【西陽の当たる地獄花~参拾睦~】
文字数 2,413文字
不気味な音と共に微かな風が吹いている。
何やら金属が擦れあっているような、そんな不快感を伴う音が神経にささくれを与える。
牛馬、鬼水、宗顕は身構える。
鬼水は犬になっても地獄四天王という性質は変わらない。毛を逆立てて身体をやや引き、唸るようにして近づいて来ようとする何者かに対して牙を剥きながら威嚇をしている。
宗顕は所詮はただの役人でしかなかった。近づいて来る何者かに対して立ち向かおうとするどころか、恐怖に押し潰されて身体を震わせている。今にでも逃げ出しそう、といえばそうだが、ヘビに睨み付けられたカエルのように行くことも退くことも出来ないでいる。
牛馬は何処までも楽しそう。手は若干震えているが、迫り来る恐怖、脅威が楽しくて、気持ち良くて堪らないといった様子。ニヤリとした笑みを浮かべて刀が走らんとするよう。
水滴が垂れる音がする。乾いた空気が三人の間を通り抜けて行く。そして、地獄の果てからの呼び声のような重く低い絶叫が轟く。
空間が縮小していくような、そんな緊張感。音は次第に近づいて来る。宗顕は目を見開き、ハッと息を漏らして、凍結する。
「……どうした?」
囁くような牛馬の問いに、宗顕は答えない。その代わりに首を右に、左に振る。まるで声は墓へと葬られてしまったよう。潰れた低い声が僅かに滲み出ているようになっている。
鬼水が唸る声を強める。だが、その低くした姿勢に、やや腰を引いたような体勢は、恐怖から今にも逃げ出さんといわんばかりだ。
廊下の奥では闇が蠢く。
転がった亡骸の欠片。腕、足、胴体、首。
割れた陶器に砕けた家具は死人のよう。
鬼水の目、緊張しつつも相手を近寄らさんとするようにシワを作っている。
宗顕の目、完全に恐怖に支配され、まなこは水気を含んで震えている。
牛馬の目、やや細められ、これから来るであろう相手をしっかりと見据えてやろうとしている。だが手元には震えが見える。
鬼水の唸り声が止まる。閉じられていた口がぽっかりと開き、吐息を漏らしながら、
「あ、あれ……ッ!」
と絶望に似た恐怖を漏らす。
牛馬の目許がピクリと動く。口許が固く結ばれる。ギリッという歯軋り。刀を持った手に力が入る。今にも柄巻が裂けんばかりに。
牛馬の目が見開かれる。抉じ開けられたように口が開く。感情は呼吸と化して具現化する。
何かがへばりつくようなネバついた音。どうやらそれは足許から聴こえる。苦しみ悶えるような声もすぐそこまで来ている。
そこには亡者がいる。
両目は陥没し、涎が粘っている口は大きく横に裂けており、その奥には鋭く細い牙と蛇のような長い舌が踊っている。
頭部には疎らにはえた髪の毛。殆ど頭皮は見えてしまっている。胸元は極端に痩せており、あばら骨が浮き出ているにも関わらず腹はぷっくりと膨れ上がっている。
腕とおぼしきモノは六本。二本は人間のモノだが、二本はカマキリの鎌のようになっており、もう二本はカニのハサミのよう。
下半身は、まるで蜘蛛のような八本の脚と胴に支えられている。胴のうしろにはナメクジの尾っぽのようなモノが引き摺られており、ネットリとしたヌメリを曳いている。そして、その尾っぽの先からは、蜂のように鋭い針金顔を出したり引っ込んだりしている。
全身は焦げ腐ったように真っ黒で、全長は大人の男ふたり分といったところだった。
鬼水と宗顕は完全に恐怖ですくんでいる。牛馬はニヤリと笑うが、その手には無駄な力が入り、小刻みに震えるばかり。
亡者は長い舌をチロチロさせながら、とてつもない絶叫を上げている。鎌と腕が不気味に蠢いている。重い足取りで近づいて来る。
「逃げたけりゃ逃げろ……」
牛馬のことばに鬼水と宗顕は驚きを目に浮かべる。鬼水に逃げる気配はない。しかし、宗顕はやや後方を伺っている。とはいえ、足は震えるばかりで逃げようという気が感じられない。
結局、鬼水は自分の感情を噛み殺して再びの臨戦体勢を見せ、宗顕は二、三歩退いたのみでそれ以上は逃げの姿勢を見せなかった。
亡者が三人を捉える。
口を大きく開き、地獄の底から響く悲鳴のような絶叫を上げながら、その図体のデカさからは考えられないような早さを以て、三人に向かって一直線に走り出す。
牛馬は刀を八相の形に構える。
鬼水も立ち向かう体勢。
亡者が鎌を振る。
鋼と鋼がぶつかり合う。火花が散り、辺りが一瞬の光に包まれる。
鎌と刀が交差する。だが、亡者のデカイ図体の重さは、人間の牛馬には苦しいモノがあった。歯を食い縛って剥き出しにし、必死に亡者の圧から耐え忍ばんとしている。
が、動いているのは鎌だけではない。
第三の手。カニのハサミのような手が牛馬を捉えようとしている。ハサミを大きく開き、獲物である牛馬の首を跳ねんとしている。
鬼水はハッとする。そして、亡者に飛び掛かる。亡者の持つ人の腕に噛みつくと、亡者は悲痛な叫び声を上げる。
牛馬は一瞬の力の緩みを感じ、思い切り亡者を押し返し、そのまま鎌の一本を斬り落とす。
亡者が声を上げる。斬られた腕からは黄色い血がドバドバと流れ出している。
牛馬は手を止めずに刀を横に薙ぐ。
亡者の膨れた腹が横一線にぱっくり割れる。
更に牛馬は亡者の腹を突く。亡者の腹に食い込む刀身。牛馬は思い切り刀を引く。と、亡者の腹からズタズタになった大量の腸が引き出される。その何れもが紫色をしており毒々しい。
亡者は苦痛という金切り声を上げ、そのまま踵を返して、走り去る。
脅威は去った。宗顕は尻餅をついてブルブル震えている。牛馬は引き吊った顔で、荒い息を吐きながら、亡者が去っていったほうをじっと睨み付けている。
亡者の声が遠ざかっていく。宗顕はゆっくりと息を吐く。牛馬は突然声を上げる。
「……どうされたのですか?」宗顕。
「……小便垂れが、いねぇぞ」
ハッとする宗顕。
そう、そこに鬼水の姿はなかった。
【続く】
何やら金属が擦れあっているような、そんな不快感を伴う音が神経にささくれを与える。
牛馬、鬼水、宗顕は身構える。
鬼水は犬になっても地獄四天王という性質は変わらない。毛を逆立てて身体をやや引き、唸るようにして近づいて来ようとする何者かに対して牙を剥きながら威嚇をしている。
宗顕は所詮はただの役人でしかなかった。近づいて来る何者かに対して立ち向かおうとするどころか、恐怖に押し潰されて身体を震わせている。今にでも逃げ出しそう、といえばそうだが、ヘビに睨み付けられたカエルのように行くことも退くことも出来ないでいる。
牛馬は何処までも楽しそう。手は若干震えているが、迫り来る恐怖、脅威が楽しくて、気持ち良くて堪らないといった様子。ニヤリとした笑みを浮かべて刀が走らんとするよう。
水滴が垂れる音がする。乾いた空気が三人の間を通り抜けて行く。そして、地獄の果てからの呼び声のような重く低い絶叫が轟く。
空間が縮小していくような、そんな緊張感。音は次第に近づいて来る。宗顕は目を見開き、ハッと息を漏らして、凍結する。
「……どうした?」
囁くような牛馬の問いに、宗顕は答えない。その代わりに首を右に、左に振る。まるで声は墓へと葬られてしまったよう。潰れた低い声が僅かに滲み出ているようになっている。
鬼水が唸る声を強める。だが、その低くした姿勢に、やや腰を引いたような体勢は、恐怖から今にも逃げ出さんといわんばかりだ。
廊下の奥では闇が蠢く。
転がった亡骸の欠片。腕、足、胴体、首。
割れた陶器に砕けた家具は死人のよう。
鬼水の目、緊張しつつも相手を近寄らさんとするようにシワを作っている。
宗顕の目、完全に恐怖に支配され、まなこは水気を含んで震えている。
牛馬の目、やや細められ、これから来るであろう相手をしっかりと見据えてやろうとしている。だが手元には震えが見える。
鬼水の唸り声が止まる。閉じられていた口がぽっかりと開き、吐息を漏らしながら、
「あ、あれ……ッ!」
と絶望に似た恐怖を漏らす。
牛馬の目許がピクリと動く。口許が固く結ばれる。ギリッという歯軋り。刀を持った手に力が入る。今にも柄巻が裂けんばかりに。
牛馬の目が見開かれる。抉じ開けられたように口が開く。感情は呼吸と化して具現化する。
何かがへばりつくようなネバついた音。どうやらそれは足許から聴こえる。苦しみ悶えるような声もすぐそこまで来ている。
そこには亡者がいる。
両目は陥没し、涎が粘っている口は大きく横に裂けており、その奥には鋭く細い牙と蛇のような長い舌が踊っている。
頭部には疎らにはえた髪の毛。殆ど頭皮は見えてしまっている。胸元は極端に痩せており、あばら骨が浮き出ているにも関わらず腹はぷっくりと膨れ上がっている。
腕とおぼしきモノは六本。二本は人間のモノだが、二本はカマキリの鎌のようになっており、もう二本はカニのハサミのよう。
下半身は、まるで蜘蛛のような八本の脚と胴に支えられている。胴のうしろにはナメクジの尾っぽのようなモノが引き摺られており、ネットリとしたヌメリを曳いている。そして、その尾っぽの先からは、蜂のように鋭い針金顔を出したり引っ込んだりしている。
全身は焦げ腐ったように真っ黒で、全長は大人の男ふたり分といったところだった。
鬼水と宗顕は完全に恐怖ですくんでいる。牛馬はニヤリと笑うが、その手には無駄な力が入り、小刻みに震えるばかり。
亡者は長い舌をチロチロさせながら、とてつもない絶叫を上げている。鎌と腕が不気味に蠢いている。重い足取りで近づいて来る。
「逃げたけりゃ逃げろ……」
牛馬のことばに鬼水と宗顕は驚きを目に浮かべる。鬼水に逃げる気配はない。しかし、宗顕はやや後方を伺っている。とはいえ、足は震えるばかりで逃げようという気が感じられない。
結局、鬼水は自分の感情を噛み殺して再びの臨戦体勢を見せ、宗顕は二、三歩退いたのみでそれ以上は逃げの姿勢を見せなかった。
亡者が三人を捉える。
口を大きく開き、地獄の底から響く悲鳴のような絶叫を上げながら、その図体のデカさからは考えられないような早さを以て、三人に向かって一直線に走り出す。
牛馬は刀を八相の形に構える。
鬼水も立ち向かう体勢。
亡者が鎌を振る。
鋼と鋼がぶつかり合う。火花が散り、辺りが一瞬の光に包まれる。
鎌と刀が交差する。だが、亡者のデカイ図体の重さは、人間の牛馬には苦しいモノがあった。歯を食い縛って剥き出しにし、必死に亡者の圧から耐え忍ばんとしている。
が、動いているのは鎌だけではない。
第三の手。カニのハサミのような手が牛馬を捉えようとしている。ハサミを大きく開き、獲物である牛馬の首を跳ねんとしている。
鬼水はハッとする。そして、亡者に飛び掛かる。亡者の持つ人の腕に噛みつくと、亡者は悲痛な叫び声を上げる。
牛馬は一瞬の力の緩みを感じ、思い切り亡者を押し返し、そのまま鎌の一本を斬り落とす。
亡者が声を上げる。斬られた腕からは黄色い血がドバドバと流れ出している。
牛馬は手を止めずに刀を横に薙ぐ。
亡者の膨れた腹が横一線にぱっくり割れる。
更に牛馬は亡者の腹を突く。亡者の腹に食い込む刀身。牛馬は思い切り刀を引く。と、亡者の腹からズタズタになった大量の腸が引き出される。その何れもが紫色をしており毒々しい。
亡者は苦痛という金切り声を上げ、そのまま踵を返して、走り去る。
脅威は去った。宗顕は尻餅をついてブルブル震えている。牛馬は引き吊った顔で、荒い息を吐きながら、亡者が去っていったほうをじっと睨み付けている。
亡者の声が遠ざかっていく。宗顕はゆっくりと息を吐く。牛馬は突然声を上げる。
「……どうされたのですか?」宗顕。
「……小便垂れが、いねぇぞ」
ハッとする宗顕。
そう、そこに鬼水の姿はなかった。
【続く】