「いきなりゴメンね……、でも、少しだけこうさせて……」
彼女の微かな声が、吐息がぼくの耳を濡らす。ぼくの頭の中で、自分の中に巣くう「魔物」が唸り声を上げていた。ぼくは「理性」という最後の武器で必死に抗った。ぼくの腕が、指が少しずつ広がり持ち上がる。
本当に、これでいいのか?
突然、そんな声が聴こえた気がした。ぼくの腕と指がダランと力なく垂れ下がる。
ぼくは彼女の肩に手を掛ける。
そして、彼女の身体をゆっくりと、ゆっくりと引き離す。彼女は目に涙を浮かべつつ、呆気に取られたような表情を浮かべている。ぼくは首を横に降りながらーー
「ダメだよ、ぼくは直人の代わりにはなれない……」
そうひとこという。彼女は鼻をすすり、涙を拭ってうっすらと笑みを浮かべる。
「そう……。そう、だよね。ゴメンね、急に変なことしちゃってさ」
「ううん、わかるよ。でもーー」
ぼくは自分でもワケもわからずに口走っていた。次のことばを発した時、彼女は更に笑みを浮かべたが、同時に涙も流した。
その次に彼女がぼくにいったことばーーそれだけで、ぼくには充分だったのだ。
【続く】
そして、それは彼女の頬も例外ではない。
ぼくは彼女の頬を流れるひと筋の雫を見て動揺する。別に何かマズイことや如何わしいことをしているワケではないのに、どういうワケか女性の流す涙には、男性を戸惑わせ、混乱させる効力があるのだーーぼくだけだろうか、いや、そんなことはないはずだ。
「ど、どうした、の……?」
やっとの思いで吐いたことばがそれだ。どうしたのって、シンプルにセンチメンタルな気分になっただけだとはわかるのだけど、それを確認しなければならないほどに、ぼくは混乱していた。そもそも、普通に生きていれば、女性に泣かれることなどないのだからーーあくまで、「普通に」生きていれば、の話だが。
晴香さんは目許の涙を小さな指で静かに拭いながら、声を震わせる。
「うん……、ちょっと昔のことを思い出しちゃって……。ごめんね、急にこんな風に泣いちゃって。迷惑、だったよね」
「そんなことないよ」
そうはいったが、内心ではハラハラしていた。これは夢かーー絶対にそんなことはない。ただ、目の前にはかつて自分が好きだった人が涙を流しながら、ぼくの前で寂しげに佇んでいる。童貞の中学生ならば、これほど興奮するシチュエーションもないだろう。
だが、ぼくはもう大人だ。
それも三十代半ばのいい年した未婚の男だ。
これでぼくが中学生や高校生ならば、そのまま彼女にクサイ台詞でも吐いて何とかしてしまうのかもしれない。
だが、ぼくも彼女も一塊の大人なのだ。
大人ともなれば、結婚を見据えた関係ともなることもあって、様々な事情が絡んでくる。収入や職業、未婚かどうかも絡んでくる。当然、彼女のように子持ちかどうかも判断材料になるだろう。それが所謂「世間体」というヤツだ。
まぁ、大人の男女が付き合うということは、親族が増えるかもしれないという可能性が出てくるということで、「世間体」を気にしないワケがないのは当たり前だと思うし、それが普通なのだろうとはわかっていた。
だが、ぼくには自信がなかった。
正直、勘違いも甚だしいとは思うのだけど、もし仮にそういうことであれば、と考えるとこころも身体も硬直せざるを得ない。そもそもこんな状況が異常なのだ。
ウダウダいってないで抱いてしまえーーそういった考えもあるかもしれない。だが、やはり、ぼくには無理だった。亡くなったとはいえ、相手は友人の奥さんだ。そんな女性に軽々しい態度を取るワケにはいかなかった。
「何かあったの?」
またしてもバカな質問。何かあったからこそ泣いているというのに、それをワザワザ質問しなければ理解できないという自分のマヌケさにはほとほと嫌気が差す。
晴香さんは首を小さく横に振る。
「ううん……、ただ、何か今日斎藤くんに会ったら懐かしくなっちゃって……。直人のこととか、小、中学生の時のこととか……。ダメだよね。まだ小さい子供がいるのにこんな弱音を吐いてちゃ」
そんなことない。そういえたらどんなに楽だっただろうか。そのことばは、ぼくのノドから少し出掛かり、そしてあとひと息のところで暗い闇の中へと引っ込んでいった。
彼女のすすり泣く声が聴こえる。そんなことない、という気休めのことばを引っ込めたのはいいが、何かしらの反応を見せなければならないのもわかっていた。
ぼくは考えた、必死に。何をいうべきか、彼女がどんなことばを欲しているか。
が、考えても無駄だった。
結局、ぼくの頭のボキャブラリーでは慰めのことば諸々が出るのが精一杯だった。
急に何かがぼくの身体に当たった。
いや、当たったというよりかは、「包み込まれた」といった感じだった。
一瞬、何が起こったのかわからなかったが、その後すぐに自分が置かれている状況を理解し、そして身体が熱くなった。
ぼくは晴香さんに抱き締められていたのだ。
パニックがぼくの頭を、精神を、肉体を蝕んで行く。判断能力は失われ、ぼくは自分がどうするべきかわからなくなる。
が、そうこうしている内に、ぼくの身体は彼女の細い腕によって強く、より強く締め付けられていく。ぼくの腕は完全に行き場を失い、空中で宛もなく硬直している。彼女を抱き締めるワケにもいかない。ただ、ブラリと腕を垂らしているワケにもいかなかった。
「いきなりゴメンね……、でも、少しだけこうさせて……」
彼女の微かな声が、吐息がぼくの耳を濡らす。ぼくの頭の中で、自分の中に巣くう「魔物」が唸り声を上げていた。ぼくは「理性」という最後の武器で必死に抗った。ぼくの腕が、指が少しずつ広がり持ち上がる。
本当に、これでいいのか?
突然、そんな声が聴こえた気がした。ぼくの腕と指がダランと力なく垂れ下がる。
ぼくは彼女の肩に手を掛ける。
そして、彼女の身体をゆっくりと、ゆっくりと引き離す。彼女は目に涙を浮かべつつ、呆気に取られたような表情を浮かべている。ぼくは首を横に降りながらーー
「ダメだよ、ぼくは直人の代わりにはなれない……」
そうひとこという。彼女は鼻をすすり、涙を拭ってうっすらと笑みを浮かべる。
「そう……。そう、だよね。ゴメンね、急に変なことしちゃってさ」
「ううん、わかるよ。でもーー」
ぼくは自分でもワケもわからずに口走っていた。次のことばを発した時、彼女は更に笑みを浮かべたが、同時に涙も流した。
その次に彼女がぼくにいったことばーーそれだけで、ぼくには充分だったのだ。
【続く】