【明日、白夜になる前に~五~】
文字数 2,548文字
城南病院に入院して五日が過ぎた。
検査は順調に進み、結局のところ身体に不調は見られないとのことだった。確かに、自分の体調を考えても特に変な感じはない。
それよりもぼくの頭の中は里村さんのことでいっぱいだ。
ただベッドに寝転がってばかりでやることがないからだろうか、彼女のことばかり気にしてしまう。仕事のことなどそっちのけ。
小林さんが面会に来てからというもの、課長から日に一回は調子を訊ねる連絡が入ったが、特に問題はありませんという何の変わりようもない返信を重ねることとなった。
リモートで飲んでいた友人たちも数人、見舞いに来てくれた。このご時世で見舞いすらも厳しい状況だろうに、何とか時間を見つけ、かつ検査もクリアして会いに来てくれたのは、ありがたい限りだった。
堀内は相変わらず惚けた調子だった。坂井は非モテのクセに相変わらず女性に目がなく、そこら辺を歩く看護師さんを目に留めては、
「うわぁ、選り取りみどりだぜ!」
とかはしゃいでいた。まぁ、選ぶ権利は坂井だけでなく、相手側にもあるということを完全に無視しているのだが、流石に里村さんのことをいわれた時はドキッとした。
別にドキッとする理由なんかないのに。あと少し、ぼくが退院すれば、ぼくと彼女の間にある患者と看護師という関係も解消されて完全な他人でしかなくなる。そう考えると何だか寂しくて、余計に里村さんのことを考えてしまう。
あと少しで、いつも通りの日常が戻ってくる。それだけの話。なのに、その日常が戻らないことを祈っているなんて、どうかしてる。
確かに入院という形で仕事をしなくていいのはありがたいし、目一杯寝られるのは嬉しい限りだ。だけど、それだけじゃない。ぼくにはもっと他に退院したくない理由がある。
だが、それをことばにできないーーというか、ことばにすることを避けている自分がいるという現実が、何とも息苦しくて仕方ない。
吐き気がする。
何故かわからないが胸騒ぎがする。
ぼくはこの感じを知っている。だが、その記憶も随分前に味わってそれっきりだ。
このままで終わってはいけないーー不意にそう思う。だが、何をどうすればいいというのだ。まったく三〇も半ばになろうとしているヤツが何を考えているのだ。女々しくて気持ち悪いことこの上ない。でも、ぼくはーー
「斎藤さん、御加減いかがですか?」
そういってカーテンを潜って来るのは、里村さんだ。ぼくは胸の奥から体温が上昇して行くのを感じ、脳の血流が洪水を起こしたように激しく駆け巡るような感覚に陥る。
「あぁ、いや、その……」
ことばに詰まる。頭の血の巡りが良すぎて考えが纏まらない。何を話していいのか、わからなくなる。彼女のことを見る。だが、恥ずかしくて長くは見つめていられない。彼女はそんなぼくの様子を不思議そうに眺めている。
「あ、えっと、大丈夫、かなぁ」
何をバカなことをいっているんだ。そうじゃないだろう。童貞じゃあるまいし、こんなバカみたいにどもってどうする。
「ふふ、ならよかった」里村さんは微笑みながらいう。「あと少しで退院ですね。よかったですね。何事もなくて」
里村さんの笑顔がぼくの目に眩しく映る。ぼくはその眩しい太陽の前で、ただ挙動不審に右往左往するばかり。
「あぁ、えぇ……」ぼくはヘラヘラと答える。
情けないーーまったく情けない。
ダメだ。こんなんじゃダメだ。飛ぶんだ。清水の舞台から。跳んでしまえばすべてが終わる。死ぬも生きるも流れに身を任せてしまえ。どうせ人生なんか、なるようにしかならないのだから。だから、早くお前の潜在意識の中で燻っているその想いを吐き出してーー
その時、不意にある女性の顔が浮かぶ。険しい表情。口を開くが、彼女のいっていることはぼくの耳にも、意識にも届かない。そして彼女はぼくに背を向け遠くへ行ってしまう。
……ダメだ。
ネガティブな気持ちがぼくを押さえつける。記憶が止めておけとぼくの意志にブレーキを掛けさせる。下らない。本当に下らない。記憶力は悪いほうなのに、ぼくの脳はどうしてこうも役に立たない、どうしようもない悪い記憶ばかりをしっかりと残してしまうのだろうか。
結局、そんなモノを残していてメリットなどないのに、どうしていつまでもこんなゴミのような記憶を脳にしまっておこうとするのだ。
死ね。
死んで楽になれ。
役立たずの腐った過去と共に心中しろ。
「あの、里村さん!」
ぼくがいうと里村さんはクスッと笑い、
「今日は随分と控え目ですね。どうされました?」
漸くバンジーの飛び込み口まで立てたというのに、一気に飛び込むことができない。
情けない恥さらし。いつまでも下らない腐った過去を飼っている脳なんか、爆破してしまいたい。過去なんかいらない。過去なんか、死んでしまえ。ぼくはーー
ぼくは今を生きているのだ。
役立たずの過去なんか、黙っていろ!
ぼくは大きく唾を飲み込みーー、
「あの、もしよかったら、今度、一緒にご飯でも行きませんか!? 気になる店があるんです!」
サタンは神の雷を受けて九日間掛けて地獄へ落ちたという。だが、彼には地獄こそが最適な居場所だった。ぼくもそうだったのだろうか。
里村さんは一瞬、「えっ」と呆気に取られた表情を見せ、困惑した様子でぼくを見る。
終わったなぁ。そうとしか思えない。この後に来るワードはよくわかっている。とても嬉しいです。でも……。その後は適当な理由をつけて断りを入れる。いつだってそうだ。何が嬉しいのか。そんなエクスキューズは無用。
でも無気力な自分にしては久しぶりに踏み込んだモンじゃないだろうか。まぁ、これが最後だろうけど。ぼくは里村さんにバレないように小さくため息をつく。
里村さんが静かに微笑し、いうーー
「いいですね、是非連れて行って下さい」
「そうですよね。まぁ、そういうことで」
さて、遊びは終わりだ。下らないエクスキューズを聴く時間ほど惨めなモノはない。さっさと話を打ち切って適当に流してーー
……あ?
「あの、今、何て?」
ぼくが訊ねると、里村さんは、
「是非、連れて行って下さい、と」
どうやら、目のない真っ赤な唇の看護師はそこにはいないらしい。
ぼくは口をあんぐり開ける。
【続く】
検査は順調に進み、結局のところ身体に不調は見られないとのことだった。確かに、自分の体調を考えても特に変な感じはない。
それよりもぼくの頭の中は里村さんのことでいっぱいだ。
ただベッドに寝転がってばかりでやることがないからだろうか、彼女のことばかり気にしてしまう。仕事のことなどそっちのけ。
小林さんが面会に来てからというもの、課長から日に一回は調子を訊ねる連絡が入ったが、特に問題はありませんという何の変わりようもない返信を重ねることとなった。
リモートで飲んでいた友人たちも数人、見舞いに来てくれた。このご時世で見舞いすらも厳しい状況だろうに、何とか時間を見つけ、かつ検査もクリアして会いに来てくれたのは、ありがたい限りだった。
堀内は相変わらず惚けた調子だった。坂井は非モテのクセに相変わらず女性に目がなく、そこら辺を歩く看護師さんを目に留めては、
「うわぁ、選り取りみどりだぜ!」
とかはしゃいでいた。まぁ、選ぶ権利は坂井だけでなく、相手側にもあるということを完全に無視しているのだが、流石に里村さんのことをいわれた時はドキッとした。
別にドキッとする理由なんかないのに。あと少し、ぼくが退院すれば、ぼくと彼女の間にある患者と看護師という関係も解消されて完全な他人でしかなくなる。そう考えると何だか寂しくて、余計に里村さんのことを考えてしまう。
あと少しで、いつも通りの日常が戻ってくる。それだけの話。なのに、その日常が戻らないことを祈っているなんて、どうかしてる。
確かに入院という形で仕事をしなくていいのはありがたいし、目一杯寝られるのは嬉しい限りだ。だけど、それだけじゃない。ぼくにはもっと他に退院したくない理由がある。
だが、それをことばにできないーーというか、ことばにすることを避けている自分がいるという現実が、何とも息苦しくて仕方ない。
吐き気がする。
何故かわからないが胸騒ぎがする。
ぼくはこの感じを知っている。だが、その記憶も随分前に味わってそれっきりだ。
このままで終わってはいけないーー不意にそう思う。だが、何をどうすればいいというのだ。まったく三〇も半ばになろうとしているヤツが何を考えているのだ。女々しくて気持ち悪いことこの上ない。でも、ぼくはーー
「斎藤さん、御加減いかがですか?」
そういってカーテンを潜って来るのは、里村さんだ。ぼくは胸の奥から体温が上昇して行くのを感じ、脳の血流が洪水を起こしたように激しく駆け巡るような感覚に陥る。
「あぁ、いや、その……」
ことばに詰まる。頭の血の巡りが良すぎて考えが纏まらない。何を話していいのか、わからなくなる。彼女のことを見る。だが、恥ずかしくて長くは見つめていられない。彼女はそんなぼくの様子を不思議そうに眺めている。
「あ、えっと、大丈夫、かなぁ」
何をバカなことをいっているんだ。そうじゃないだろう。童貞じゃあるまいし、こんなバカみたいにどもってどうする。
「ふふ、ならよかった」里村さんは微笑みながらいう。「あと少しで退院ですね。よかったですね。何事もなくて」
里村さんの笑顔がぼくの目に眩しく映る。ぼくはその眩しい太陽の前で、ただ挙動不審に右往左往するばかり。
「あぁ、えぇ……」ぼくはヘラヘラと答える。
情けないーーまったく情けない。
ダメだ。こんなんじゃダメだ。飛ぶんだ。清水の舞台から。跳んでしまえばすべてが終わる。死ぬも生きるも流れに身を任せてしまえ。どうせ人生なんか、なるようにしかならないのだから。だから、早くお前の潜在意識の中で燻っているその想いを吐き出してーー
その時、不意にある女性の顔が浮かぶ。険しい表情。口を開くが、彼女のいっていることはぼくの耳にも、意識にも届かない。そして彼女はぼくに背を向け遠くへ行ってしまう。
……ダメだ。
ネガティブな気持ちがぼくを押さえつける。記憶が止めておけとぼくの意志にブレーキを掛けさせる。下らない。本当に下らない。記憶力は悪いほうなのに、ぼくの脳はどうしてこうも役に立たない、どうしようもない悪い記憶ばかりをしっかりと残してしまうのだろうか。
結局、そんなモノを残していてメリットなどないのに、どうしていつまでもこんなゴミのような記憶を脳にしまっておこうとするのだ。
死ね。
死んで楽になれ。
役立たずの腐った過去と共に心中しろ。
「あの、里村さん!」
ぼくがいうと里村さんはクスッと笑い、
「今日は随分と控え目ですね。どうされました?」
漸くバンジーの飛び込み口まで立てたというのに、一気に飛び込むことができない。
情けない恥さらし。いつまでも下らない腐った過去を飼っている脳なんか、爆破してしまいたい。過去なんかいらない。過去なんか、死んでしまえ。ぼくはーー
ぼくは今を生きているのだ。
役立たずの過去なんか、黙っていろ!
ぼくは大きく唾を飲み込みーー、
「あの、もしよかったら、今度、一緒にご飯でも行きませんか!? 気になる店があるんです!」
サタンは神の雷を受けて九日間掛けて地獄へ落ちたという。だが、彼には地獄こそが最適な居場所だった。ぼくもそうだったのだろうか。
里村さんは一瞬、「えっ」と呆気に取られた表情を見せ、困惑した様子でぼくを見る。
終わったなぁ。そうとしか思えない。この後に来るワードはよくわかっている。とても嬉しいです。でも……。その後は適当な理由をつけて断りを入れる。いつだってそうだ。何が嬉しいのか。そんなエクスキューズは無用。
でも無気力な自分にしては久しぶりに踏み込んだモンじゃないだろうか。まぁ、これが最後だろうけど。ぼくは里村さんにバレないように小さくため息をつく。
里村さんが静かに微笑し、いうーー
「いいですね、是非連れて行って下さい」
「そうですよね。まぁ、そういうことで」
さて、遊びは終わりだ。下らないエクスキューズを聴く時間ほど惨めなモノはない。さっさと話を打ち切って適当に流してーー
……あ?
「あの、今、何て?」
ぼくが訊ねると、里村さんは、
「是非、連れて行って下さい、と」
どうやら、目のない真っ赤な唇の看護師はそこにはいないらしい。
ぼくは口をあんぐり開ける。
【続く】