【薮医者放浪記~捌拾漆~】
文字数 652文字
人に忘れ去られていい気をする者はまずいないだろう。
その時生まれて来るのは怒りや悲しみといった感情が複雑に交錯したモノだ。そして、それは時に凶悪な暴力となって具現化する。
だが、ついさっき会ったばかりの人間が自分のことを欠片も覚えていないというのは、怒りや悲しみよりも驚愕のほうが勝つだろう。何故なら、そんなことはまずないだろうと思い込むのが人間だから。
「え?」お雉は呆然とした。「......さっき、番屋でお会いしましたよね?」
だが、老人はまったくもって知らないという態度を示すように首を横に振った。これには横にいた斎藤も困惑するばかりだった。
「おじいさん、わたしのことはわかりますよね?」斎藤が恐る恐る訊ねると老人は、当たり前だろうとさも当然のように答えた。「この人は、さっきわたしたちがいた番屋に来てくれた女の人ですよ」
そう説明したことですべてが納得すると思われた。が、違った。老人は尚もわからないといい続けた。お雉は斎藤に訊ねた。
「えっと、これは......」
「多分、あまりモノを覚えられないのだろう。それか、年で覚えられなくなったか」
それが濃厚だった。にしても、これではーー
「あっ!?」
老人は突然大声を出した。右手の人差し指で何かを指している。それはお雉の持っている箱だった。さっき、猿田、寅三郎たちが持っていたあの箱だ。お雉はふたりとすれ違い様に箱を盗んでいたのだった。
突然の大声にお雉も斎藤もビクッとした。そして、老人はいったーー
「それはワシのだ! 泥棒! 泥棒め!」
【続く】
その時生まれて来るのは怒りや悲しみといった感情が複雑に交錯したモノだ。そして、それは時に凶悪な暴力となって具現化する。
だが、ついさっき会ったばかりの人間が自分のことを欠片も覚えていないというのは、怒りや悲しみよりも驚愕のほうが勝つだろう。何故なら、そんなことはまずないだろうと思い込むのが人間だから。
「え?」お雉は呆然とした。「......さっき、番屋でお会いしましたよね?」
だが、老人はまったくもって知らないという態度を示すように首を横に振った。これには横にいた斎藤も困惑するばかりだった。
「おじいさん、わたしのことはわかりますよね?」斎藤が恐る恐る訊ねると老人は、当たり前だろうとさも当然のように答えた。「この人は、さっきわたしたちがいた番屋に来てくれた女の人ですよ」
そう説明したことですべてが納得すると思われた。が、違った。老人は尚もわからないといい続けた。お雉は斎藤に訊ねた。
「えっと、これは......」
「多分、あまりモノを覚えられないのだろう。それか、年で覚えられなくなったか」
それが濃厚だった。にしても、これではーー
「あっ!?」
老人は突然大声を出した。右手の人差し指で何かを指している。それはお雉の持っている箱だった。さっき、猿田、寅三郎たちが持っていたあの箱だ。お雉はふたりとすれ違い様に箱を盗んでいたのだった。
突然の大声にお雉も斎藤もビクッとした。そして、老人はいったーー
「それはワシのだ! 泥棒! 泥棒め!」
【続く】