【丑寅は静かに嗤う~雉撃】

文字数 3,439文字

 川のせせらぎは優しく、まるで小娘の笑い声のよう。そのきゃっきゃとした河原の声は何とも可愛らしく、人間味がある。

 桃川の目は月の光を受けて輝いている。そこにいるのは彼ひとり。お京と吉備ーー艮顕の姿はそこにはない。桃川は何か物憂げな表情を浮かべたまま佇んでいる。

 ここは甲子寺裏の川ーー即ち、お京が桃川を助けた川だ。桃川の背後には明るく灯った寺。寺からの漏れた薄明かりが闇に包まれた川縁を微かに照らし出す。と、そこにーー

「お兄さん」

 何者かの声。声質からして女性のモノに違いない。桃川は振り返る。

 そこには夜鷹がひとり。揺らめく頭巾の端を赤く染まった唇に軽く挟み、妖艶なる赤の襦袢を微かに覗かせている。肌を包む着物は紫を基調にした派手なモノ。顎から胸元に掛けては絹のような美しい肌を白塗りにして更に美しく見せている。髪には山吹色の簪ひとつ。だが、蜘蛛の糸のように美しく華奢な腕には相応しくないボロボロの敷物が抱えられている。

「こんなところで何してるの? よかったら、一緒に遊ばない?」

 桃川に近づく夜鷹。だが、まったくといっていいほど反応を見せない桃川。

「ねぇ、勿体ぶらないでさ、ちょいとだけでも、あたしとーー」

 桃川を目で捉えた夜鷹の顔に緊張が走る。まるで、現世で閻魔に出会ってしまったよう。が、桃川は何も動じず、相変わらずの調子で、

「どうか、されたんですか?」

「……え?」呆気に取られる夜鷹。「あぁ、いや、何でもないんだ。何か、アンタ、忙しいみたいだね。じゃ、あたしはここら辺でーー」

 何かの気配。小さくも鋭い。一閃、桃川の腰元から放たれる鈍い光。

 逆手に抜いた刀。次の瞬間には刃が何かを弾いている。鋭い音とふたつに割れた小石が桃川と夜鷹の足元に落ちる。桃川の一閃に、夜鷹の顔には恐怖が画を描く。

 桃川はいつの間にか順手に握り変えていた刀を反時計回りに回すと、再び逆手に持ち変え刀を黒目の鞘に納める。

「香取神道流」闇から声が聴こえる。「逆手に刀を抜き、上に小さく振り上げて握りを持ち替え、瞬時に敵を切る。そして、その特徴的な逆手の納刀。大したもんだ」

 闇に蠢く何者かはいう。桃川の手は依然として刀の柄に掛かっている。震えはない。汗も見えない。恐怖など一縷も存在しない。

 闇に蠢く何者かーーその姿を少しずつ現していく。男、ガタイがよく、たくましい。が、髷は結わず、ボサボサの髪を金属の髪留めでうしろに撫で付けている。

 猿田源之助。その目には獲物を射るような鋭さが宿っている。夜鷹の顔が驚きに満ちる。が、そこにはどこか不快さも混じっているようにも思える。猿田は、

「初めて会った時から可笑しいと思っていた。記憶がないといいつつも、隙のない動きを習慣的にやってしまっている」

「記憶が、ない……?」

 夜鷹がひとりごとのようにいう。が、猿田はそれを無視し、続けるーー

「そして、その手だ。マメが酷すぎる。刀をちゃんと扱っていると、手のひらがスレ、指の関節にマメができる。そんなことは夜鷹のお前にもわかるはずだぜーー『お雉』」

 お雉と呼ばれた夜鷹は、一瞬声を上げたかと思うと、観念したように大きくため息をつく。

「猿ちゃん、生きてたんだね」

「生きてたんじゃない。死ねなかったんだ」

「同じことだよ。でも、川越から消えてから、こんな村に来ているとは思わなかった」

「それはお互い様だ。そんなことより、今でもこんなケチな商売してるのか」

「ケチ? 同じようなもんじゃない? あたしも猿ちゃんも死に損ない。地獄の門を叩く死に損ないにできることなんて乞食か泥棒か夜鷹くらい。えたにも非人にもなれやしない」

「それが、おれたちの宿命だ。閻魔のお膝元で、首を跳ねられるのを今か今かと待ちわびる罪人と何ら変わりはない」

「あのぉ」桃川はいう。「お取り込み中すみません。一体、どういうことなんでしょうか?」

「桃川さん。その夜鷹には関わらないほうがいいぜ」猿田はいう。

「お互い様でしょ。猿ちゃんだって、死に損ないの天誅屋でしかーー」

 猿田の目が月下に光る。口をつぐむお雉。

「……まぁ、あたしも猿ちゃんも、共に地獄行きを約束した心中仲間、ってことかな。これで満足いった? じゃあ、あたしはこれで」

 踵を返し、去ろうとするお雉。

「待てよ」猿田の声にお雉は足を止める。「ここに何しに来た?」

 お雉は振り返り、

「猿ちゃんと同じ。死に場所を求めてさまよっているだけ。桃川さん、とかいったっけ。アンタ、何だってここまで来たの?」

「いやぁ、気づいたらここに」

「気づいたら?」

「あぁ。ある嵐の夜、この川を伝ってここまで流れ着いて来たんだとさ。そして、今ではそこの甲子寺でーー」

「桃川さん!? どこ行っただ?」

 お京の声が聴こえる。どうやら、桃川のことを心配して探しに来たらしい。

「……あれは?」お雉。

「寺の娘さんだ」

「……そう」悲しげなお雉の目。「桃川さん。アンタ、何があったか知らないけど、今が幸せなら、過去なんか忘れて静かに暮らすことだね。あたしや猿ちゃんみたいな疫病神にはくれぐれもお気をつけて。じゃね」

 そういってお雉は、猿田の呼び掛けに応えることもなく足早に闇の中へと消えていく。

 ふたり取り残される桃川と猿田。そこには音の調整の出来ていない三味線の音色のような不和が空気のように漂っている。

「……何ともないか?」猿田は訊ねる。

「え?……えぇ、大丈夫です」

「刀のほうは? 刃こぼれとかしてないか?」

「多分、問題ないかと思います。切る時に、これといった衝撃もありませんでしたから」

「そうか。ならいいんだ」

「あの、猿田さん、でしたよね」

「……それが何か?」

「酒場の主人からアナタが昔、武士だったって聴きました。それに、あの見たこともないような武術。柔術ではありませんね。アナターー」

「おい」猿田の声は重く威圧的。「あまり死人のことをあれこれ探るもんじゃねぇぜ。墓荒らしなんて、奉行所の役人がやってればいい」

「ですがーー」

「あぁー! こんな所にいたぁ!」お京が繁みから現れる。「呼んでも返事がないから心配しちゃったよ、バカぁ!」

「ば、バカぁ……?」

「そうだで! 桃川さん、アンターー」お京は猿田に気付き、「何だ、猿田さんでねぇか。こんなところで何してるんだ?」

「いや、悪い虫が彼に付こうとしてたみたいでして、気になって」

「悪い虫ぃ?」怪訝そうに桃川を見るお京。

「えぇ。この村にも、たちの悪い虫が飛び交っているようで。では、あまり邪魔をしてもよろしくないので、自分はここでーー」

 振り返り、猿田は去ろうとする。が、唐突に足を止めると、

「桃川さん。互いに、何事もなく過ごせればいいですなぁ」

 桃川は呆気に取られ、

「どういうことでしょうか?」

「平穏こそが一番、ということですよ。ではーー」

 闇に飲まれる猿田。そんな猿田の幻影を、桃川は蜃気楼を見続けるように眺めている。

「悪い虫って何のことだ?」

 お京の声が刺々しく響く。

「あ、いや……、それは……」

「桃川さん、オラに隠れて何か如何わしいことしてたんでねぇか?」

「そんな! だったら、猿田さんはーー」

「猿田さんは偶々見ちまっただけだ。あの人は、お偉い御武家様に仕えてらした立派な侍様だ。ウソなんかつくワケねぇ」

「そんな!……ん?」桃川の眉間に疑念。「猿田さんが偉い武家に仕えていた侍ってどうして知ってるんです?」

「酒場の主人から聴いただ。みんな、猿田さんのことを悪くいってるけんど、あの人はそんな人じゃないだ」

「……どうして、そう思うんですか?」

「勘だ」

「勘!?」

 あっけらかんというお京に、桃川は驚きを隠せない。

「そうだ。今はあんな格好をしているけんど、あの人はきっと、とんでもねぇお人に違えねぇだ。桃川さんみたいにな」

「……純粋ですね」

「この世に悪い人なんていないだ。みんなどんなに酷いことをしても、こころの底はみんな、この川の水のように澄んでいるだ」

「……ほんと、そうであればいいんですが」

「ん、何かいったか?」

「いえ! 何も!」

「そんなことより、早く帰るだ! こんなところで何をしてたか、聞かせて貰うだ!」

「あ、いや、だからーー」

「問答は無用だぁ!」

 桃川を無理矢理引っ張るお京。桃川はいいワケがましく弁解しようとしているが、その顔はどこか楽しそうにも見える。

 その夜、桃川はお京にみっちりと怒られたという。

 【続く】

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登場人物紹介

どうも!    五条です!


といっても、作中の登場人物とかではなくて、作者なんですが。


ここでは適当に思ったことや経験したことをダラダラと書いていこうかな、と。


ま、そんな感じですわ。

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