【藪医者放浪記~拾漆~】
文字数 2,187文字
時の流れは時に残酷な結果を残す。
それは当たり前のように過ごした日々を覆し、悪夢のような現実を突き付けるからだ。
人は生きている限り、進歩するか退化する運命にある。現状を維持しようとしても、結局は年とともに衰退していき、気づけばそこにあるのは残骸だけというのも普通にある。
だが、進歩はしつつも退化もしている、何てことも普通にある。それはある一点でいえば鬼のような腕前を持っている代わりに、他の点はすべて犠牲にされてしまっているというようなことがそうだろう。実際、人は何かを得るには別の何かを犠牲にしなければならない。
だが、それが技術と引き換えに人徳や人格を犠牲にしたのだとすればどうだろう。
寅三郎は目を見開く。目の前の光景に対して信じられない、というより信じたくないとでもいわんばかりの表情を浮かべ、口をぽっかりと開いている。
「これは……、どういうことだ?」
藤十郎はそう呟きつつ、寅三郎と屋敷から出て来た男を見比べる。藤十郎がそうしたのも無理はないのだろう。
「久しぶりだな。……寅だろ?」
屋敷から出て来た男はニヤリと笑う。対照的に寅三郎の表情は非常に険しい。
「馬乃助、か……」
馬乃助。寅三郎がそう呟くとヤクザも藤十郎の従者もみな、ハッとしてふたりを見る。そう、屋敷から出てきたのは牛野馬乃助、その名を『牛馬』と呼ばれ恐れられる鬼だ。
ただ、その存在は全国的には知られてはいない。全国で名を轟かせてしまっては、必ず何処かで足止めを食らい、お縄になる。牛馬は敢えて自分の名を轟かせ過ぎないように、自分の存在を知る者たちのことはほぼほぼ葬って来た。だからこそ、民衆や奉行所には名前が知られずに済んでいた。
とはいえ、それは表だけの話であって、裏、ヤクザ者たちにはその名前は何となく知られたモノであったのはいうまでもない。
そして、その名前を知っていたのは、武家の人間でもいた、ということだ。
「……貴様のことは聴いている」と寅三郎。
「あ? 貴様だぁ?」牛馬。「誰に向かって口をきいてんだよ、テメエは」
その問いに対し、寅三郎は息をごくりと飲み込んでから答える。まるで、何かを決心し、それを意識の中に落とし込もうとするように。
「……わたしの弟に、だ」
弟、ということばが大層衝撃的に響いたのだろう、その場にいる者たちはみな声を大小上げることとなった。
「どういうことだ牛野……?」藤十郎が訊く。
「おい、『牛野』ってのはそこにいる野郎だけのことじゃねぇんたぜ。おれかソイツかハッキリして貰いてぇモンだがな」
牛馬は藤十郎を挑発するようにいう。ヤクザの用心棒に成り下がった浪人風情が武家の跡継ぎとなる男にきいていい口ではないのはいうまでもない。命知らず。牛馬は全身から自分の死をこころ待ちにしているとでもいうような不気味な雰囲気を漂わせている。
寅三郎は藤十郎を庇う。
「馬、無礼な口をきくな」
「何が無礼だよ。所詮は権力の笠に守られただけのボンボンだろ? そんなガキひとりで何ができるってんだよ」
牛馬のことばは藤十郎の配下たちを刺激する。
「無礼な! こちらにおわす方をどなたとこころ得る!? 寅三郎殿の御兄弟であろうと」
「あろうと、何だ?」
まったく萎縮しない牛馬に、藤十郎の配下たちも奥歯を噛み締めてうしろじさる。その刀を持つ手は震えている。だが、牛馬に緊張は見えない。むしろ全身から無駄な力が抜け、今にも身体を疾風と同化させてしまいそう。
「来いよ、カス共」
牛馬のことばに藤十郎の配下たちはハッとする。牛馬は表情なくしてことばを継ぐ。
「来いっていってんだろ。右手に握ってんのは金玉か? 安心しろよ。テメエらが来るまで刀は抜かないでやるよ」
そのことばでなし崩しとなる。残った藤十郎の配下たちは一気に突撃していく。藤十郎の止めるよういう命など、もはや耳には届かない。
かまいたち、そう形容すべきだったに違いない。
牛馬は刀を納めたままだった。が、気づけば牛馬の背後には数人の刀を抜いた藤十郎の配下たちがいた。呻き声。残された藤十郎の配下たちがみな、その場にて血を流して倒れた。
「何だ、アレは……!」藤十郎は声を漏らす。
「また上手くなったのか……」寅三郎はいう。「鞘の中。刀を抜かずして勝つことこそ究極の居合。だが、お前はあたかも刀を抜かなかったかのようにして人を切るというのか」
「そういうことだ」牛馬は当たり前のようにいう。「さて、そろそろ決着をつける時が来たかな?」
緊張する寅三郎の表情。やはり刀を握る手は力が入り過ぎていてブルブルに震えている。そして、脚も。だが、ここまで蚊帳の外となっていた銀次の配下たちもイキって寅三郎と藤十郎に仕掛けて行こうとする。
「うるせぇ」牛馬がイキる銀次の配下にいう。「いくらコイツが雑魚とはいえ、テメェら三下風情じゃ勝てねえんだよ。黙りな」
「何だと!?」
いくら用心棒とはいえ、所詮は外様、流れ者にすぎない牛馬に対して銀次の配下たちは突っ掛かって行く。が、それも一瞬のこと。次の瞬間には銀次の配下はみな血溜まりを作って地面に倒れていた。牛馬が大きく息を吐く。
「……さて、これで同じか。ふたりで掛かって来な。つまらねぇ切り合いにはすんなよ?」
寅三郎と藤十郎はジリッと地面を踏む。
微かな土埃が立つ。
【続く】
それは当たり前のように過ごした日々を覆し、悪夢のような現実を突き付けるからだ。
人は生きている限り、進歩するか退化する運命にある。現状を維持しようとしても、結局は年とともに衰退していき、気づけばそこにあるのは残骸だけというのも普通にある。
だが、進歩はしつつも退化もしている、何てことも普通にある。それはある一点でいえば鬼のような腕前を持っている代わりに、他の点はすべて犠牲にされてしまっているというようなことがそうだろう。実際、人は何かを得るには別の何かを犠牲にしなければならない。
だが、それが技術と引き換えに人徳や人格を犠牲にしたのだとすればどうだろう。
寅三郎は目を見開く。目の前の光景に対して信じられない、というより信じたくないとでもいわんばかりの表情を浮かべ、口をぽっかりと開いている。
「これは……、どういうことだ?」
藤十郎はそう呟きつつ、寅三郎と屋敷から出て来た男を見比べる。藤十郎がそうしたのも無理はないのだろう。
「久しぶりだな。……寅だろ?」
屋敷から出て来た男はニヤリと笑う。対照的に寅三郎の表情は非常に険しい。
「馬乃助、か……」
馬乃助。寅三郎がそう呟くとヤクザも藤十郎の従者もみな、ハッとしてふたりを見る。そう、屋敷から出てきたのは牛野馬乃助、その名を『牛馬』と呼ばれ恐れられる鬼だ。
ただ、その存在は全国的には知られてはいない。全国で名を轟かせてしまっては、必ず何処かで足止めを食らい、お縄になる。牛馬は敢えて自分の名を轟かせ過ぎないように、自分の存在を知る者たちのことはほぼほぼ葬って来た。だからこそ、民衆や奉行所には名前が知られずに済んでいた。
とはいえ、それは表だけの話であって、裏、ヤクザ者たちにはその名前は何となく知られたモノであったのはいうまでもない。
そして、その名前を知っていたのは、武家の人間でもいた、ということだ。
「……貴様のことは聴いている」と寅三郎。
「あ? 貴様だぁ?」牛馬。「誰に向かって口をきいてんだよ、テメエは」
その問いに対し、寅三郎は息をごくりと飲み込んでから答える。まるで、何かを決心し、それを意識の中に落とし込もうとするように。
「……わたしの弟に、だ」
弟、ということばが大層衝撃的に響いたのだろう、その場にいる者たちはみな声を大小上げることとなった。
「どういうことだ牛野……?」藤十郎が訊く。
「おい、『牛野』ってのはそこにいる野郎だけのことじゃねぇんたぜ。おれかソイツかハッキリして貰いてぇモンだがな」
牛馬は藤十郎を挑発するようにいう。ヤクザの用心棒に成り下がった浪人風情が武家の跡継ぎとなる男にきいていい口ではないのはいうまでもない。命知らず。牛馬は全身から自分の死をこころ待ちにしているとでもいうような不気味な雰囲気を漂わせている。
寅三郎は藤十郎を庇う。
「馬、無礼な口をきくな」
「何が無礼だよ。所詮は権力の笠に守られただけのボンボンだろ? そんなガキひとりで何ができるってんだよ」
牛馬のことばは藤十郎の配下たちを刺激する。
「無礼な! こちらにおわす方をどなたとこころ得る!? 寅三郎殿の御兄弟であろうと」
「あろうと、何だ?」
まったく萎縮しない牛馬に、藤十郎の配下たちも奥歯を噛み締めてうしろじさる。その刀を持つ手は震えている。だが、牛馬に緊張は見えない。むしろ全身から無駄な力が抜け、今にも身体を疾風と同化させてしまいそう。
「来いよ、カス共」
牛馬のことばに藤十郎の配下たちはハッとする。牛馬は表情なくしてことばを継ぐ。
「来いっていってんだろ。右手に握ってんのは金玉か? 安心しろよ。テメエらが来るまで刀は抜かないでやるよ」
そのことばでなし崩しとなる。残った藤十郎の配下たちは一気に突撃していく。藤十郎の止めるよういう命など、もはや耳には届かない。
かまいたち、そう形容すべきだったに違いない。
牛馬は刀を納めたままだった。が、気づけば牛馬の背後には数人の刀を抜いた藤十郎の配下たちがいた。呻き声。残された藤十郎の配下たちがみな、その場にて血を流して倒れた。
「何だ、アレは……!」藤十郎は声を漏らす。
「また上手くなったのか……」寅三郎はいう。「鞘の中。刀を抜かずして勝つことこそ究極の居合。だが、お前はあたかも刀を抜かなかったかのようにして人を切るというのか」
「そういうことだ」牛馬は当たり前のようにいう。「さて、そろそろ決着をつける時が来たかな?」
緊張する寅三郎の表情。やはり刀を握る手は力が入り過ぎていてブルブルに震えている。そして、脚も。だが、ここまで蚊帳の外となっていた銀次の配下たちもイキって寅三郎と藤十郎に仕掛けて行こうとする。
「うるせぇ」牛馬がイキる銀次の配下にいう。「いくらコイツが雑魚とはいえ、テメェら三下風情じゃ勝てねえんだよ。黙りな」
「何だと!?」
いくら用心棒とはいえ、所詮は外様、流れ者にすぎない牛馬に対して銀次の配下たちは突っ掛かって行く。が、それも一瞬のこと。次の瞬間には銀次の配下はみな血溜まりを作って地面に倒れていた。牛馬が大きく息を吐く。
「……さて、これで同じか。ふたりで掛かって来な。つまらねぇ切り合いにはすんなよ?」
寅三郎と藤十郎はジリッと地面を踏む。
微かな土埃が立つ。
【続く】