【いろは歌地獄旅~ネズミ取り~】
文字数 3,295文字
カーストということばの意味を知ったのは、社会の時間のことだった。
退屈な授業ーー暇を潰すために骨を折るなんて、何とも可笑しな話だった。
授業中、ぼくは資料集を開いて適当なことばを眺めてはその意味を確かめる。カーストということばは、そんな時に見つけた。
カースト、それはひとつのコミュニティに属する人々を身分で分けることをいうのだが、正直その意味はよくわからなかった。
だが、あることが切っ掛けで何となくそれがわかった気がした。
体育の時間、おれは退屈な授業をやり過ごすために、先生に怒られない程度に適当に時間を過ごしていた。そもそも、運動が苦手で大嫌いなおれにとって、体育はどんな競技においても苦痛以外の何物でもなかった。
この時期の体育はサッカーだった。
おれはサッカーの授業が特に嫌いだった。理由としては、経験者が特にでしゃばるからだ。
おれは今、周りから見てサボっていないと思われる程度に走っている。
突然ホイッスルが鳴った。
「オフサイド!」
そのことばとともに体育教師のゴリラの人差し指が、ひとりの生徒に向けられた。
陰キャの前山だった。
前山はクラスでも特に目立たない存在だ。身長は163センチと大きくもなければ小さくもない。体型はガリで、教室の隙間に挟まっていても誰も気づかないだろう。
目は良くもなく悪くもないようで裸眼なのだが、それが逆に前山から特徴を奪っていたようだ。もしメガネを掛けてたら『メガネ』って印象やアダ名がついただろうけど、前山にはそれすらもなく、アダ名すらつけられなかった。
他にいえば、前山は何かが得意なワケでもないし、それどころか勉強も運動もダメで、好きな物もよくわからない。
一応、ゲームとマンガが好きらしいけど、ゲームも下手だし、マンガの趣味も流行の瓶に入ったジャムの表面を舐め取ったように浅くて煮ても焼いても食えない。
霞が服を着て歩いているーーそれが前山の印象だった。それくらい前山は存在感は薄かった。
オフサイドを取られた前山は縮こまって顔を伏せ、小さな声で何かをいった。
「おい、何やってんだよ! オフサイッくらいわかんだろうが!」サッカー部の森岡が明らかにイラついていう。
オフサイドなんてわかるワケないだろう。みんながみんな、サッカー部じゃないんだぞ。
どういうワケかサッカー経験者というのは、体育でサッカーをやると、やたらとやる気を出して、ろくにサッカーをやったこともない人にも経験者と同等の動きを求める傾向にある。
だが、おれが聞いた限りでは、森岡はサッカー部でも大した実力じゃないそうだ。大した実力じゃないヤツほど体育ででしゃばるというのも、学校生活のフシギのひとつだった。
まぁ、どうせ、自分が部活で辛酸を舐めさせられているから、せめて授業だけは経験者として他者にマウントを取りたいのだろう。
だが、森岡がたち悪いのは、自分より立場が上の人間には口汚い指示や文句をしないことだ。ヤンキーに優等生、人気者、ここら辺には強くは出ないし、まごまごとしてことばを飲み込むのが常だった。多分、これがカーストの違いというモノなのだろう。健全な精神は健全な肉体に宿るというのが聞いて呆れる。
森岡は前山に詰め寄ろうとした。だが、体育教師のゴリラにさっさと試合を続行するようにいわれ、森岡はしぶしぶ矛を納めた。
が、それからというモノ、森岡はターゲットを見定めたかのように前山に口汚く指示し、前山がミスをすれば捨てセリフを吐いた。
結局、試合には負け、授業終了。森岡はスポーツマンシップに則り、本日のミスの帝王である前山のことを本人に聴こえるように罵った。
前山は頭を垂らして悲しそうにしていた。
おれは別に前山と仲良くもないし、ただ同じチームだったというだけだったにも関わらず、ネチネチと罵倒される前山が気の毒に思えた。
それからというモノ、森岡の前山イビリは始まった。時にはひとりで、時にはクラスのサッカー部数人を引き連れてーーちなみに、全員部活では大したことないらしい。
ある日のこと、前山が森岡に詰め寄られていた。内容は本当に下らない言い掛かり。おれのことバカにしてるだろ?ーーそんな感じ。
誰だってお前のことなんかバカにしてるよ。その場にいた誰もが思ったはずだ。だが、誰もそんなことはいわない。
「森岡、いい加減にしろよ!」
クラスのお調子者がいった。お調子者、といってもこういった険悪なムードのイジメが嫌いな、真性のお調子者だ。ちなみにクラスでも人気者の類いで、発言力も強い。
森岡は舌打ちし、前山を解放した。
それから放課後のことである。
部活に入っていない帰宅部のおれや前山は、帰りのホームルームが終わればひとりで家に直帰するのがいつものことだった。
だが、この日は違った。
仲間を連れた森岡が帰り際の前山を捕まえて何かをいっていた。そして、森岡たちは前山を連れて教室を出て行った。
一体何だろうーーそう思わざるを得なかった。おれは森岡たちと前山の後をつけてみることにした。カバンを背負って教室を出た。
だが、森岡たちはいなくなっていた。
しまった、見失った。
おれは走った。校門を出たところで、中学の目の前にある『川澄自然公園』の中に入って行く森岡たちと前山を見つけた。
おれは急いで道路を横断し、自然公園のほうまで足音を殺して走った。
川澄自然公園はそれなりの広さを持つ公園ではあるが、その遊具のしょぼさのせいで、常に人がいない寂れた公園だった。
自然公園に入り、森岡たちと前山を探した。ヤツラは公園内のトイレへ入って行った。
トイレか……。これはヤバイことになりそうだ。おれは忍び足でトイレのほうへ歩いた。が、おれより先にトイレに入ったヤツがいた。
林崎シンゴだった。
林崎シンゴはうちのクラスの生活安全委員で、担任の長谷川先生のお気に入りだ。成績は中の上といったところで、運動神経は良くもなければ悪くもない。だが、それなりにイケメンなお陰で女子からは人気で、クラスのヤンキーと優等生、お調子者たちとも仲がいいこともあって、カーストはかなり高い。
何で林崎が?ーーおれは目を疑った。
おれは物陰に隠れてトイレの様子を眺めた。少しして林崎は前山を連れて出て来た。前山も林崎もキズひとつない。それどころか、林崎は前山に話し掛けながら楽しそうに笑っている。
ワケがわからなかった。
林崎たちが去った後、おれは尚もトイレを見張った。少しして森岡たちが不機嫌そうな顔をして出てきた。キズはない。ケンカには発展しなかったようだった。
この日を境に、林崎は前山とつるむことが多くなった。何でも、林崎は総合学習をともに進める仲間として前山を選んだのだとか。
そのことに関してクラスでは驚きの声が上がった。だが、そのことで異議を立てるのは森岡たちだけで、それどころか前山は林崎とツルみだしたお陰か、クラスの人気者や優等生、果てはヤンキーとも仲良くなってしまった。
そうなると前山の周りには常に森岡たちよりカーストが上の人間がいることになり、結局森岡は前山に因縁をつけられなくなった。
が、前山に因縁がつけられなくなった後、森岡はおれに因縁をつけるようになって来た。
まったく面倒くさい。とはいえ、おれも気が長いほうではない。休み時間、教室で森岡に詰め寄られたおれは、森岡のしつこさにブチ切れそうになった。おれは拳をグッと握り、振り上げようとした。その時だったーー
「あー、いたいた」
そんな声が聴こえ、おれは横を見た。
林崎だった。
「平沢くん、探したよ」
助かった。その時はそう思った。
だが、後になってわかった。
林崎シンゴ、コイツがおれを探していた理由ーーそんなモノはなかったのだ。
今のおれにいえるのは、うちのクラスでトラブルが長続きしないのは、ひとえに林崎がいるからだろうということだ。
そう、林崎はとんでもないトラブル・キラーだったのだ。
ネズミ取りーーそこら中で発生するトラブルを見逃がさない林崎のことを、おれは陰でそう呼んだ。
退屈な授業ーー暇を潰すために骨を折るなんて、何とも可笑しな話だった。
授業中、ぼくは資料集を開いて適当なことばを眺めてはその意味を確かめる。カーストということばは、そんな時に見つけた。
カースト、それはひとつのコミュニティに属する人々を身分で分けることをいうのだが、正直その意味はよくわからなかった。
だが、あることが切っ掛けで何となくそれがわかった気がした。
体育の時間、おれは退屈な授業をやり過ごすために、先生に怒られない程度に適当に時間を過ごしていた。そもそも、運動が苦手で大嫌いなおれにとって、体育はどんな競技においても苦痛以外の何物でもなかった。
この時期の体育はサッカーだった。
おれはサッカーの授業が特に嫌いだった。理由としては、経験者が特にでしゃばるからだ。
おれは今、周りから見てサボっていないと思われる程度に走っている。
突然ホイッスルが鳴った。
「オフサイド!」
そのことばとともに体育教師のゴリラの人差し指が、ひとりの生徒に向けられた。
陰キャの前山だった。
前山はクラスでも特に目立たない存在だ。身長は163センチと大きくもなければ小さくもない。体型はガリで、教室の隙間に挟まっていても誰も気づかないだろう。
目は良くもなく悪くもないようで裸眼なのだが、それが逆に前山から特徴を奪っていたようだ。もしメガネを掛けてたら『メガネ』って印象やアダ名がついただろうけど、前山にはそれすらもなく、アダ名すらつけられなかった。
他にいえば、前山は何かが得意なワケでもないし、それどころか勉強も運動もダメで、好きな物もよくわからない。
一応、ゲームとマンガが好きらしいけど、ゲームも下手だし、マンガの趣味も流行の瓶に入ったジャムの表面を舐め取ったように浅くて煮ても焼いても食えない。
霞が服を着て歩いているーーそれが前山の印象だった。それくらい前山は存在感は薄かった。
オフサイドを取られた前山は縮こまって顔を伏せ、小さな声で何かをいった。
「おい、何やってんだよ! オフサイッくらいわかんだろうが!」サッカー部の森岡が明らかにイラついていう。
オフサイドなんてわかるワケないだろう。みんながみんな、サッカー部じゃないんだぞ。
どういうワケかサッカー経験者というのは、体育でサッカーをやると、やたらとやる気を出して、ろくにサッカーをやったこともない人にも経験者と同等の動きを求める傾向にある。
だが、おれが聞いた限りでは、森岡はサッカー部でも大した実力じゃないそうだ。大した実力じゃないヤツほど体育ででしゃばるというのも、学校生活のフシギのひとつだった。
まぁ、どうせ、自分が部活で辛酸を舐めさせられているから、せめて授業だけは経験者として他者にマウントを取りたいのだろう。
だが、森岡がたち悪いのは、自分より立場が上の人間には口汚い指示や文句をしないことだ。ヤンキーに優等生、人気者、ここら辺には強くは出ないし、まごまごとしてことばを飲み込むのが常だった。多分、これがカーストの違いというモノなのだろう。健全な精神は健全な肉体に宿るというのが聞いて呆れる。
森岡は前山に詰め寄ろうとした。だが、体育教師のゴリラにさっさと試合を続行するようにいわれ、森岡はしぶしぶ矛を納めた。
が、それからというモノ、森岡はターゲットを見定めたかのように前山に口汚く指示し、前山がミスをすれば捨てセリフを吐いた。
結局、試合には負け、授業終了。森岡はスポーツマンシップに則り、本日のミスの帝王である前山のことを本人に聴こえるように罵った。
前山は頭を垂らして悲しそうにしていた。
おれは別に前山と仲良くもないし、ただ同じチームだったというだけだったにも関わらず、ネチネチと罵倒される前山が気の毒に思えた。
それからというモノ、森岡の前山イビリは始まった。時にはひとりで、時にはクラスのサッカー部数人を引き連れてーーちなみに、全員部活では大したことないらしい。
ある日のこと、前山が森岡に詰め寄られていた。内容は本当に下らない言い掛かり。おれのことバカにしてるだろ?ーーそんな感じ。
誰だってお前のことなんかバカにしてるよ。その場にいた誰もが思ったはずだ。だが、誰もそんなことはいわない。
「森岡、いい加減にしろよ!」
クラスのお調子者がいった。お調子者、といってもこういった険悪なムードのイジメが嫌いな、真性のお調子者だ。ちなみにクラスでも人気者の類いで、発言力も強い。
森岡は舌打ちし、前山を解放した。
それから放課後のことである。
部活に入っていない帰宅部のおれや前山は、帰りのホームルームが終わればひとりで家に直帰するのがいつものことだった。
だが、この日は違った。
仲間を連れた森岡が帰り際の前山を捕まえて何かをいっていた。そして、森岡たちは前山を連れて教室を出て行った。
一体何だろうーーそう思わざるを得なかった。おれは森岡たちと前山の後をつけてみることにした。カバンを背負って教室を出た。
だが、森岡たちはいなくなっていた。
しまった、見失った。
おれは走った。校門を出たところで、中学の目の前にある『川澄自然公園』の中に入って行く森岡たちと前山を見つけた。
おれは急いで道路を横断し、自然公園のほうまで足音を殺して走った。
川澄自然公園はそれなりの広さを持つ公園ではあるが、その遊具のしょぼさのせいで、常に人がいない寂れた公園だった。
自然公園に入り、森岡たちと前山を探した。ヤツラは公園内のトイレへ入って行った。
トイレか……。これはヤバイことになりそうだ。おれは忍び足でトイレのほうへ歩いた。が、おれより先にトイレに入ったヤツがいた。
林崎シンゴだった。
林崎シンゴはうちのクラスの生活安全委員で、担任の長谷川先生のお気に入りだ。成績は中の上といったところで、運動神経は良くもなければ悪くもない。だが、それなりにイケメンなお陰で女子からは人気で、クラスのヤンキーと優等生、お調子者たちとも仲がいいこともあって、カーストはかなり高い。
何で林崎が?ーーおれは目を疑った。
おれは物陰に隠れてトイレの様子を眺めた。少しして林崎は前山を連れて出て来た。前山も林崎もキズひとつない。それどころか、林崎は前山に話し掛けながら楽しそうに笑っている。
ワケがわからなかった。
林崎たちが去った後、おれは尚もトイレを見張った。少しして森岡たちが不機嫌そうな顔をして出てきた。キズはない。ケンカには発展しなかったようだった。
この日を境に、林崎は前山とつるむことが多くなった。何でも、林崎は総合学習をともに進める仲間として前山を選んだのだとか。
そのことに関してクラスでは驚きの声が上がった。だが、そのことで異議を立てるのは森岡たちだけで、それどころか前山は林崎とツルみだしたお陰か、クラスの人気者や優等生、果てはヤンキーとも仲良くなってしまった。
そうなると前山の周りには常に森岡たちよりカーストが上の人間がいることになり、結局森岡は前山に因縁をつけられなくなった。
が、前山に因縁がつけられなくなった後、森岡はおれに因縁をつけるようになって来た。
まったく面倒くさい。とはいえ、おれも気が長いほうではない。休み時間、教室で森岡に詰め寄られたおれは、森岡のしつこさにブチ切れそうになった。おれは拳をグッと握り、振り上げようとした。その時だったーー
「あー、いたいた」
そんな声が聴こえ、おれは横を見た。
林崎だった。
「平沢くん、探したよ」
助かった。その時はそう思った。
だが、後になってわかった。
林崎シンゴ、コイツがおれを探していた理由ーーそんなモノはなかったのだ。
今のおれにいえるのは、うちのクラスでトラブルが長続きしないのは、ひとえに林崎がいるからだろうということだ。
そう、林崎はとんでもないトラブル・キラーだったのだ。
ネズミ取りーーそこら中で発生するトラブルを見逃がさない林崎のことを、おれは陰でそう呼んだ。