【丑寅は静かに嗤う~夢想】
文字数 2,196文字
暗闇、そこには何もない。
すべてが虚無、すべてが空虚。犬蔵は暗黒の中でただひとり立ち竦んでいる。腰元に刀はない。ボロの着物一丁で、他には何もない。
「誰かいねぇのか?」犬蔵がそう叫ぶも、声が反響するばかりで何も反応はない。「誰かいねぇか!? ここはどこなんだ!」
何度呼び掛けたところで犬蔵の声は霞となって自らの内耳の中へ消えて行く。
「猪之助!」
猪之助の名前を呼ぶもやはり無駄。それから犬蔵はどことなく照れくさそうに、
「……雉の姉ちゃん、桃のお侍」犬蔵は口をモゴモゴさせて、「エテ公……」
だが、犬蔵の呼び掛けに応えるモノは誰ひとりとしていない。犬蔵は歩き出す。暗闇の中、足下の見えない不安定な道を手探りで歩く。その間も声は枯らさないで返答が来るのを待つように発し続ける。
犬蔵の水晶体に、唐突に何かが浮かぶ。それは小さい点のような何か。犬蔵は点のような何かに向かって駆け出す。
何かがあるーーそれは即ち誰かがいるということだ。犬蔵の表情にも笑みが浮かぶ。点が大きくなっていく。徐々に、徐々にーー。そして、それは姿を表す。
犬蔵は急に立ち止まる。面を見て顔を引き吊らせる犬蔵。それはーー
戌亥の面だった。
「どうしてこれが……」
「お前には必要のないモノだからだ」
何者かの声に犬蔵は振り返る。そこにいたのは、丑寅の面をつけた何者か。
「丑寅……!」
「もう十二鬼面にはお前は必要ないのだ」
「バカな……! 確かにおれは一度はしくじったさ。桃のお侍や雉の姉ちゃんたちの手に落ちたさ。だからって、おれはーー」
「だからお前を切るというのだ」
「何だって……」
「お前がこれまで鬼面にもたらして来た数々の災厄を考えればわかることだ」
「そんな……! 確かに、おれは鬼面に迷惑を掛けたかもしれねぇ。だけど、それと同じくらい貢献もしてきたはずだぜ! じゃなきゃ、戌亥の面をつけることもなかったはずだ!」
「それはかつての丑寅がそう決めたことだ。昔ばなしを掘り返したところで、今の自分の立場は良くならない。過去という名の墓穴を掘るだけだ」丑寅は非情なまでにいう。「問題は今の自分がどうあるか、だ。あの頃の働きがどうだったか何ていい出したら、人間、お仕舞いなのだよ、残念ながらな」
犬蔵は奥歯を噛み締める。
「でも……!」
「何度いってもわからないのか、犬蔵」
右脇からの声に、犬蔵の視線も飛ぶ。そこにいたのは、面をつけていない猪之助と戌亥の配下の若い衆たち。
「猪之助……!」
「さっきもいったように、貴様はもう鬼面には必要のないんだ。いい加減、察するんだな」
「そんなバカな……!ーーそうだ、テメェらはどうなんだ、ハッキリしろ!」
犬蔵が配下の者たちに訊ねるも、配下の者たちは犬蔵から顔を叛けて気まずそうに顔を歪めている。
「テメェら……」犬蔵の顔に絶望が刻まれる。「何とかいえ! おれはテメェらをーー」
猪之助たちに飛び掛かろうとする犬蔵ーーだが、それも何かに阻まれる。頭をぶつけ、その場に踞る犬蔵。すぐに立ち上がり、全身で猪之助に飛び掛かるも結果は同じ。それから何度も体当たりをするも何も変わらない。
犬蔵と猪之助以下配下の若い衆たちの間には見えない壁があるようで、いくら何をしてもそれを打ち破ることは出来ないよう。
「無駄な努力はしないことだ」猪之助。「戌亥組と貴様の間には越えようのない壁がある。どう頑張ろうと無駄だ。それが貴様がこれまでしてきたことに対する業なのだからなーーいっておくが、これは丑寅相手でも同じことだ」
「何だって……」
「それだけ貴様には信用がないってことだ」
犬蔵の目元に涙が浮かぶ。唇を噛み締め、拳をグッと握る。だが、犬蔵には返すことばもない。肩をだらりと落として立ち竦む。
「畜生……! 何だってこんな……」
「残念だけど、あたしたちもおんなじだからねぇん! もう関わらないで欲しいのぉ」
背後からの声に犬蔵は肩を落としながら目を向ける。だが、もはや気力は残っていない。
犬蔵の目線の先にいたのは、辰巳と坤。鬼面四天王の残りふたり。いずれも面をつけ、犬蔵からは大きく距離を置いている。
「……畜生、畜生、畜生!」
「残念だけど、アナタは鬼面の一員には相応しくないですね。弱いし、頭も悪いし」坤。
犬蔵はすっかり反論する気力を失っている。目から涙が溢れ落ちる。
「結局、アンタは仲間甲斐のない男なの」右、そこにいたのはお雉と猿田のふたり。「でもまさか、あたしたちのことを仲間だなんて思ってないよね?」
犬蔵に返すことばはない。その場に跪き、地面に涙をボロボロと溢す。
「どうした? 自分に嫌気が差したか」猿田がいう。「残念だが、貴殿は何処に行ってもひとりぼっち。仲間はいない」
一堂のこころないことばに、犬蔵は打ちのめされる。全身を硬直させ、力の入った身体を小刻みに震わせる。
「そういうことだ。お前に与えられた道はふたつにひとつ。みすぼらしく生きるか、孤独に死ぬか、だ」丑寅。「顔を上げろ」
犬蔵はゆっくりと顔を上げる。目の前には丑寅ただひとり。辰巳や坤、猪之助、お雉に猿田はそこからいなくなっていた。そして、すぐ目の前には、白鞘の短刀が一本置かれている。
「その短刀で自害するか、しないか。自分で選ぶことだ。わたしはーー」
犬蔵は勢いよく短刀に飛びついたーー
【続く】
すべてが虚無、すべてが空虚。犬蔵は暗黒の中でただひとり立ち竦んでいる。腰元に刀はない。ボロの着物一丁で、他には何もない。
「誰かいねぇのか?」犬蔵がそう叫ぶも、声が反響するばかりで何も反応はない。「誰かいねぇか!? ここはどこなんだ!」
何度呼び掛けたところで犬蔵の声は霞となって自らの内耳の中へ消えて行く。
「猪之助!」
猪之助の名前を呼ぶもやはり無駄。それから犬蔵はどことなく照れくさそうに、
「……雉の姉ちゃん、桃のお侍」犬蔵は口をモゴモゴさせて、「エテ公……」
だが、犬蔵の呼び掛けに応えるモノは誰ひとりとしていない。犬蔵は歩き出す。暗闇の中、足下の見えない不安定な道を手探りで歩く。その間も声は枯らさないで返答が来るのを待つように発し続ける。
犬蔵の水晶体に、唐突に何かが浮かぶ。それは小さい点のような何か。犬蔵は点のような何かに向かって駆け出す。
何かがあるーーそれは即ち誰かがいるということだ。犬蔵の表情にも笑みが浮かぶ。点が大きくなっていく。徐々に、徐々にーー。そして、それは姿を表す。
犬蔵は急に立ち止まる。面を見て顔を引き吊らせる犬蔵。それはーー
戌亥の面だった。
「どうしてこれが……」
「お前には必要のないモノだからだ」
何者かの声に犬蔵は振り返る。そこにいたのは、丑寅の面をつけた何者か。
「丑寅……!」
「もう十二鬼面にはお前は必要ないのだ」
「バカな……! 確かにおれは一度はしくじったさ。桃のお侍や雉の姉ちゃんたちの手に落ちたさ。だからって、おれはーー」
「だからお前を切るというのだ」
「何だって……」
「お前がこれまで鬼面にもたらして来た数々の災厄を考えればわかることだ」
「そんな……! 確かに、おれは鬼面に迷惑を掛けたかもしれねぇ。だけど、それと同じくらい貢献もしてきたはずだぜ! じゃなきゃ、戌亥の面をつけることもなかったはずだ!」
「それはかつての丑寅がそう決めたことだ。昔ばなしを掘り返したところで、今の自分の立場は良くならない。過去という名の墓穴を掘るだけだ」丑寅は非情なまでにいう。「問題は今の自分がどうあるか、だ。あの頃の働きがどうだったか何ていい出したら、人間、お仕舞いなのだよ、残念ながらな」
犬蔵は奥歯を噛み締める。
「でも……!」
「何度いってもわからないのか、犬蔵」
右脇からの声に、犬蔵の視線も飛ぶ。そこにいたのは、面をつけていない猪之助と戌亥の配下の若い衆たち。
「猪之助……!」
「さっきもいったように、貴様はもう鬼面には必要のないんだ。いい加減、察するんだな」
「そんなバカな……!ーーそうだ、テメェらはどうなんだ、ハッキリしろ!」
犬蔵が配下の者たちに訊ねるも、配下の者たちは犬蔵から顔を叛けて気まずそうに顔を歪めている。
「テメェら……」犬蔵の顔に絶望が刻まれる。「何とかいえ! おれはテメェらをーー」
猪之助たちに飛び掛かろうとする犬蔵ーーだが、それも何かに阻まれる。頭をぶつけ、その場に踞る犬蔵。すぐに立ち上がり、全身で猪之助に飛び掛かるも結果は同じ。それから何度も体当たりをするも何も変わらない。
犬蔵と猪之助以下配下の若い衆たちの間には見えない壁があるようで、いくら何をしてもそれを打ち破ることは出来ないよう。
「無駄な努力はしないことだ」猪之助。「戌亥組と貴様の間には越えようのない壁がある。どう頑張ろうと無駄だ。それが貴様がこれまでしてきたことに対する業なのだからなーーいっておくが、これは丑寅相手でも同じことだ」
「何だって……」
「それだけ貴様には信用がないってことだ」
犬蔵の目元に涙が浮かぶ。唇を噛み締め、拳をグッと握る。だが、犬蔵には返すことばもない。肩をだらりと落として立ち竦む。
「畜生……! 何だってこんな……」
「残念だけど、あたしたちもおんなじだからねぇん! もう関わらないで欲しいのぉ」
背後からの声に犬蔵は肩を落としながら目を向ける。だが、もはや気力は残っていない。
犬蔵の目線の先にいたのは、辰巳と坤。鬼面四天王の残りふたり。いずれも面をつけ、犬蔵からは大きく距離を置いている。
「……畜生、畜生、畜生!」
「残念だけど、アナタは鬼面の一員には相応しくないですね。弱いし、頭も悪いし」坤。
犬蔵はすっかり反論する気力を失っている。目から涙が溢れ落ちる。
「結局、アンタは仲間甲斐のない男なの」右、そこにいたのはお雉と猿田のふたり。「でもまさか、あたしたちのことを仲間だなんて思ってないよね?」
犬蔵に返すことばはない。その場に跪き、地面に涙をボロボロと溢す。
「どうした? 自分に嫌気が差したか」猿田がいう。「残念だが、貴殿は何処に行ってもひとりぼっち。仲間はいない」
一堂のこころないことばに、犬蔵は打ちのめされる。全身を硬直させ、力の入った身体を小刻みに震わせる。
「そういうことだ。お前に与えられた道はふたつにひとつ。みすぼらしく生きるか、孤独に死ぬか、だ」丑寅。「顔を上げろ」
犬蔵はゆっくりと顔を上げる。目の前には丑寅ただひとり。辰巳や坤、猪之助、お雉に猿田はそこからいなくなっていた。そして、すぐ目の前には、白鞘の短刀が一本置かれている。
「その短刀で自害するか、しないか。自分で選ぶことだ。わたしはーー」
犬蔵は勢いよく短刀に飛びついたーー
【続く】