【西陽の当たる地獄花~拾玖~】
文字数 2,391文字
「小便垂らし!」
牛馬がわたしに向かってそう叫ぶ。わたしは思わずムッとしたが、牛馬の切迫した態度から考えて不服な態度を取るのは間違いだとわかってはいたが、ついーー
「何ですか!」
と荒めな調子でそう答えてしまう。が、牛馬はすぐには答えることなく、わたしをじっと、その獲物を決して逃がさぬ鋭い視線で見て、
「これから戦が起きる」
という。わたしはハッとする。この男は何を考えているのか、わたしにはわからない。
確かに極楽をここまで荒らしたのだから、これからたくさんの血が流れるのはいうまでもないだろう。逃げたとはいえ、神だって黙ってはいないはずだ。今でこそ相手が八人程度で済んだから良かったモノの、ここからはそんな「少数」では済まなくなるだろう。
それに、あの狂犬がこれ以上、牛馬の味方をしてくれるとは考えられない。にも関わらず、あの男は勝つつもりでいるようだ。
無謀ーー無謀としか思えない。
だが、あの男はきっと死地へと赴くだろう。自ら、望んで。それが死に見入られた鬼の宿命だから。
「……そうでしょうね」
わたしはそう答えるーーそうとしか答えようがなかったのだ。牛馬はいう。
「逃げたければ、今すぐ逃げろよ」
風に吹かれる牛馬ーーその姿は何処かうら寂しくも見えたが、その寂しさをも斬り殺してしまいそうな禍々しさも同時に纏まっている。そして、その姿からは並々ならぬ決意が見て取れる。そんな牛馬に対し、わたしは答えに困り、黙り込むしかなかった。
ふと、牛馬が笑みを浮かべる。
「まぁ、どっちにしろテメェも逃げられねぇかもしれねぇけどな」
まったくその通りだ。それをわかっていて逃げろだなんて、気が狂っているとしか思えない。そんなことを思っていると、牛馬はわたしに背中を見せ、振り返る。牛馬はわたしの答えを待ってくれはしないらしい。
「鬼水殿」共にここまで来た閻魔様の使いのひとりがわたしにいう。「わたしどもは、一体どうなさればいいのですか……!?」
そのことばの調子と視線からは、「一体どうしてくれるのだ」というような強い責めの調子と後悔の念が表れている。
「鬼水さん……」
かと思いきや、背後からわたしの名前を呼ぶ者がある。振り返ると、それが極楽の中級役人のひとりであることがわかる。その顔色は真っ青で、口はポッカリと開きっぱなしになっている。
「どうなさるおつもりですか?」
そのことばは、閻魔様の使いの者のモノとは異なり、わたしに対するお咎めというよりは、自分もどうすればいいかわからないから、という本心から出た疑問のことばのように思えた。
わたしだってわかりはしない。わからないからこそ、こうやって立ち尽くしているというのに。その中級役人は更に続けるーー
「もしお逃げになるのなら、わたしなら何とか出来るかもしれませんが!」
唐突な申し出に、他の中級役人たちも驚きを隠せない。これに対し、閻魔様の使いの者たちは、
「そうだッ! お願いします! わたしどもを逃がしては頂けませぬか!?」
とわたしのことなどもはやどうでもいいといわんばかりに、その中級役人に詰め寄って話を進めようとしている。
だが、中級役人も責任者であるわたしに訊ねたのであって、手下の者に訊ねたのではない。
そもそも、役人である以上、上がどう判断するかが確認出来ないことには具体的な返事をしてはいけないと身に染みているのであろう、完全に答えに窮してオロオロしながらわたしのことを揺れる視線で凝視するばかりだ。
そして、わたしに対して答えを急ぐような懇願の視線も。
そう、まとめ役は、このわたしなのだ。
わたしがどうするかを判断しなければ、この者たちは犬死にするしかないのだ。急な責任の重圧がわたしの精神にのし掛かり、空っぽの胃の中から何かがせり上がってくるような得たいの知れない気持ち悪さが込み上げて来る。
わたしはふと牛馬のいた武道場をほうへと目をやる。だが、牛馬はとっくに武道場を後にした後だった。そして、そこにはあの狂犬の姿もなく、上級役人の姿もなくなってーーいや、上級役人のいた桟敷には真っ赤な血溜まり。きっと、あの狂犬がすべて貪った後なのだろう。
鬼と狂犬ーー最悪の役者が揃ってしまった。
となれば、極楽側が考えるとしたら、わたしたち閻魔様の使いの者たちを人質に取って、牛馬に対して脅しを掛けることだろうが、そうなったとして、牛馬はこういうだろうーー
「そんなヤツラがどうなろうと、おれの知ったことじゃねぇよ」
そうなれば、その場でわたしたちは殺される。役に立たない人質はその場で殺される運命にしかない。
地面が遠退いて行くような冷たい感覚に陥る。自分の足は確かにこの渇いた大地を踏み締めているというのに、自分の脚が豆腐にでもなってしまったかのように頼りなげというか、存在が乏しいように思えてしまうのは、どういうことだろうか。
時は刻一刻と進んでいる。決断の時は今すぐだというのはわかっている。ならばーー、
「お名前は?」
わたしが訊ねると、その中級役人は「は?」と呆気に取られたようにいう。が、すぐに、
「わたくし、極楽院にて中級役人として勤めていました、宗賢と申します」
勤めていたーー宗賢は確かにそういった。きっと覚悟を決めているのだろう。このようなことがあった後では、どう足掻いても自分は死罪になるであろう。ならば、わたしたち閻魔様の使いと共に極楽を脱走するのだ。そう考えているとしか思えなかった。だが、今はそんなことを呑気に考えている暇はない。
「案内、願えますか」
わたしがいうと、他の使いの者たちは救われたような笑みを見せる。そして、宗賢及び他の中級役人たちも。わたしは歓喜の渦を他所に牛馬のいた武道場を振り返る。
牛馬、あの男はーーいや、考えすぎか。
夕陽が血のように真っ赤に染まっていた。
【続く】
牛馬がわたしに向かってそう叫ぶ。わたしは思わずムッとしたが、牛馬の切迫した態度から考えて不服な態度を取るのは間違いだとわかってはいたが、ついーー
「何ですか!」
と荒めな調子でそう答えてしまう。が、牛馬はすぐには答えることなく、わたしをじっと、その獲物を決して逃がさぬ鋭い視線で見て、
「これから戦が起きる」
という。わたしはハッとする。この男は何を考えているのか、わたしにはわからない。
確かに極楽をここまで荒らしたのだから、これからたくさんの血が流れるのはいうまでもないだろう。逃げたとはいえ、神だって黙ってはいないはずだ。今でこそ相手が八人程度で済んだから良かったモノの、ここからはそんな「少数」では済まなくなるだろう。
それに、あの狂犬がこれ以上、牛馬の味方をしてくれるとは考えられない。にも関わらず、あの男は勝つつもりでいるようだ。
無謀ーー無謀としか思えない。
だが、あの男はきっと死地へと赴くだろう。自ら、望んで。それが死に見入られた鬼の宿命だから。
「……そうでしょうね」
わたしはそう答えるーーそうとしか答えようがなかったのだ。牛馬はいう。
「逃げたければ、今すぐ逃げろよ」
風に吹かれる牛馬ーーその姿は何処かうら寂しくも見えたが、その寂しさをも斬り殺してしまいそうな禍々しさも同時に纏まっている。そして、その姿からは並々ならぬ決意が見て取れる。そんな牛馬に対し、わたしは答えに困り、黙り込むしかなかった。
ふと、牛馬が笑みを浮かべる。
「まぁ、どっちにしろテメェも逃げられねぇかもしれねぇけどな」
まったくその通りだ。それをわかっていて逃げろだなんて、気が狂っているとしか思えない。そんなことを思っていると、牛馬はわたしに背中を見せ、振り返る。牛馬はわたしの答えを待ってくれはしないらしい。
「鬼水殿」共にここまで来た閻魔様の使いのひとりがわたしにいう。「わたしどもは、一体どうなさればいいのですか……!?」
そのことばの調子と視線からは、「一体どうしてくれるのだ」というような強い責めの調子と後悔の念が表れている。
「鬼水さん……」
かと思いきや、背後からわたしの名前を呼ぶ者がある。振り返ると、それが極楽の中級役人のひとりであることがわかる。その顔色は真っ青で、口はポッカリと開きっぱなしになっている。
「どうなさるおつもりですか?」
そのことばは、閻魔様の使いの者のモノとは異なり、わたしに対するお咎めというよりは、自分もどうすればいいかわからないから、という本心から出た疑問のことばのように思えた。
わたしだってわかりはしない。わからないからこそ、こうやって立ち尽くしているというのに。その中級役人は更に続けるーー
「もしお逃げになるのなら、わたしなら何とか出来るかもしれませんが!」
唐突な申し出に、他の中級役人たちも驚きを隠せない。これに対し、閻魔様の使いの者たちは、
「そうだッ! お願いします! わたしどもを逃がしては頂けませぬか!?」
とわたしのことなどもはやどうでもいいといわんばかりに、その中級役人に詰め寄って話を進めようとしている。
だが、中級役人も責任者であるわたしに訊ねたのであって、手下の者に訊ねたのではない。
そもそも、役人である以上、上がどう判断するかが確認出来ないことには具体的な返事をしてはいけないと身に染みているのであろう、完全に答えに窮してオロオロしながらわたしのことを揺れる視線で凝視するばかりだ。
そして、わたしに対して答えを急ぐような懇願の視線も。
そう、まとめ役は、このわたしなのだ。
わたしがどうするかを判断しなければ、この者たちは犬死にするしかないのだ。急な責任の重圧がわたしの精神にのし掛かり、空っぽの胃の中から何かがせり上がってくるような得たいの知れない気持ち悪さが込み上げて来る。
わたしはふと牛馬のいた武道場をほうへと目をやる。だが、牛馬はとっくに武道場を後にした後だった。そして、そこにはあの狂犬の姿もなく、上級役人の姿もなくなってーーいや、上級役人のいた桟敷には真っ赤な血溜まり。きっと、あの狂犬がすべて貪った後なのだろう。
鬼と狂犬ーー最悪の役者が揃ってしまった。
となれば、極楽側が考えるとしたら、わたしたち閻魔様の使いの者たちを人質に取って、牛馬に対して脅しを掛けることだろうが、そうなったとして、牛馬はこういうだろうーー
「そんなヤツラがどうなろうと、おれの知ったことじゃねぇよ」
そうなれば、その場でわたしたちは殺される。役に立たない人質はその場で殺される運命にしかない。
地面が遠退いて行くような冷たい感覚に陥る。自分の足は確かにこの渇いた大地を踏み締めているというのに、自分の脚が豆腐にでもなってしまったかのように頼りなげというか、存在が乏しいように思えてしまうのは、どういうことだろうか。
時は刻一刻と進んでいる。決断の時は今すぐだというのはわかっている。ならばーー、
「お名前は?」
わたしが訊ねると、その中級役人は「は?」と呆気に取られたようにいう。が、すぐに、
「わたくし、極楽院にて中級役人として勤めていました、宗賢と申します」
勤めていたーー宗賢は確かにそういった。きっと覚悟を決めているのだろう。このようなことがあった後では、どう足掻いても自分は死罪になるであろう。ならば、わたしたち閻魔様の使いと共に極楽を脱走するのだ。そう考えているとしか思えなかった。だが、今はそんなことを呑気に考えている暇はない。
「案内、願えますか」
わたしがいうと、他の使いの者たちは救われたような笑みを見せる。そして、宗賢及び他の中級役人たちも。わたしは歓喜の渦を他所に牛馬のいた武道場を振り返る。
牛馬、あの男はーーいや、考えすぎか。
夕陽が血のように真っ赤に染まっていた。
【続く】