【西陽の当たる地獄花~壱~】
文字数 2,945文字
くすんだ夕陽と差し込む日差しが薄暗い廃墟のような室内を朧気に照らし出す。
ひぐらしが鳴く。まるで、死んだ人間による生を慈しむ虚しい悲鳴のように。
埃まみれの部屋の床で横になっていた男が目を覚ます。身体を起こして辺りを見回す。
「気がついたか」
空気を震わせるような男の低い声が西陽の当たらない暗闇の中から聴こえる。横になっていた男は腰元に手を伸ばすが、そこには何もない。
「探し物ならワシが預かっておるよ。死んでも隙を見せない主の腰元からお刀を抜き出すのは骨の折れる仕事だった」
「誰だ」男が低めの声でいう。
総髪で髷を結った男ーー薄汚い暗い灰色の着物に濃い茶色の袴を穿いている。一見して武士とわかるその男の顔には、うっすらとしたシワが刻まれており、そして額の左から顎の右に掛けて伸びた大きな傷が刻まれている。左目はその色彩を失ったように白く濁っている。
「名前など問題ではない」暗闇の中の男はいう。「主は自分が誰か覚えておるか?」
「何をふざけたことを。おれはーー」
武士は突然口を閉ざす。見た感じは何事もなかったかのように黙り込んだまま暗闇の中を厳しい視線を送っているが、微かな身体の震えが、武士の動揺を象徴しているよう。
「思い出せんだろう。自分の名前を」暗闇の中にいる誰かがいう。
それを肯定するように武士は何もいわず、暗闇の向こう側をジッと睨み付けている。
「それもそうだ。主にはもう肉体が存在した頃の名前など必要ないのだからな」
「肉体が……、存在しない?」
そういって、武士は自らの身体をまさぐる。だが、確かにそこには皮膚や筋肉の弾力があり、存在しない物とは思えない。がーー、
「残念だが、主が今自分の肉体だと思っている物は、主の魂が生前の主の身体を再現した物でしかなく、本物ではない」
「……おれは死んだのか」
「覚えておらんか。主はヤクザの用心棒だった。それを最後はーー」
「覚えている。断片的ではあるがーー」そういって武士は生前の記憶について話し出す。
紺の着物に黒の袴、総髪で髷を結わずに金属の髪留めで頭髪をうしろに撫で付けた男。男は土佐英信流の使い手で、その武士とは何の関係もないはずの男だった。
ある夜のことだった。
武士は川越宿を拠点としているヤクザ、『電光の銀平』の一家の屋敷にいた。銀平は酩酊していた。そこに芸者と名乗る艶っぽい女が現れた。銀平は女に対してただならぬ何かを感じ、気を引き締めた。が、銀平は後はお楽しみの時間だといって武士を追い払った。
が、それが間違いだった。
まず若頭の弥三が厠で殺された。弥三の首は物凄い力でへし折られていた。弥三のことを銀平に伝えに行くが、銀平はその時点で死んでいた。死因は首筋に空いた小さな穴ーー即ち頚椎を鋭い何かで突き刺されたことだった。
若い衆は混乱に陥った。そのまま散り散りになり、屋敷を飛び出して下手人探しに走った。もはや、この混乱は武士の手には及ばなかった。
が、武士にはある確信があったーーこれは玄人の商売人の仕業だと。
そして武士は、ここ最近、川越宿をにわかに賑わせているあるウワサ話を思い出した。
川越の城下町には、金を貰って悪党を成敗するという『川越天誅屋』が存在する、と。そして、その手口は壱に鋼をも叩き割るほどの怪力、弐に白粉のにおいと鋭利な刺し傷、参に正確無比な刀の切り傷。たまに刀ではなく、急所を的確に突いた当て身の時もあった。この当て身は日本古来の柔術の技術によるモノではなく、恐らくは遠い何処かの国から伝来したモノであろうと思われた。
だとしたら、あとひとりーー
刀か当て身かの使い手が、一家の関係者の誰かを殺しに来るはず。
その時、背後にただならぬ気配を感じた武士は刀に手を掛け、うしろを振り向いた。
何かが去る姿。
武士は去りゆく何者かを追った。
何者かの足は早すぎず、遅すぎもしなかった。というよりか、何者かは武士と一定の距離を保って、走る速さを変えているようだった。
可笑しい。
そう武士が思った時には遅かった。
辺りは人気のない河原。夜鷹が己の身体を売っている場所から少し離れたその場所は、無作法に伸びた雑草が足元を覆い隠していた。
何者かはその雑草の繁った場所にて突然足を止めた。武士もそれに合わせて適度な距離を取り足をピタッと止めーー
「貴様、おれを誘き寄せるつもりでーー」
何者かが振り返る。それがあの髷を結わない総髪の髪留めの男だった。
「貴様、天誅屋か」
男は答えなかった。ただ、無言で淡青色の柄巻を巻いた刀を抜き、刀を左上段に構えた。
「……それが答えか。良かろう。無外流ーー」
自分の名前だけが抜け落ちていた。自分が無外流の使い手だということは覚えていたが、名前だけはどうしても思い出せなかった。
武士は静かに右上段に構えた。そしてーー
「斬られた。ヤツのほうが一枚上手だったということか」闇の中で誰かがいう。
「違う、といいたいところだが、そうだった。ヤツはおれのクセや腕前をしっかりと理解しているようだった。おれの完敗だ」
「そして、顔を斬られたと」
「その通りだ。そんなことより、そんな暗いところにいないで、さっさと顔を見せろよ」
闇の中はしばし黙っていたが、吐息混じりのため息がした後に、ぼんやりとその姿を現す。
闇の中の男ーー僧侶。だが、その身長は非常に低い。恐らくは二尺三寸五分程度しかないだろう。顔はバカみたいに老けており、刻まれたシワは数々の修羅場を潜って来たであろうことを想起させる。
「随分小さいな、餓鬼みたいだ」
「これでも生前も僧侶の身でな。だが、食風と疾行の罪で死して餓鬼道に落ちた。そこから這いずり上がるのは生半可じゃなかった」
「だろうな。だが、それで栄養失調になって背が縮んじまったっていうのか」
「いや、小さいのは生まれつきだ」
にわかに噛み合わない僧侶と武士の会話は、場の空気をピンッと張った糸のように張り積めさせる。互いの視線が交差する。そのどちらからも一辺の感情というモノは伺えない。
「……そんなことより、どうしておれはここにいる? 仮におれが本当に死んでいるとして、三途の川も渡っていないし、他の死者もいなければ、おれを裁く閻魔もいない。それとも、貴様が閻魔だとでもいうのか」
「違う。だが、近いかもしれない」
「近い? どういう意味だ?」
僧侶は沈黙したまま武士を見詰める。
「主に頼みがある」
「訊いているのは、おれだ」
「その前に、主の名前を決めたほうが良さそうだ。仮にも仕事を依頼する身、名前がなければ不便だろう」
僧侶は武士の質問をあからさまに無視していう。武士の左手がにわかに動く。だが、その手は何かを思い出したように不自然に開き、手のひらを袴で拭う。
「どういうことかワケを聞かせて貰いたいモンだな。僧侶ならその程度の礼儀、当たり前に弁えているモンだと思ったが」
「それはすぐに話す。それより名前だ。不便で仕方ない。……そうさな、主に似合いの名前がひとつあるんだが」
「……いってみな」
「『牛馬』など如何だろう」
「『ぎゅうま』、か。可笑しな名前だな」
武士のこめかみから流れる汗が、頬を伝ってアゴから落ちる。床には小さな水溜まりが出来ていたーー
【続く】
ひぐらしが鳴く。まるで、死んだ人間による生を慈しむ虚しい悲鳴のように。
埃まみれの部屋の床で横になっていた男が目を覚ます。身体を起こして辺りを見回す。
「気がついたか」
空気を震わせるような男の低い声が西陽の当たらない暗闇の中から聴こえる。横になっていた男は腰元に手を伸ばすが、そこには何もない。
「探し物ならワシが預かっておるよ。死んでも隙を見せない主の腰元からお刀を抜き出すのは骨の折れる仕事だった」
「誰だ」男が低めの声でいう。
総髪で髷を結った男ーー薄汚い暗い灰色の着物に濃い茶色の袴を穿いている。一見して武士とわかるその男の顔には、うっすらとしたシワが刻まれており、そして額の左から顎の右に掛けて伸びた大きな傷が刻まれている。左目はその色彩を失ったように白く濁っている。
「名前など問題ではない」暗闇の中の男はいう。「主は自分が誰か覚えておるか?」
「何をふざけたことを。おれはーー」
武士は突然口を閉ざす。見た感じは何事もなかったかのように黙り込んだまま暗闇の中を厳しい視線を送っているが、微かな身体の震えが、武士の動揺を象徴しているよう。
「思い出せんだろう。自分の名前を」暗闇の中にいる誰かがいう。
それを肯定するように武士は何もいわず、暗闇の向こう側をジッと睨み付けている。
「それもそうだ。主にはもう肉体が存在した頃の名前など必要ないのだからな」
「肉体が……、存在しない?」
そういって、武士は自らの身体をまさぐる。だが、確かにそこには皮膚や筋肉の弾力があり、存在しない物とは思えない。がーー、
「残念だが、主が今自分の肉体だと思っている物は、主の魂が生前の主の身体を再現した物でしかなく、本物ではない」
「……おれは死んだのか」
「覚えておらんか。主はヤクザの用心棒だった。それを最後はーー」
「覚えている。断片的ではあるがーー」そういって武士は生前の記憶について話し出す。
紺の着物に黒の袴、総髪で髷を結わずに金属の髪留めで頭髪をうしろに撫で付けた男。男は土佐英信流の使い手で、その武士とは何の関係もないはずの男だった。
ある夜のことだった。
武士は川越宿を拠点としているヤクザ、『電光の銀平』の一家の屋敷にいた。銀平は酩酊していた。そこに芸者と名乗る艶っぽい女が現れた。銀平は女に対してただならぬ何かを感じ、気を引き締めた。が、銀平は後はお楽しみの時間だといって武士を追い払った。
が、それが間違いだった。
まず若頭の弥三が厠で殺された。弥三の首は物凄い力でへし折られていた。弥三のことを銀平に伝えに行くが、銀平はその時点で死んでいた。死因は首筋に空いた小さな穴ーー即ち頚椎を鋭い何かで突き刺されたことだった。
若い衆は混乱に陥った。そのまま散り散りになり、屋敷を飛び出して下手人探しに走った。もはや、この混乱は武士の手には及ばなかった。
が、武士にはある確信があったーーこれは玄人の商売人の仕業だと。
そして武士は、ここ最近、川越宿をにわかに賑わせているあるウワサ話を思い出した。
川越の城下町には、金を貰って悪党を成敗するという『川越天誅屋』が存在する、と。そして、その手口は壱に鋼をも叩き割るほどの怪力、弐に白粉のにおいと鋭利な刺し傷、参に正確無比な刀の切り傷。たまに刀ではなく、急所を的確に突いた当て身の時もあった。この当て身は日本古来の柔術の技術によるモノではなく、恐らくは遠い何処かの国から伝来したモノであろうと思われた。
だとしたら、あとひとりーー
刀か当て身かの使い手が、一家の関係者の誰かを殺しに来るはず。
その時、背後にただならぬ気配を感じた武士は刀に手を掛け、うしろを振り向いた。
何かが去る姿。
武士は去りゆく何者かを追った。
何者かの足は早すぎず、遅すぎもしなかった。というよりか、何者かは武士と一定の距離を保って、走る速さを変えているようだった。
可笑しい。
そう武士が思った時には遅かった。
辺りは人気のない河原。夜鷹が己の身体を売っている場所から少し離れたその場所は、無作法に伸びた雑草が足元を覆い隠していた。
何者かはその雑草の繁った場所にて突然足を止めた。武士もそれに合わせて適度な距離を取り足をピタッと止めーー
「貴様、おれを誘き寄せるつもりでーー」
何者かが振り返る。それがあの髷を結わない総髪の髪留めの男だった。
「貴様、天誅屋か」
男は答えなかった。ただ、無言で淡青色の柄巻を巻いた刀を抜き、刀を左上段に構えた。
「……それが答えか。良かろう。無外流ーー」
自分の名前だけが抜け落ちていた。自分が無外流の使い手だということは覚えていたが、名前だけはどうしても思い出せなかった。
武士は静かに右上段に構えた。そしてーー
「斬られた。ヤツのほうが一枚上手だったということか」闇の中で誰かがいう。
「違う、といいたいところだが、そうだった。ヤツはおれのクセや腕前をしっかりと理解しているようだった。おれの完敗だ」
「そして、顔を斬られたと」
「その通りだ。そんなことより、そんな暗いところにいないで、さっさと顔を見せろよ」
闇の中はしばし黙っていたが、吐息混じりのため息がした後に、ぼんやりとその姿を現す。
闇の中の男ーー僧侶。だが、その身長は非常に低い。恐らくは二尺三寸五分程度しかないだろう。顔はバカみたいに老けており、刻まれたシワは数々の修羅場を潜って来たであろうことを想起させる。
「随分小さいな、餓鬼みたいだ」
「これでも生前も僧侶の身でな。だが、食風と疾行の罪で死して餓鬼道に落ちた。そこから這いずり上がるのは生半可じゃなかった」
「だろうな。だが、それで栄養失調になって背が縮んじまったっていうのか」
「いや、小さいのは生まれつきだ」
にわかに噛み合わない僧侶と武士の会話は、場の空気をピンッと張った糸のように張り積めさせる。互いの視線が交差する。そのどちらからも一辺の感情というモノは伺えない。
「……そんなことより、どうしておれはここにいる? 仮におれが本当に死んでいるとして、三途の川も渡っていないし、他の死者もいなければ、おれを裁く閻魔もいない。それとも、貴様が閻魔だとでもいうのか」
「違う。だが、近いかもしれない」
「近い? どういう意味だ?」
僧侶は沈黙したまま武士を見詰める。
「主に頼みがある」
「訊いているのは、おれだ」
「その前に、主の名前を決めたほうが良さそうだ。仮にも仕事を依頼する身、名前がなければ不便だろう」
僧侶は武士の質問をあからさまに無視していう。武士の左手がにわかに動く。だが、その手は何かを思い出したように不自然に開き、手のひらを袴で拭う。
「どういうことかワケを聞かせて貰いたいモンだな。僧侶ならその程度の礼儀、当たり前に弁えているモンだと思ったが」
「それはすぐに話す。それより名前だ。不便で仕方ない。……そうさな、主に似合いの名前がひとつあるんだが」
「……いってみな」
「『牛馬』など如何だろう」
「『ぎゅうま』、か。可笑しな名前だな」
武士のこめかみから流れる汗が、頬を伝ってアゴから落ちる。床には小さな水溜まりが出来ていたーー
【続く】