【振り返っても過去はいない】
文字数 2,803文字
過去を振り返ることはあるだろうか。
過去を振り返ることは決して悪いことではないが、同時にいいことともいい切れない。というのも、過去は所詮過去でしかないからだ。
人生は真っ暗な道を行く旅のようなもの。微かな光が見えることもあれば、完全な真っ暗闇なこともある。どちらにせよ手探りで前に進まなければならないのはいうまでもないけれど、どんな人生にも共通することがある。
それは、退路はないということだ。
ここでいう退路というのは、早い話が「過去には戻れない」ということを意味する。
うしろを向けば水先に見える走馬灯。だが、そちらに道などない。あるのは奈落。現実の道を狭めていくだけの魅惑の幻想。
確かにたまには、うしろを向いて昔を懐かしむのもいいかもしれない。時には過去の失敗を振り返って戒めにすることも必要だろう。
だが、いつまでもうしろ向きでは救われない。未来はいつだって自分の目の前にある。過去は所詮、これまで通ってきた軌跡でしかなく、その軌跡に依存することは破滅しか招かない。何故なら過去は、麻薬だから。
まぁ、こんな駄文集で毎日のように過去を振り返っているおれがこんなことをいうと変な気もするけど、かといっておれはこの駄文集で昔を懐かしんでいるというよりかは、単に文章のネタを探しているだけだったりする。
だから、過去に戻りたいとか、過去からやり直したいとかは思わない。そんなのは何の意味もないし、時間の無駄だとわかっている。
とはいえ、おれだってたまには過去を懐かしむこともあるワケだ。どういう時?ーーやっぱ、岐路に立った時、かねぇ。
さて、そんなワケで『遠征芝居篇』の第十回である。前回で一気にすっ飛ばしてしまったのだけど、今回は本番前のホテルでのこと。あらすじーー
「本番前日、五条氏は荷物を担いで森ちゃんの家へと向かう。森ちゃんの家に着き、ふたりでよっしーとゆうこを迎えに向かう。うっすらとした吐き気と緊張感。まるでパニックが戻って来たかのよう。が、それも何とか緩み、四人揃って遠征先へ。宿泊先のホテルに着くと、各々の部屋に入り、五条氏はへヴィメタルと芸人のラジオに抱かれて眠りにつくのだった」
と、こんな感じか。じゃ、やってくーー
朝ーー本番の朝。ゆったりと眠りから覚めると、おれは大きく伸びをした。
昨日から掛けっぱなしだったラジオでは、落ち着きのある声が朝の情報を伝えていた。
時間を確認すると、集合時間まで一時間。まだ余裕はあるようだった。
おれは浴室に入り、シャワーを浴びた。
心地よい湯の雨が、ねっとりとした寝汗を流す。おれは大きくため息をついた。
長いようで短かった。気づけばもう本番。昨日の微妙だった体調も悪くはない。
シャワーを止め、溜めておいた湯船に浸かった。全身がリラックス。おれは大きく天を仰いだ。真っ白な天井は、まるで何も描かれていないカンバスのようだった。
真っ白なカンバス、そこに過去の映像が映し出される。始まりからここまでの軌跡が、頭の中のスクリーンで上映される。
会場下見をしてから二回目の稽古の時のことだ。稽古前に森ちゃんからこういわれた。
「今日はイベント告知のプロモーション映像を撮ろうかと思っています」
そう。この時点で既にウタゲのみなさんはこのプロモーション映像を撮っており、デュオニソスのほうでも撮って欲しいとの話が来ているとのことだったのだ。
その内容については、森ちゃんが既に企画案としてまとめており、ホワイトボードを使ってのコマーシャルとして撮影しようとなった。
稽古の合間、ちょうどいい頃合いだということで、プロモーション映像を撮ることに。森ちゃんを進行役として、ひとりひとりがカメラの前でパートごとにイベントの説明をしていく。
カメラ前に立つ順番としてはまずおれ。その次がゆうこ、最後がよっしー。そして、最後に四人揃ってカメラ前に立ち、映像は終了ーーこんな流れだ。
テイクワン。まぁ、悪くない。ただ、ラストがいまいち。テイクツー。シンプルにミステイク。そして、テイクスリー。漸くいい感じのモノができたけど、保険としてテイクフォー。
結局はテイクスリーが一番出来がよく、それがプロモーション映像として使われることになった。おれはそれをスマホに落とし、何度も見返した。本番が楽しみで仕方なくなる。演者として、本番が楽しみになるような内容だった。
そして、もうひとつ。三回目の稽古でのことだ。本番まであとひと月切りそうだという時のこと、森ちゃんが稽古始めにこう切り出したーー
「ちょっと、シーンの追加があるんですけど、いいですか?」
それに関しては文句はない。そもそも、これまでも直前のセリフの変更は普通にあったし、ちょっとしたシーンの追加も経験済みだった。本番数週間前に、芝居ド頭にセリフがついたこともある。セリフもワンシーンの追加程度だったらすぐに覚えられるし、何の不安もない。
ただ、よっしーは不安だったようだ。確かに、おれはそういった経験はあったが、彼女にはその経験がなかったから。
だが、そんな心配は杞憂でしかなかった。
よっしーは次の稽古には朧気ながらもちゃんとセリフを入れて来た。おれはいわずもがな。
件の追加されたシーンは、冬樹とよっしー演じる夏原の関係性を決定付けるモノだった。
これまではメッセージ上での友達で、リアルではいがみ合う仲でしかなかったふたり。いざ会おうとなって、メッセージ上の女性がいがみ合う夏原とわかり、素直になれずに強がって彼女に完全に嫌われてしまう。
そんな中、夏原に弁解しようと冬樹が再び彼女の元を訪れる、その果てに付け加えられたシーンだった。
ふたりには共通の好きなマンガがあった。そのマンガの絵を見て、冬樹が意味深に呟くのだけど、夏原はメッセージ相手の男性が冬樹だとは気づかない。
冬樹は急がなければならなかった。というのも、夏原が彼女の事情で、この地を去らなければならなくなっていたからだ。
強がっている暇などなかった。過去を悔いている暇もなかった。ただ、前を向いて、夏原に自分の気持ちを伝えなければならなかった。そこで冬樹が取った行動はーー
まるで白昼夢のように過去のことが蘇って来た。だが、そう長くは懐かしんでいられない。時間まであと二〇分。風呂を出て着替えてギリギリといったところだろう。
おれは浴槽から出て身体を拭い、浴室を出て着替えを済ませた。時間もちょうどいいぐらい。と、そこで森ちゃんから電話が掛かって来た。
「五条さん、準備は出来てますか?」
おれはイエスと答えた。電話を切り、忘れ物がないか最後の確認を済ませて荷物を担ぐと部屋の出口へと向かった。
最後にうしろを振り返り、一日過ごした部屋に無言の別れを告げ、部屋を出た。
おれは目の前に延びる道をただただ真っ直ぐに歩き出した。
【続く】
過去を振り返ることは決して悪いことではないが、同時にいいことともいい切れない。というのも、過去は所詮過去でしかないからだ。
人生は真っ暗な道を行く旅のようなもの。微かな光が見えることもあれば、完全な真っ暗闇なこともある。どちらにせよ手探りで前に進まなければならないのはいうまでもないけれど、どんな人生にも共通することがある。
それは、退路はないということだ。
ここでいう退路というのは、早い話が「過去には戻れない」ということを意味する。
うしろを向けば水先に見える走馬灯。だが、そちらに道などない。あるのは奈落。現実の道を狭めていくだけの魅惑の幻想。
確かにたまには、うしろを向いて昔を懐かしむのもいいかもしれない。時には過去の失敗を振り返って戒めにすることも必要だろう。
だが、いつまでもうしろ向きでは救われない。未来はいつだって自分の目の前にある。過去は所詮、これまで通ってきた軌跡でしかなく、その軌跡に依存することは破滅しか招かない。何故なら過去は、麻薬だから。
まぁ、こんな駄文集で毎日のように過去を振り返っているおれがこんなことをいうと変な気もするけど、かといっておれはこの駄文集で昔を懐かしんでいるというよりかは、単に文章のネタを探しているだけだったりする。
だから、過去に戻りたいとか、過去からやり直したいとかは思わない。そんなのは何の意味もないし、時間の無駄だとわかっている。
とはいえ、おれだってたまには過去を懐かしむこともあるワケだ。どういう時?ーーやっぱ、岐路に立った時、かねぇ。
さて、そんなワケで『遠征芝居篇』の第十回である。前回で一気にすっ飛ばしてしまったのだけど、今回は本番前のホテルでのこと。あらすじーー
「本番前日、五条氏は荷物を担いで森ちゃんの家へと向かう。森ちゃんの家に着き、ふたりでよっしーとゆうこを迎えに向かう。うっすらとした吐き気と緊張感。まるでパニックが戻って来たかのよう。が、それも何とか緩み、四人揃って遠征先へ。宿泊先のホテルに着くと、各々の部屋に入り、五条氏はへヴィメタルと芸人のラジオに抱かれて眠りにつくのだった」
と、こんな感じか。じゃ、やってくーー
朝ーー本番の朝。ゆったりと眠りから覚めると、おれは大きく伸びをした。
昨日から掛けっぱなしだったラジオでは、落ち着きのある声が朝の情報を伝えていた。
時間を確認すると、集合時間まで一時間。まだ余裕はあるようだった。
おれは浴室に入り、シャワーを浴びた。
心地よい湯の雨が、ねっとりとした寝汗を流す。おれは大きくため息をついた。
長いようで短かった。気づけばもう本番。昨日の微妙だった体調も悪くはない。
シャワーを止め、溜めておいた湯船に浸かった。全身がリラックス。おれは大きく天を仰いだ。真っ白な天井は、まるで何も描かれていないカンバスのようだった。
真っ白なカンバス、そこに過去の映像が映し出される。始まりからここまでの軌跡が、頭の中のスクリーンで上映される。
会場下見をしてから二回目の稽古の時のことだ。稽古前に森ちゃんからこういわれた。
「今日はイベント告知のプロモーション映像を撮ろうかと思っています」
そう。この時点で既にウタゲのみなさんはこのプロモーション映像を撮っており、デュオニソスのほうでも撮って欲しいとの話が来ているとのことだったのだ。
その内容については、森ちゃんが既に企画案としてまとめており、ホワイトボードを使ってのコマーシャルとして撮影しようとなった。
稽古の合間、ちょうどいい頃合いだということで、プロモーション映像を撮ることに。森ちゃんを進行役として、ひとりひとりがカメラの前でパートごとにイベントの説明をしていく。
カメラ前に立つ順番としてはまずおれ。その次がゆうこ、最後がよっしー。そして、最後に四人揃ってカメラ前に立ち、映像は終了ーーこんな流れだ。
テイクワン。まぁ、悪くない。ただ、ラストがいまいち。テイクツー。シンプルにミステイク。そして、テイクスリー。漸くいい感じのモノができたけど、保険としてテイクフォー。
結局はテイクスリーが一番出来がよく、それがプロモーション映像として使われることになった。おれはそれをスマホに落とし、何度も見返した。本番が楽しみで仕方なくなる。演者として、本番が楽しみになるような内容だった。
そして、もうひとつ。三回目の稽古でのことだ。本番まであとひと月切りそうだという時のこと、森ちゃんが稽古始めにこう切り出したーー
「ちょっと、シーンの追加があるんですけど、いいですか?」
それに関しては文句はない。そもそも、これまでも直前のセリフの変更は普通にあったし、ちょっとしたシーンの追加も経験済みだった。本番数週間前に、芝居ド頭にセリフがついたこともある。セリフもワンシーンの追加程度だったらすぐに覚えられるし、何の不安もない。
ただ、よっしーは不安だったようだ。確かに、おれはそういった経験はあったが、彼女にはその経験がなかったから。
だが、そんな心配は杞憂でしかなかった。
よっしーは次の稽古には朧気ながらもちゃんとセリフを入れて来た。おれはいわずもがな。
件の追加されたシーンは、冬樹とよっしー演じる夏原の関係性を決定付けるモノだった。
これまではメッセージ上での友達で、リアルではいがみ合う仲でしかなかったふたり。いざ会おうとなって、メッセージ上の女性がいがみ合う夏原とわかり、素直になれずに強がって彼女に完全に嫌われてしまう。
そんな中、夏原に弁解しようと冬樹が再び彼女の元を訪れる、その果てに付け加えられたシーンだった。
ふたりには共通の好きなマンガがあった。そのマンガの絵を見て、冬樹が意味深に呟くのだけど、夏原はメッセージ相手の男性が冬樹だとは気づかない。
冬樹は急がなければならなかった。というのも、夏原が彼女の事情で、この地を去らなければならなくなっていたからだ。
強がっている暇などなかった。過去を悔いている暇もなかった。ただ、前を向いて、夏原に自分の気持ちを伝えなければならなかった。そこで冬樹が取った行動はーー
まるで白昼夢のように過去のことが蘇って来た。だが、そう長くは懐かしんでいられない。時間まであと二〇分。風呂を出て着替えてギリギリといったところだろう。
おれは浴槽から出て身体を拭い、浴室を出て着替えを済ませた。時間もちょうどいいぐらい。と、そこで森ちゃんから電話が掛かって来た。
「五条さん、準備は出来てますか?」
おれはイエスと答えた。電話を切り、忘れ物がないか最後の確認を済ませて荷物を担ぐと部屋の出口へと向かった。
最後にうしろを振り返り、一日過ごした部屋に無言の別れを告げ、部屋を出た。
おれは目の前に延びる道をただただ真っ直ぐに歩き出した。
【続く】