【酒の神が導く物語~1~】
文字数 3,050文字
春、桜の花びらが地面に薄紅色の絨毯を作っていた。
大きな大きな桜の木、その裏に小さな喫茶店が建っていた。店の名前は『デュオニソス』。喫茶店の名前とは思えないその店は、小さいながらも親子二代に渡って、三十年ほど続いている古風な純喫茶だった。
デュオニソスの店長である『夏原』は、先代のマスターである母から店を継いだ、二十代後半の女性で、デュオニソスは、夏原とアルバイトの女子大生『春菜』と共に運営されていた。
朝、デュオニソスの入り口扉が乱暴に開かれた。
「遅れてすみません!」
春菜は髪を振り乱して入店した。小柄で、どこかお転婆なその様相は、彼女の幼さを物語っているようだった。
「大丈夫だよ。さ、準備しよ」
夏原がいう。春菜とは対照的に落ち着いていて、大人びた雰囲気。
開店前のデュオニソスにうっすらとした慌ただしさが浮かび上がる。
準備はすぐに終わった。しっかり者の夏原と活発な春菜に掛かれば、ちょっとした仕事の準備など、お茶のこサイサイだった。
「……お客さん、来ないですねぇ」客用のテーブル席で頬杖をつきながら春菜がいった。
「しょうがないよ。お客さん、殆ど取られちゃったから」
そういい、夏原は淡々とコーヒーの準備をしていた。すると突然、入り口のベルが鳴った。
「お客さんだ!」春菜は立ち上がった。「いらっしゃい……!」
店のドアが開くと、春菜はことばを失った。かと思いきや、さも面倒くさそうに、「ませぇ……」とことばを紡いだ。
「随分とご丁寧なことで」
そういって入店してきたのは、スーツ姿の気取った男。ガタイがよく、見た感じはスポーツマンといった感じだが、顔には冷酷な表情が張り付いており、一見して夏原と春菜を見下しているとわかる。
入店早々、男は図々しくテーブルに掛け、コーヒーをひとつ注文すると、
「夏原さん、例の話はご検討頂けましたか?」
例の話ーーそれは、デュオニソスを売り払って、土地を明け渡すという話だ。
「この土地を売るつもりはありませんよ、冬樹さん」
冬樹と呼ばれたこの男は夏原を嘲笑するように顔を歪めた。
「しかし、大変なんじゃないですか? 大手のライバルが目の前にいちゃ」
冬樹はとある企業で店舗開発のコンサル業務を担うビジネスマンだった。デュオニソスを訪れたのも、土地を買収して、企業躍進のため手を広げようという目的からだった。
冬樹は懐から財布を取り出し、一万円札を抜き取ると、テーブルの上に置いた。
「では、例のお話、考えておいてください。また来ます」
そういって、冬樹は店を後にした。注文したコーヒーには一切手をつけずに。
夏原と春菜の間でため息が漏れる。
「何なんですかぁ、あれ!」春菜がいう。「絶対、この店を守りましょうね」
「うん、そうだね」
夏原がそういうと、突然、スマホの着信音が鳴った。夏原はスマホを取り出し、内容を確認すると、さっきまで強ばっていた表情を一気に氷解させて、スマホをタップしはじめた。
「あー、幸せそうな顔してぇ! 相手の人とは、もう会ったんですかぁ?」
夏原は首を横に振った。
「えー! じゃあ、どこの誰だかわからない人とメッセージのやり取りしてるんですかぁ!?
信じらんない!」
「そんなことないよ! だってーー」
夏原が説明するには、メッセージの相手は、インターネット上にあるとあるマンガの愛好会で出会って仲良くなった男性とのことだった。何でも、その男性はこの近辺に住んでおり、会社も近所にあるのだという。
「大丈夫なんですかぁー!?」春菜は疑わしげにいう。
「大丈夫だよ!」
夏原は自信満々にいい、メッセージに返信のメッセージを入れたーー
「最近、落ち込むことが多くてさぁ……。ダメだなぁ」
とある企業の休憩室で、そのメッセージを眺めるひとりの男性がいた。男はメッセージに対して、
「そっか、大変そうだね。何があったの?」
男がメッセージを送信すると、数分して、返信があった。男は喜びに満ちた表情でメッセージを開いた。
「お店のことで色々あってさぁ、どうすればいいんだろうって感じで……。でも、アナタとメッセージのやり取りをしてると元気が出るなぁ。 いつもありがとうね! 土曜日に会えるのを楽しみにしてるよ!」
そのメッセージを目にした男は、顔を真っ赤にして机に伏せてしまったーー怪しげな笑みを浮かべて。
「何してるんですか?」
そのことばと共に肩をポンと叩かれると、男は飛び起きた。男はーーあの冬樹だった。さっきまでの冷酷な表情とは裏腹に、顔を真っ赤にして慌てふためいている。
「い、いやなんでもないんだ! これは……」
冬樹の視界にメガネを掛けた満面の笑みの若手社員が映る。細身で、如何にもやり手といった感じ。冬樹はため息をついた。
「秋彦か……」
この『秋彦』という男は冬樹の部下であり、よき理解者だった。気難しい冬樹を相手に、飄々と立ち回るその様は、まるで部下というよりは年下の友人といった感じだった。
「仕事サボって『秋彦か』はないでしょう。で、何してたんですか?……もしかして、また、メールしてたんでしょ」
冬樹は顔を更に赤らめ、
「ち、違う!」
「誤魔化したって無駄ですよ。先輩、わかりやすいんだから。でも、スゴイですよね。相手の顔も名前も知らないんでしょう?」
「ま、まぁ……」
「知ってることは、この街で店をやってるってことだけ、と。……あれ、今週末ですよね、相手の人に会うの。おれも行っていいすか?」
「来るな! 大体、何でお前そんな来たがってんだよ!」
「だって面白そうじゃないですか! それに、先輩ひとりでちゃんとやれます?」
冬樹は口をつぐんで何もいわなかった。
「ほらね。だからサポート役ですよ。で、目印とかは決めてあるんですか?」
冬樹は頷いた。目印は、互いが知り合うキッカケとなったマンガの単行本。落ち合う場所は、最近できた最新鋭の大型カフェテリア『ブリティッシュ・ラウンジ』。
「……ちょっとだけだぞ」
数日後の土曜の昼下がり。ブリティッシュ・ラウンジは大変な混みようだった。そんな中で、テーブルの上にマンガの単行本を置き、肩身を狭そうにして座っている女性がひとり。
そして、ブリティッシュ・ラウンジの入り口には、何やらこそこそと話をする男がふたり。
「ダメだ、帰る!」
男のひとりーー冬樹はそういって、踵を返そうとした。が、それも秋彦に引き止められ、
「何いってるんですかぁ。ここで帰ったら、後で絶対後悔しますよ」
冬樹は足を止めた。かと思いきや、振り返り、秋彦の肩を叩くと、
「よし、わかった。じゃあ偵察してきてくれ」
「へ? おれがすか?」
「そうだ」
「いやっすよ」
「じゃあ、帰る」
「わかりましたよ。行けばいいんでしょ、行けば。その代わり、逃げないで下さいよ」
「逃げるか!」
「いいましたね。それと、おれが偵察に行ったら、ちゃんと会いに行くんですよ」
「……わかった、わかったから!」
ニッと笑う秋彦。
「約束っすよ」
そういって、秋彦は店内に潜っていった。数分後、秋彦が戻ってきた。その顔は何かマズイものを見たかのように引きつっていた。
「どうだった?」
冬樹が訊ねると秋彦は二、三呼吸を整えてからいった。
「……落ち着いて、落ち着いて聴いて下さいね! 相手の人、向かいの喫茶店の女の人でした。あの……、夏原さんでしたっけ……」
「……は?」
冬樹の顔に、この世の終わりが見えた。
【続く】
大きな大きな桜の木、その裏に小さな喫茶店が建っていた。店の名前は『デュオニソス』。喫茶店の名前とは思えないその店は、小さいながらも親子二代に渡って、三十年ほど続いている古風な純喫茶だった。
デュオニソスの店長である『夏原』は、先代のマスターである母から店を継いだ、二十代後半の女性で、デュオニソスは、夏原とアルバイトの女子大生『春菜』と共に運営されていた。
朝、デュオニソスの入り口扉が乱暴に開かれた。
「遅れてすみません!」
春菜は髪を振り乱して入店した。小柄で、どこかお転婆なその様相は、彼女の幼さを物語っているようだった。
「大丈夫だよ。さ、準備しよ」
夏原がいう。春菜とは対照的に落ち着いていて、大人びた雰囲気。
開店前のデュオニソスにうっすらとした慌ただしさが浮かび上がる。
準備はすぐに終わった。しっかり者の夏原と活発な春菜に掛かれば、ちょっとした仕事の準備など、お茶のこサイサイだった。
「……お客さん、来ないですねぇ」客用のテーブル席で頬杖をつきながら春菜がいった。
「しょうがないよ。お客さん、殆ど取られちゃったから」
そういい、夏原は淡々とコーヒーの準備をしていた。すると突然、入り口のベルが鳴った。
「お客さんだ!」春菜は立ち上がった。「いらっしゃい……!」
店のドアが開くと、春菜はことばを失った。かと思いきや、さも面倒くさそうに、「ませぇ……」とことばを紡いだ。
「随分とご丁寧なことで」
そういって入店してきたのは、スーツ姿の気取った男。ガタイがよく、見た感じはスポーツマンといった感じだが、顔には冷酷な表情が張り付いており、一見して夏原と春菜を見下しているとわかる。
入店早々、男は図々しくテーブルに掛け、コーヒーをひとつ注文すると、
「夏原さん、例の話はご検討頂けましたか?」
例の話ーーそれは、デュオニソスを売り払って、土地を明け渡すという話だ。
「この土地を売るつもりはありませんよ、冬樹さん」
冬樹と呼ばれたこの男は夏原を嘲笑するように顔を歪めた。
「しかし、大変なんじゃないですか? 大手のライバルが目の前にいちゃ」
冬樹はとある企業で店舗開発のコンサル業務を担うビジネスマンだった。デュオニソスを訪れたのも、土地を買収して、企業躍進のため手を広げようという目的からだった。
冬樹は懐から財布を取り出し、一万円札を抜き取ると、テーブルの上に置いた。
「では、例のお話、考えておいてください。また来ます」
そういって、冬樹は店を後にした。注文したコーヒーには一切手をつけずに。
夏原と春菜の間でため息が漏れる。
「何なんですかぁ、あれ!」春菜がいう。「絶対、この店を守りましょうね」
「うん、そうだね」
夏原がそういうと、突然、スマホの着信音が鳴った。夏原はスマホを取り出し、内容を確認すると、さっきまで強ばっていた表情を一気に氷解させて、スマホをタップしはじめた。
「あー、幸せそうな顔してぇ! 相手の人とは、もう会ったんですかぁ?」
夏原は首を横に振った。
「えー! じゃあ、どこの誰だかわからない人とメッセージのやり取りしてるんですかぁ!?
信じらんない!」
「そんなことないよ! だってーー」
夏原が説明するには、メッセージの相手は、インターネット上にあるとあるマンガの愛好会で出会って仲良くなった男性とのことだった。何でも、その男性はこの近辺に住んでおり、会社も近所にあるのだという。
「大丈夫なんですかぁー!?」春菜は疑わしげにいう。
「大丈夫だよ!」
夏原は自信満々にいい、メッセージに返信のメッセージを入れたーー
「最近、落ち込むことが多くてさぁ……。ダメだなぁ」
とある企業の休憩室で、そのメッセージを眺めるひとりの男性がいた。男はメッセージに対して、
「そっか、大変そうだね。何があったの?」
男がメッセージを送信すると、数分して、返信があった。男は喜びに満ちた表情でメッセージを開いた。
「お店のことで色々あってさぁ、どうすればいいんだろうって感じで……。でも、アナタとメッセージのやり取りをしてると元気が出るなぁ。 いつもありがとうね! 土曜日に会えるのを楽しみにしてるよ!」
そのメッセージを目にした男は、顔を真っ赤にして机に伏せてしまったーー怪しげな笑みを浮かべて。
「何してるんですか?」
そのことばと共に肩をポンと叩かれると、男は飛び起きた。男はーーあの冬樹だった。さっきまでの冷酷な表情とは裏腹に、顔を真っ赤にして慌てふためいている。
「い、いやなんでもないんだ! これは……」
冬樹の視界にメガネを掛けた満面の笑みの若手社員が映る。細身で、如何にもやり手といった感じ。冬樹はため息をついた。
「秋彦か……」
この『秋彦』という男は冬樹の部下であり、よき理解者だった。気難しい冬樹を相手に、飄々と立ち回るその様は、まるで部下というよりは年下の友人といった感じだった。
「仕事サボって『秋彦か』はないでしょう。で、何してたんですか?……もしかして、また、メールしてたんでしょ」
冬樹は顔を更に赤らめ、
「ち、違う!」
「誤魔化したって無駄ですよ。先輩、わかりやすいんだから。でも、スゴイですよね。相手の顔も名前も知らないんでしょう?」
「ま、まぁ……」
「知ってることは、この街で店をやってるってことだけ、と。……あれ、今週末ですよね、相手の人に会うの。おれも行っていいすか?」
「来るな! 大体、何でお前そんな来たがってんだよ!」
「だって面白そうじゃないですか! それに、先輩ひとりでちゃんとやれます?」
冬樹は口をつぐんで何もいわなかった。
「ほらね。だからサポート役ですよ。で、目印とかは決めてあるんですか?」
冬樹は頷いた。目印は、互いが知り合うキッカケとなったマンガの単行本。落ち合う場所は、最近できた最新鋭の大型カフェテリア『ブリティッシュ・ラウンジ』。
「……ちょっとだけだぞ」
数日後の土曜の昼下がり。ブリティッシュ・ラウンジは大変な混みようだった。そんな中で、テーブルの上にマンガの単行本を置き、肩身を狭そうにして座っている女性がひとり。
そして、ブリティッシュ・ラウンジの入り口には、何やらこそこそと話をする男がふたり。
「ダメだ、帰る!」
男のひとりーー冬樹はそういって、踵を返そうとした。が、それも秋彦に引き止められ、
「何いってるんですかぁ。ここで帰ったら、後で絶対後悔しますよ」
冬樹は足を止めた。かと思いきや、振り返り、秋彦の肩を叩くと、
「よし、わかった。じゃあ偵察してきてくれ」
「へ? おれがすか?」
「そうだ」
「いやっすよ」
「じゃあ、帰る」
「わかりましたよ。行けばいいんでしょ、行けば。その代わり、逃げないで下さいよ」
「逃げるか!」
「いいましたね。それと、おれが偵察に行ったら、ちゃんと会いに行くんですよ」
「……わかった、わかったから!」
ニッと笑う秋彦。
「約束っすよ」
そういって、秋彦は店内に潜っていった。数分後、秋彦が戻ってきた。その顔は何かマズイものを見たかのように引きつっていた。
「どうだった?」
冬樹が訊ねると秋彦は二、三呼吸を整えてからいった。
「……落ち着いて、落ち着いて聴いて下さいね! 相手の人、向かいの喫茶店の女の人でした。あの……、夏原さんでしたっけ……」
「……は?」
冬樹の顔に、この世の終わりが見えた。
【続く】