【丑寅は静かに嗤う~対面】
文字数 3,468文字
空気のような夜。
屋敷の中庭から響く虫の鳴く音は、平穏さを演出しているようで逆に緊迫した雰囲気を与えているよう。その屋敷の一室の障子から漏れる明かりに、ふたつの人影が写る。
ふたつの影ーー桃川とお雉だ。
室内は旗本屋敷ということもあってよく片付き、荘厳とした雰囲気を放っている。広い畳張りの室内には、掛け軸がひとつと観葉の花が一輪置かれているだけで、他にはふたりの座る座布団ぐらいしかない。
「猿田さんは大丈夫でしょうか?」桃川がいう。だが、その表情は何処か乾いており、猿田を心配しているようには見えない。
「大丈夫だよ。旗本とのやり取りだったら、猿ちゃんは慣れてるから」お雉がこれっぽっちの不安もないといった様子でいう。
「それならいいんですが。でも、猿田さんはどうしてこんな旗本屋敷を訪ねることにしたのでしょう?」
「多分、野宿よりかは安全だから、と思ったんじゃないかな。それにーー」
ふたりが話している最中、別の部屋の障子にもふたり分の人影が向かい合って座っているのが見えている。そのひとりは猿田であり、もうひとりは常陸国の旗本、大鳥平兵衛だ。
大鳥平兵衛は年齢的にいえば五十に届くか否かといった様子で、その身体は幾分肥満している。口許と鼻の間にはよく整えられた髭が生やされており、腰元には脇差が差してある。細長い目に小さな口は猿田を歓迎するように緩んでいる。
「やや、お主が常陸の国へ来ようとしていたというお方か。確か、猿田、源之助殿だったか」
「お見知りおき、感謝致します」
猿田は深々と土下座をする。勧められた座布団は左に退かされ、右側には牙を引っ込めた『狂犬』が静かに寝息を立てている。
「いやぁ、いやぁ。牛野から話は聞いているよ。危ないところをお侍さんに助けてもらったそうだね」
「えぇ……。その節は本当に助かりまして」
「この常陸の国も決して安心できる場所とはいいがたい。水戸藩を追放された荒くれが常陸との狭間を彷徨いているし、国内も大平とはいいがたい。お主はついておったのだろう」
「その通りでございます」
猿田は再び深々と土下座をする。が、その目は頭を伏しながらも様々な方向へ飛んでいる。
まず、大鳥のうしろに置かれた屏風。だが、見た目でいえば、何処となく造りが粗雑というか、あまり高価には見えない。また屏風から襖まで、隙間が幾分開いている。
次に障子だ。他の部屋の障子に使われている紙は、間違いなく上質なモノだったが、この部屋の障子紙は何となくザラついており、明らかに品質が劣っているのがわかる。
あとは壁だ。流石に壁の造りが粗末ということはないが、注意の行き届きにくい隅にはくすんだ汚れが残っており、かつ、所々に小さな傷がついているのがわかる。
「いやいや、そんなに頭を下げずともよい。遠慮せず面を上げておくれ」大鳥の朗らかな声。
「いえ、わたしのような何処の馬の骨ともわからないような安浪人がお殿様の前に堂々と面を見せるようなマネはーー」
大鳥は愉快そうに笑う。
「こりゃまたよく出来たお心掛けだのう。しかし、そんなことは仰らずに、面を上げて下され。そのままでいると、まるでお主が面を見られては困るような身分に思われてしまう」
最後のひとことは朗らかな調子でありながら、どこか冷ややかな趣があった。
猿田の表情が強張る。
「……そう仰られますなら」
そういって猿田はゆっくりと顔を上げると、大鳥はにこやかな笑みを見せ、
「やっと面を見せてくれたな。こちらとしても余り上下をつけて話をするのは苦手でな。相手が町人であろうと浪人であろうと、出来ることなら対等に話して行きたいのだ」
「対等に、ですか」
「そうだ。そうでもなければ、相手も居心地が悪いだろうし、肩身も狭いというモノだ」
「……それもそうかもしれませんね」
「しかし、お主たちはどうしてあんな雑多な森の中を通っていたのだ? 街道沿いを行ったほうが安全だと思うのだが」
「街道は街道で危険はつきものです。開けた場での乱戦は、敵が多ければ多いほどに不利です。逆に雑多な場所は自分も不利ではありますが、仲間が多いほど敵も戦いづらくなります」
「ほう。そうかのう。ワシは敵が多ければ、それはそれで不利には変わりないと思うが」
「見通しの悪く、障害の多い場所は同士討ちを誘いやすくなりますし、敵もそこを意識する上、悪条件に注意を向けて行動が一瞬遅れがちになります。だとしたら、有利だと思っているほうが、逆に不利になる」
「……うむ。なるほど。しかし、こうは考えられぬか。街道を避けるということは、表を歩くことを無意識に避けている、と」
「……どういう意味でしょう」
「深い意味はない」
「……では、その屏風の裏にふたり、襖の裏にいるふたりの控えも深い意味はないと仰るんで?」
静寂ーー緊張感が音となって響き渡る。先に声を放ったのは、大鳥だったーー
「それはどういう意味かな?」
「その屏風と障子紙です。あまりに粗末すぎる。しかも、屏風の裏には人が入れるほどの隙間がある。ひとりでは心許ない。まず腕が立つ者をふたりは配置する。それに襖の奥に二名というのは更なる控えです。あと、ここからは見えませんが、障子の付近にも控えがいるはず」
「……確かに屏風の隙間のことはその通りかもしれない。だが、屏風や障子神の粗末さでどうしてそう思った?」
「屏風に関しては他の部屋のモノを見たわけではありませんが、障子紙に関しては明らかにこの部屋だけザラついて質が落ちています。これは、いくらでも替えが効くように安物を使っていると見受けられます。では、何故そんなに替えが必要なのか。それは血飛沫で汚れるからです。これといってモノがないのもそのためでしょうし、部屋の隅には赤黒いシミが残っている。おまけに壁には僅かながら刀傷も」
「……はっは。素晴らしい。これ、出て参れ」
大鳥がいうと、屏風の裏から二名、障子が開き、上下からそれぞれ二名、襖が開いてそこから二名の計八名の侍が室内に入ってくる。
「お主にはかたじけないことをしたと思う。旅の者とはいえ、相手がどのような者かもわからぬのでな。しかし、その鋭いご判断、お主もただ者ではござらんな」
「いえ、単なるすかんピンでございます」
「そうか。お前たち下がってよい。わたしは少しこの方とお話したいことがある」大鳥がいうと、侍たちは困惑する。「心配するな。わたしが殺されて主らが仇を打とうとしても、主たちでは敵わないだろう。それに、このお方はそのようなことをするような悪人ではないだろう」
悪人ではない。そう断言する大鳥を、猿田はどういうことかといった目で見る。
控えの侍たちがその場から消えていく。すべての侍が姿を消して少しして大鳥は口を開く。
「さて、改めてこんなことを聞くのはどうかと思うのだが、お名前は猿田、源之助殿と仰るのだな?」猿田はゆっくりと頷く。「そうか。ということは、松平天馬殿はご存知だな」
猿田は表情ひとつ変えずに大鳥を見る。
「松平、天馬。どなたでしょうか」
「とぼけずともいい。わたしはお主と本音で話がしたいのだ。だが、お主も余りこの話はしたくないかもしれないだろうからわたしもここからは独り言を話す。気にしないでおくれ」
猿田は相槌を打つこともなく静かに大鳥を見る。
「……松平天馬はかつて川越藩に存在した直参旗本のひとりで、人柄も良く、町民からは非常に愛された。だが、そんな天馬にはあるウワサがあった。というのも、松平天馬が『川越天誅屋』と呼ばれる暗殺者集団の元締であるということだ。そして、その中のひとりが、髷を結わず、髪をうしろで撫で付けただけの侍だったと聞く。そして、その侍の名が、猿田源之助」
「……知ってらしたのですか」
「いつぞやだったか、常陸国の大名が暗殺されたことがあった。その大名は横暴で町人を苦しめていたこともあってな、誰かが天誅屋のウワサをその大名の暗殺を松平天馬に殺されて当然だとは思っていた。その時の暗殺を依頼したのが、わたしだ。わたしは依頼のために天馬の屋敷を訪れた。そして、天馬殿の屋敷にひとりの浪人が居候しているの知ったのだ」
猿田は何もいわず、何の反応も見せない。
「だが、天馬はその後、屋敷ごと襲撃を受けて死んだ。まぁ、あのような裏の稼業を営む者としては仕方がない最期だったのかもしれない。天馬の死と共に天誅屋のウワサも途絶えた。だが、そんな天誅屋に生き残りがいるとのウワサが新たに出始めたーー」
猿田の顔は依然として無のままだった。
【続く】
屋敷の中庭から響く虫の鳴く音は、平穏さを演出しているようで逆に緊迫した雰囲気を与えているよう。その屋敷の一室の障子から漏れる明かりに、ふたつの人影が写る。
ふたつの影ーー桃川とお雉だ。
室内は旗本屋敷ということもあってよく片付き、荘厳とした雰囲気を放っている。広い畳張りの室内には、掛け軸がひとつと観葉の花が一輪置かれているだけで、他にはふたりの座る座布団ぐらいしかない。
「猿田さんは大丈夫でしょうか?」桃川がいう。だが、その表情は何処か乾いており、猿田を心配しているようには見えない。
「大丈夫だよ。旗本とのやり取りだったら、猿ちゃんは慣れてるから」お雉がこれっぽっちの不安もないといった様子でいう。
「それならいいんですが。でも、猿田さんはどうしてこんな旗本屋敷を訪ねることにしたのでしょう?」
「多分、野宿よりかは安全だから、と思ったんじゃないかな。それにーー」
ふたりが話している最中、別の部屋の障子にもふたり分の人影が向かい合って座っているのが見えている。そのひとりは猿田であり、もうひとりは常陸国の旗本、大鳥平兵衛だ。
大鳥平兵衛は年齢的にいえば五十に届くか否かといった様子で、その身体は幾分肥満している。口許と鼻の間にはよく整えられた髭が生やされており、腰元には脇差が差してある。細長い目に小さな口は猿田を歓迎するように緩んでいる。
「やや、お主が常陸の国へ来ようとしていたというお方か。確か、猿田、源之助殿だったか」
「お見知りおき、感謝致します」
猿田は深々と土下座をする。勧められた座布団は左に退かされ、右側には牙を引っ込めた『狂犬』が静かに寝息を立てている。
「いやぁ、いやぁ。牛野から話は聞いているよ。危ないところをお侍さんに助けてもらったそうだね」
「えぇ……。その節は本当に助かりまして」
「この常陸の国も決して安心できる場所とはいいがたい。水戸藩を追放された荒くれが常陸との狭間を彷徨いているし、国内も大平とはいいがたい。お主はついておったのだろう」
「その通りでございます」
猿田は再び深々と土下座をする。が、その目は頭を伏しながらも様々な方向へ飛んでいる。
まず、大鳥のうしろに置かれた屏風。だが、見た目でいえば、何処となく造りが粗雑というか、あまり高価には見えない。また屏風から襖まで、隙間が幾分開いている。
次に障子だ。他の部屋の障子に使われている紙は、間違いなく上質なモノだったが、この部屋の障子紙は何となくザラついており、明らかに品質が劣っているのがわかる。
あとは壁だ。流石に壁の造りが粗末ということはないが、注意の行き届きにくい隅にはくすんだ汚れが残っており、かつ、所々に小さな傷がついているのがわかる。
「いやいや、そんなに頭を下げずともよい。遠慮せず面を上げておくれ」大鳥の朗らかな声。
「いえ、わたしのような何処の馬の骨ともわからないような安浪人がお殿様の前に堂々と面を見せるようなマネはーー」
大鳥は愉快そうに笑う。
「こりゃまたよく出来たお心掛けだのう。しかし、そんなことは仰らずに、面を上げて下され。そのままでいると、まるでお主が面を見られては困るような身分に思われてしまう」
最後のひとことは朗らかな調子でありながら、どこか冷ややかな趣があった。
猿田の表情が強張る。
「……そう仰られますなら」
そういって猿田はゆっくりと顔を上げると、大鳥はにこやかな笑みを見せ、
「やっと面を見せてくれたな。こちらとしても余り上下をつけて話をするのは苦手でな。相手が町人であろうと浪人であろうと、出来ることなら対等に話して行きたいのだ」
「対等に、ですか」
「そうだ。そうでもなければ、相手も居心地が悪いだろうし、肩身も狭いというモノだ」
「……それもそうかもしれませんね」
「しかし、お主たちはどうしてあんな雑多な森の中を通っていたのだ? 街道沿いを行ったほうが安全だと思うのだが」
「街道は街道で危険はつきものです。開けた場での乱戦は、敵が多ければ多いほどに不利です。逆に雑多な場所は自分も不利ではありますが、仲間が多いほど敵も戦いづらくなります」
「ほう。そうかのう。ワシは敵が多ければ、それはそれで不利には変わりないと思うが」
「見通しの悪く、障害の多い場所は同士討ちを誘いやすくなりますし、敵もそこを意識する上、悪条件に注意を向けて行動が一瞬遅れがちになります。だとしたら、有利だと思っているほうが、逆に不利になる」
「……うむ。なるほど。しかし、こうは考えられぬか。街道を避けるということは、表を歩くことを無意識に避けている、と」
「……どういう意味でしょう」
「深い意味はない」
「……では、その屏風の裏にふたり、襖の裏にいるふたりの控えも深い意味はないと仰るんで?」
静寂ーー緊張感が音となって響き渡る。先に声を放ったのは、大鳥だったーー
「それはどういう意味かな?」
「その屏風と障子紙です。あまりに粗末すぎる。しかも、屏風の裏には人が入れるほどの隙間がある。ひとりでは心許ない。まず腕が立つ者をふたりは配置する。それに襖の奥に二名というのは更なる控えです。あと、ここからは見えませんが、障子の付近にも控えがいるはず」
「……確かに屏風の隙間のことはその通りかもしれない。だが、屏風や障子神の粗末さでどうしてそう思った?」
「屏風に関しては他の部屋のモノを見たわけではありませんが、障子紙に関しては明らかにこの部屋だけザラついて質が落ちています。これは、いくらでも替えが効くように安物を使っていると見受けられます。では、何故そんなに替えが必要なのか。それは血飛沫で汚れるからです。これといってモノがないのもそのためでしょうし、部屋の隅には赤黒いシミが残っている。おまけに壁には僅かながら刀傷も」
「……はっは。素晴らしい。これ、出て参れ」
大鳥がいうと、屏風の裏から二名、障子が開き、上下からそれぞれ二名、襖が開いてそこから二名の計八名の侍が室内に入ってくる。
「お主にはかたじけないことをしたと思う。旅の者とはいえ、相手がどのような者かもわからぬのでな。しかし、その鋭いご判断、お主もただ者ではござらんな」
「いえ、単なるすかんピンでございます」
「そうか。お前たち下がってよい。わたしは少しこの方とお話したいことがある」大鳥がいうと、侍たちは困惑する。「心配するな。わたしが殺されて主らが仇を打とうとしても、主たちでは敵わないだろう。それに、このお方はそのようなことをするような悪人ではないだろう」
悪人ではない。そう断言する大鳥を、猿田はどういうことかといった目で見る。
控えの侍たちがその場から消えていく。すべての侍が姿を消して少しして大鳥は口を開く。
「さて、改めてこんなことを聞くのはどうかと思うのだが、お名前は猿田、源之助殿と仰るのだな?」猿田はゆっくりと頷く。「そうか。ということは、松平天馬殿はご存知だな」
猿田は表情ひとつ変えずに大鳥を見る。
「松平、天馬。どなたでしょうか」
「とぼけずともいい。わたしはお主と本音で話がしたいのだ。だが、お主も余りこの話はしたくないかもしれないだろうからわたしもここからは独り言を話す。気にしないでおくれ」
猿田は相槌を打つこともなく静かに大鳥を見る。
「……松平天馬はかつて川越藩に存在した直参旗本のひとりで、人柄も良く、町民からは非常に愛された。だが、そんな天馬にはあるウワサがあった。というのも、松平天馬が『川越天誅屋』と呼ばれる暗殺者集団の元締であるということだ。そして、その中のひとりが、髷を結わず、髪をうしろで撫で付けただけの侍だったと聞く。そして、その侍の名が、猿田源之助」
「……知ってらしたのですか」
「いつぞやだったか、常陸国の大名が暗殺されたことがあった。その大名は横暴で町人を苦しめていたこともあってな、誰かが天誅屋のウワサをその大名の暗殺を松平天馬に殺されて当然だとは思っていた。その時の暗殺を依頼したのが、わたしだ。わたしは依頼のために天馬の屋敷を訪れた。そして、天馬殿の屋敷にひとりの浪人が居候しているの知ったのだ」
猿田は何もいわず、何の反応も見せない。
「だが、天馬はその後、屋敷ごと襲撃を受けて死んだ。まぁ、あのような裏の稼業を営む者としては仕方がない最期だったのかもしれない。天馬の死と共に天誅屋のウワサも途絶えた。だが、そんな天誅屋に生き残りがいるとのウワサが新たに出始めたーー」
猿田の顔は依然として無のままだった。
【続く】