【薮医者放浪記~参拾捌~】
文字数 1,094文字
厳粛な空気は相変わらずだった。
いや、逆にいえば、空気は悪くなりつつある。茂作のひとことで何とか縁談は進み始めたが、それは悪夢の始まりでもあった。何とか時間を延ばして誤魔化そうとする松平天馬の考えは完全に破綻。だが、そうするしかなかったのもまた事実。このまま話を続けていれば、間違いなくケンカになり、修羅場になる。茂作のひとことは誤魔化しの時間稼ぎを潰した代わりに、修羅場へと突入する危険を回避させた。
だが、御簾の中にいるお咲の君があまり機嫌が良くないことは、素顔を見なくともわかった。何となく肩が怒っているというか、癇癪を起こすように何処かソワソワし、一刻も早くこの時間を切り上げたいといった様子だった。
だが、そういうワケにもいかないのが格上との縁談というモノ。天馬は愛想笑いを浮かべながら、藤十郎のご機嫌を伺った。
「さて、と藤十郎殿。改めましてお越し頂きありがとうございました」
「いや、礼には及ばないです」
藤十郎はピシャリといい放った。まるで早く本題へといってくれとでもいわんばかりだ。これには流石に天馬も面喰らってしまった。愛想笑いで歪んでいた顔をより一層歪ませた。
「はは、そうですか? でも、命からがら逃げて来たのですからお疲れではないですか? もしよろしければ、先に食事かお休みにでもなられては如何でしょうか?」
天馬の提案にその場にいた守山、お羊、茂作の三人も人形のようにギコチナイ動きでカクカクと頷いて見せた。だが、藤十郎はーー
「必要ありません」
依然として聞く耳を持たなかった。天馬もこれには随分と困った様子で、
「しかし......、そうお疲れになってはゆっくりと縁談をなさることも出来ないでしょう?」
「確かにおっしゃる通りかもしれない。ですが、わたしはそのような柔な鍛え方はしていないので悪しからず! それに咲様のお顔を拝見すれば疲れなどいっぺんに吹き飛んでしまいますから」
取りつく島もない、とはこのことかもしれない。もはややる気満々の藤十郎を説得することなど無理な相談だった。かと思いきやーー
「そんなことより、天馬殿。いつまでかような御簾を降ろしているのです? そろそろ咲様のお顔を拝見したいのですが」
そのことばに天馬たちはビクリとした。明らかに表情が引き吊っていた。そして、藤十郎のお付きの寅三郎が見逃すはずがなかった。
「どうなされたのです?」
寅三郎は何の悪気もなく、自然な疑問としてそう訊ねた。だが、それは天馬たちの表情を青くし、焦燥の色を与えることとなった。
「左様でございますか」突如、御簾の中のお咲の君がいった。
天馬たちはハッとした。
【続く】
いや、逆にいえば、空気は悪くなりつつある。茂作のひとことで何とか縁談は進み始めたが、それは悪夢の始まりでもあった。何とか時間を延ばして誤魔化そうとする松平天馬の考えは完全に破綻。だが、そうするしかなかったのもまた事実。このまま話を続けていれば、間違いなくケンカになり、修羅場になる。茂作のひとことは誤魔化しの時間稼ぎを潰した代わりに、修羅場へと突入する危険を回避させた。
だが、御簾の中にいるお咲の君があまり機嫌が良くないことは、素顔を見なくともわかった。何となく肩が怒っているというか、癇癪を起こすように何処かソワソワし、一刻も早くこの時間を切り上げたいといった様子だった。
だが、そういうワケにもいかないのが格上との縁談というモノ。天馬は愛想笑いを浮かべながら、藤十郎のご機嫌を伺った。
「さて、と藤十郎殿。改めましてお越し頂きありがとうございました」
「いや、礼には及ばないです」
藤十郎はピシャリといい放った。まるで早く本題へといってくれとでもいわんばかりだ。これには流石に天馬も面喰らってしまった。愛想笑いで歪んでいた顔をより一層歪ませた。
「はは、そうですか? でも、命からがら逃げて来たのですからお疲れではないですか? もしよろしければ、先に食事かお休みにでもなられては如何でしょうか?」
天馬の提案にその場にいた守山、お羊、茂作の三人も人形のようにギコチナイ動きでカクカクと頷いて見せた。だが、藤十郎はーー
「必要ありません」
依然として聞く耳を持たなかった。天馬もこれには随分と困った様子で、
「しかし......、そうお疲れになってはゆっくりと縁談をなさることも出来ないでしょう?」
「確かにおっしゃる通りかもしれない。ですが、わたしはそのような柔な鍛え方はしていないので悪しからず! それに咲様のお顔を拝見すれば疲れなどいっぺんに吹き飛んでしまいますから」
取りつく島もない、とはこのことかもしれない。もはややる気満々の藤十郎を説得することなど無理な相談だった。かと思いきやーー
「そんなことより、天馬殿。いつまでかような御簾を降ろしているのです? そろそろ咲様のお顔を拝見したいのですが」
そのことばに天馬たちはビクリとした。明らかに表情が引き吊っていた。そして、藤十郎のお付きの寅三郎が見逃すはずがなかった。
「どうなされたのです?」
寅三郎は何の悪気もなく、自然な疑問としてそう訊ねた。だが、それは天馬たちの表情を青くし、焦燥の色を与えることとなった。
「左様でございますか」突如、御簾の中のお咲の君がいった。
天馬たちはハッとした。
【続く】