【丑寅は静かに嗤う~小娘】
文字数 2,397文字
遠い過去の記憶ーーいや、もしかしたらそれはもっと近いモノだったかもしれない。
幼い頃、わずかながらに残っている大人の男女の姿がそこにはある。ふたりは自分の顔を覗き込んで、朗らかなまるで太陽のような暖かい笑みを浮かべている。
かと思いきや、ふたりは自分の頬を軽く触ったり、手のひらを軽く押したりして来る。そんな行動に抵抗するように、男の指をギュッと掴んで見せる。だが、男は苦痛に顔を歪めるどころか、逆に喜びを増すばかりだ。そして、それは女のほうも同様だった。
ことばを以て何かを話そうとしても、自分にことばという道具はない。
未発達な声帯に、ことばを知らない頭。何とかして自分の意思、自分の存在を訴え掛けようとするも、出来ることといえば、ことばにならないことばで喚くことくらい。
だが、いつからか、そのふたりの男女はいなくなった。そして、代わりに自分を抱くのは優しさが顔に刻まれた好好爺。
好好爺は自分の親となり、今日の今日まで、しっかりと自分を育て上げてくれた。
大好きな好好爺ーーだが、そんな好好爺の姿が消えようとしている。蜃気楼のようにゆらめき、全体像が霧に包まれるようにして。
大切な日常が何者かによって奪われそうになっている。取るに足らない日常、だが儚くも大切な日常。そんな現実が奪われようとーー
突然、目が覚める。
見覚えのない光景が水晶体に広がる。たくさんの女たち。みな衰弱し、両膝を抱えて俯いて座る者もあれば、木で出来た格子に手を掛けてここから出すように訴え掛けている者もいる。
自分はどうしてここにいるのだろう。朧気な記憶が靄のように浮かび上がる。
寺の敷地内、突然現れた丑と寅の面を被った何者かの姿。そして、その周りには丑の面と寅の面を被った者たちの姿がある。
どうしようーーそう口走ったのは覚えている。だが、そこからの記憶は吹き上がる砂塵のように曖昧で大雑把にしか残っていない。
刀を持った丑の面と寅の面の盗賊たち。
好好爺は丑の面に刀を突き付けられ、自分は寅の面を被ったふたり組に両腕を取られて身動きが出来ない。必死に振りほどこうとするも、力が強くてそれも叶わない。
目の前に歩み寄って来る丑寅の面。娘には何もしないでくれ、と好好爺が訴える。
「殺しはしない」
丑寅の面がそういった。何処かで聴いたような声だった。えっ、と不思議に思っていると、突然腹部に衝撃が走った。
息が苦しくなり、世界が大きく揺らいだ。地面が崩れ落ちていくように、足許が朧気になった。だが、ふたり組に支えられている所為で倒れることも出来なかった。
「主は……」
消え行く意識の中で、そんな風にいう好好爺の声が聴こえた気がした。最後に映ったのは、好好爺の血の気の引いたような引き吊った顔。
漸く記憶が戻って来た。よく見れば、そこにいる女性たちは見知った者の姿もある。そんな彼女たちの名前を呼びながら、彼女たちの身に寄り添おうとする。だが、泣くばかりでまともに受け答えられないよう。
格子際に駆け寄り、木材が折れんばかりの勢いで格子を掴むと、
「ちょっと、どうしてこんなことされなきゃいけないの? ここから出して……」
だが、ことばと共に気勢は削がれていく。黒い瞳に映ったそれは、見覚えのある姿ーーいや、その造形はわずかだが違う。
申の形をした面の者と未の形をした面を被った者がそこにはいる。丑と寅の面の者たちとは違うとはわかっても、格子の向こう側にいるふたりが、その面の者たちと同類だとわかる。
「お京ちゃん!」聞き覚えのある声。「ダメだよ、この人たちを刺激しちゃぁさぁ!」
酒場の店主、お馬だ。格子に引っ付いているお京の肩に手を掛けて、何とか宥めようとしている。
「お馬さん……」
「さ、いいから刃を納めて、さーーいやぁ、どうもごめんなさいねぇ」
お京はお馬に促され、牢の奥へと向かう。
「……どうして止めるんですか? いつものお馬さんだったら、真っ先にあの人たちに向かって行くと思ったのに」
「状況を考えてみな。今、あたしたちは囚われの身。いくら威勢良くヤツラに突っ掛かったところで、斬り殺されて終わり。ここは機会を伺うんだ。絶対に何とかなる」
「……そうはいってもーー」
「ここは耐えるんだよ。きっと桃川さんたちが助けに来てくれるから!」
「桃川さんたち、が?」
「うん、絶対に来てくれるよ!」
お京は複雑そうな表情を浮かべて俯く。
「……どうして、そんなこといえるんです?」
「え?」
「確かに桃川さんが助けに来てくれるのなら嬉しい限りです。でも、敵はたくさんいるし、桃川さんひとりでこのどうなっているかもわからない、何処の何処かもわからない場所にどうやってたどり着いて、どうやって戦えばいいんです? いくら剣の達人だからといって、あれだけの数を相手にするのはーーそれに、今、『桃川さんたち』といいましたけど、あの村で、桃川さん以外に、誰が戦えるというんです……」
お馬はフッと笑って見せる。
「それなら心配ない。眠っていた侍の血を呼び起こしたヤツがいるからね」
「眠っていた、侍の血……?」
「猿田さんだよ」
「猿田さんが? でも、猿田さんは……。それに、猿田さんが加勢したとしてもーー」
突然、ドサッという音が響く。お京とお馬がそちらを向くとーー
「源之助様……」格子の向こう側、坤が呆然と立ち尽くしている。「……やはり、来られてしまうのですね」
坤の足許が飛び散った汁物で汚れる。だが、坤はそんなことには気づかないともいわんばかりに佇んでいる。見張りのふたりが坤に大事を訊ねるが、反応はない。そうして更に二度、三度声を掛けて漸く坤は、
「え、……あぁ、いえ、何でもありません。ちょっと、そこのおふたり、よろしいですか?」
坤が声を掛けたのは紛れもないお京とお馬だった。ふたりの顔に緊張が走った。
【続く】
幼い頃、わずかながらに残っている大人の男女の姿がそこにはある。ふたりは自分の顔を覗き込んで、朗らかなまるで太陽のような暖かい笑みを浮かべている。
かと思いきや、ふたりは自分の頬を軽く触ったり、手のひらを軽く押したりして来る。そんな行動に抵抗するように、男の指をギュッと掴んで見せる。だが、男は苦痛に顔を歪めるどころか、逆に喜びを増すばかりだ。そして、それは女のほうも同様だった。
ことばを以て何かを話そうとしても、自分にことばという道具はない。
未発達な声帯に、ことばを知らない頭。何とかして自分の意思、自分の存在を訴え掛けようとするも、出来ることといえば、ことばにならないことばで喚くことくらい。
だが、いつからか、そのふたりの男女はいなくなった。そして、代わりに自分を抱くのは優しさが顔に刻まれた好好爺。
好好爺は自分の親となり、今日の今日まで、しっかりと自分を育て上げてくれた。
大好きな好好爺ーーだが、そんな好好爺の姿が消えようとしている。蜃気楼のようにゆらめき、全体像が霧に包まれるようにして。
大切な日常が何者かによって奪われそうになっている。取るに足らない日常、だが儚くも大切な日常。そんな現実が奪われようとーー
突然、目が覚める。
見覚えのない光景が水晶体に広がる。たくさんの女たち。みな衰弱し、両膝を抱えて俯いて座る者もあれば、木で出来た格子に手を掛けてここから出すように訴え掛けている者もいる。
自分はどうしてここにいるのだろう。朧気な記憶が靄のように浮かび上がる。
寺の敷地内、突然現れた丑と寅の面を被った何者かの姿。そして、その周りには丑の面と寅の面を被った者たちの姿がある。
どうしようーーそう口走ったのは覚えている。だが、そこからの記憶は吹き上がる砂塵のように曖昧で大雑把にしか残っていない。
刀を持った丑の面と寅の面の盗賊たち。
好好爺は丑の面に刀を突き付けられ、自分は寅の面を被ったふたり組に両腕を取られて身動きが出来ない。必死に振りほどこうとするも、力が強くてそれも叶わない。
目の前に歩み寄って来る丑寅の面。娘には何もしないでくれ、と好好爺が訴える。
「殺しはしない」
丑寅の面がそういった。何処かで聴いたような声だった。えっ、と不思議に思っていると、突然腹部に衝撃が走った。
息が苦しくなり、世界が大きく揺らいだ。地面が崩れ落ちていくように、足許が朧気になった。だが、ふたり組に支えられている所為で倒れることも出来なかった。
「主は……」
消え行く意識の中で、そんな風にいう好好爺の声が聴こえた気がした。最後に映ったのは、好好爺の血の気の引いたような引き吊った顔。
漸く記憶が戻って来た。よく見れば、そこにいる女性たちは見知った者の姿もある。そんな彼女たちの名前を呼びながら、彼女たちの身に寄り添おうとする。だが、泣くばかりでまともに受け答えられないよう。
格子際に駆け寄り、木材が折れんばかりの勢いで格子を掴むと、
「ちょっと、どうしてこんなことされなきゃいけないの? ここから出して……」
だが、ことばと共に気勢は削がれていく。黒い瞳に映ったそれは、見覚えのある姿ーーいや、その造形はわずかだが違う。
申の形をした面の者と未の形をした面を被った者がそこにはいる。丑と寅の面の者たちとは違うとはわかっても、格子の向こう側にいるふたりが、その面の者たちと同類だとわかる。
「お京ちゃん!」聞き覚えのある声。「ダメだよ、この人たちを刺激しちゃぁさぁ!」
酒場の店主、お馬だ。格子に引っ付いているお京の肩に手を掛けて、何とか宥めようとしている。
「お馬さん……」
「さ、いいから刃を納めて、さーーいやぁ、どうもごめんなさいねぇ」
お京はお馬に促され、牢の奥へと向かう。
「……どうして止めるんですか? いつものお馬さんだったら、真っ先にあの人たちに向かって行くと思ったのに」
「状況を考えてみな。今、あたしたちは囚われの身。いくら威勢良くヤツラに突っ掛かったところで、斬り殺されて終わり。ここは機会を伺うんだ。絶対に何とかなる」
「……そうはいってもーー」
「ここは耐えるんだよ。きっと桃川さんたちが助けに来てくれるから!」
「桃川さんたち、が?」
「うん、絶対に来てくれるよ!」
お京は複雑そうな表情を浮かべて俯く。
「……どうして、そんなこといえるんです?」
「え?」
「確かに桃川さんが助けに来てくれるのなら嬉しい限りです。でも、敵はたくさんいるし、桃川さんひとりでこのどうなっているかもわからない、何処の何処かもわからない場所にどうやってたどり着いて、どうやって戦えばいいんです? いくら剣の達人だからといって、あれだけの数を相手にするのはーーそれに、今、『桃川さんたち』といいましたけど、あの村で、桃川さん以外に、誰が戦えるというんです……」
お馬はフッと笑って見せる。
「それなら心配ない。眠っていた侍の血を呼び起こしたヤツがいるからね」
「眠っていた、侍の血……?」
「猿田さんだよ」
「猿田さんが? でも、猿田さんは……。それに、猿田さんが加勢したとしてもーー」
突然、ドサッという音が響く。お京とお馬がそちらを向くとーー
「源之助様……」格子の向こう側、坤が呆然と立ち尽くしている。「……やはり、来られてしまうのですね」
坤の足許が飛び散った汁物で汚れる。だが、坤はそんなことには気づかないともいわんばかりに佇んでいる。見張りのふたりが坤に大事を訊ねるが、反応はない。そうして更に二度、三度声を掛けて漸く坤は、
「え、……あぁ、いえ、何でもありません。ちょっと、そこのおふたり、よろしいですか?」
坤が声を掛けたのは紛れもないお京とお馬だった。ふたりの顔に緊張が走った。
【続く】