【西陽の当たる地獄花~死拾伍~】
文字数 2,462文字
埃まみれの寺の一室に西陽が差す。
桧皮色の薄明かりと真っ黒な闇、漠然と浮かぶ牛馬の姿。その表情はこれまでの暴虐からは考えられないほど緊張感に満ちている。
「ここが大地獄だと……?」と牛馬。
薄闇の中に佇む悩顕がこくりと頷く。その顔は死んだように青白く、まるで亡霊のようだ。
「その通り」
悩顕のことばには何処か無機質な嫌いがある。だが、その虚無的な響きの中にこそ真実が潜んでいる、といった様子でもあった。
「それは、いつから……?」
「いっただろう? お前は何度かここに来ている、と。そのままの意味だよ」
「じゃあ……」
「そう、お前はここまでずっと、大地獄の幻想に踊らされて来たということだ」
踊らされて来た。そのことばが牛馬の顔から血色を失わせる。
「だからいっておるだろう。ここまで会った者たちの殆どが幻である、と。ひとつ教えてやろう。お前、途中から手が震えて仕方なかったろう。あれはお前が大地獄の幻想から目覚めようとしていて、肉体が無意識の内に反応してしまっていたからだ。更に、お前の前に現れた化け物、それはお前の意識の中に沈殿した恐怖が具現化したモノだ。しかし、随分と蜘蛛に対して恐怖を抱いているようだな」
蜘蛛。雨降る街の一角に咲くアジサイに絡み付いた蜘蛛の巣。巣には一匹の蝶が引っ掛かりもがいており、そんな蝶の羽を蜘蛛が貪る。牛馬にとって、その光景は終生残る不穏な記憶として刻まれることとなった。
それはそれとしてーー
もし、仮に自分が生きていたという事実を構成する要因の多くが幻想だったといわれたらどう思うだろう。まるで、自分がそこで生きていたという事実すら否定された気になるだろう。
「殆どが……?」
牛馬は尚も信じられないといった様子。悩顕はそんな牛馬の態度に苛立ちを覚えるように、厳しい声色でいう。
「だからいっておるだろう。……とはいえ、すべてがウソだったワケではない。確かに存在していた者はある」
「それは……?」
「例えば、わたしだ。わたしはあくまでお前にとっての案内人。大地獄に導き、その動きを監視することが目的だった」悩顕は淡々と語る。「……今はもはや覚えていないかもしれないが、前回の始まりで、貴様はわたしを殺した。だが、わたしは殺されてなどいなかった。何故なら、わたしはこの大地獄に存在していながら存在していないようなモノなのだから」
存在していながら存在していない。まったくもってワケのわからないことば。牛馬はただ呆然とするばかりで、返すことばもない。そんな牛馬に説明するよう、悩顕はことばを紡ぐ。
「いうなれば、わたしはひとつの魂のようなモノで、存在はしていながら肉体は存在していない。だからこそお前がわたしの肉体を切り裂き、殺したと思ったとしても、その肉体は存在していないのだから、殺せなどしなかったのだ。つまり、お前は存在しない肉体を殺したような気分になっていただけで、わたしの実態である魂は殺せはしなかったということだ。魂さえ残っていれば肉体などどうにでもなる。だから、わたしはお前が一度、大地獄から抜け出したと思った時に餓鬼の姿でお前の前に現れることが出来た、ということだ」
「待て!……待て」牛馬は混乱する。「つまり、何だ……。テメェが魂だけの存在で、その姿は自由自在だってことはわかった。じゃあ他のヤツラはどうなんだ? あの……」
牛馬のことばが途切れる。微かに甦った記憶。確かにその時は存在した者たちの名前を思い出せないのだろう。それを補足してやるように、
「鬼水も宗顕も存在しない。閻魔と神は存在するが、その人格は大きく異なる。ひとついえるのは、閻魔も神も、お前が幻想の中で見たような腰抜けではなく、まともな格好に厳粛な人格の持ち主だ。特に神はそう。あんな出鱈目な格好をする異常者ではない。あれはお前の抱く権力者の印象がそのまま具現化したモノだ」
神、猟奇的な馬鹿者。だが、それは単なる虚像でしかなかった。そう、牛馬が想像で作り上げた霞に過ぎなかったということだ。
「何だって……」牛馬はことばを失うも、絞り出すようにして、その先を続ける。「待て、じゃあ、あの……」
「白装束の男、奥村新兵衛か」静かに頷く牛馬に、悩顕は語る。「あれは確かに存在する。というのも、あの男も大地獄の住人なのだから」
「……あの男が?」
「そうだ。ヤツも大地獄の住人。本来なら大地獄には牢獄のような虚無の空間が孤立して存在しているだけだが、それが個人の強い感情によって引き付けられ、交わってしまうことがある。今回は恐らく、お前の猿田源之助に対する強い恨みが、同じ猿田源之助と因縁のあるあの男を呼び寄せたのだろう」
「おれが、ヤツを呼び寄せた、か……」
「そうだ。天地が返った後で奥村が姿を消したのは、お前の地獄とヤツのが分離したからだ」
「……そうだったか」
「そう。ヤツは猿田源之助の父親を殺し、その後もたくさんの者の命を奪った。あの男はここへ来る運命だったのだ。そして、猿田源之助。この男もいずれはこの大地獄へと導かれることとなる。これは揺るぐことはない」
猿田源之助が大地獄へ落ちる。そのことばで牛馬は驚愕しつつ、その表情に何処とない希望を抱かせる。
「どうした、何処となく嬉しそうだが」
「……どうだろうな。ひとついえるのは、おれはまだ終わっちゃいないってことだ」
うっすらと笑う牛馬に、悩顕も思わず笑う。
「漸くいつもの感じを取り戻したといった感じだな。しかし、それでよい。大地獄での生活に終わりはない。ずっと腐った魂として孤独に生き続けなければならないならば、そのくらい明るい面をしていたほうがいい」
「まったく、その通りだな……。だけどよ、ちょっとテメェに訊きたいことと頼みたいことがあるんだ。どうせ、ここは何もない虚無の世界。そこに非情な世界があるような幻想を抱き続けて生きなきゃならねぇ。なら、地獄のようなおれの頼みを聴いてくれてもいいよなぁ?」
「ことの次第による。申してみよ」
牛馬はニヤリと笑う。
【続く】
桧皮色の薄明かりと真っ黒な闇、漠然と浮かぶ牛馬の姿。その表情はこれまでの暴虐からは考えられないほど緊張感に満ちている。
「ここが大地獄だと……?」と牛馬。
薄闇の中に佇む悩顕がこくりと頷く。その顔は死んだように青白く、まるで亡霊のようだ。
「その通り」
悩顕のことばには何処か無機質な嫌いがある。だが、その虚無的な響きの中にこそ真実が潜んでいる、といった様子でもあった。
「それは、いつから……?」
「いっただろう? お前は何度かここに来ている、と。そのままの意味だよ」
「じゃあ……」
「そう、お前はここまでずっと、大地獄の幻想に踊らされて来たということだ」
踊らされて来た。そのことばが牛馬の顔から血色を失わせる。
「だからいっておるだろう。ここまで会った者たちの殆どが幻である、と。ひとつ教えてやろう。お前、途中から手が震えて仕方なかったろう。あれはお前が大地獄の幻想から目覚めようとしていて、肉体が無意識の内に反応してしまっていたからだ。更に、お前の前に現れた化け物、それはお前の意識の中に沈殿した恐怖が具現化したモノだ。しかし、随分と蜘蛛に対して恐怖を抱いているようだな」
蜘蛛。雨降る街の一角に咲くアジサイに絡み付いた蜘蛛の巣。巣には一匹の蝶が引っ掛かりもがいており、そんな蝶の羽を蜘蛛が貪る。牛馬にとって、その光景は終生残る不穏な記憶として刻まれることとなった。
それはそれとしてーー
もし、仮に自分が生きていたという事実を構成する要因の多くが幻想だったといわれたらどう思うだろう。まるで、自分がそこで生きていたという事実すら否定された気になるだろう。
「殆どが……?」
牛馬は尚も信じられないといった様子。悩顕はそんな牛馬の態度に苛立ちを覚えるように、厳しい声色でいう。
「だからいっておるだろう。……とはいえ、すべてがウソだったワケではない。確かに存在していた者はある」
「それは……?」
「例えば、わたしだ。わたしはあくまでお前にとっての案内人。大地獄に導き、その動きを監視することが目的だった」悩顕は淡々と語る。「……今はもはや覚えていないかもしれないが、前回の始まりで、貴様はわたしを殺した。だが、わたしは殺されてなどいなかった。何故なら、わたしはこの大地獄に存在していながら存在していないようなモノなのだから」
存在していながら存在していない。まったくもってワケのわからないことば。牛馬はただ呆然とするばかりで、返すことばもない。そんな牛馬に説明するよう、悩顕はことばを紡ぐ。
「いうなれば、わたしはひとつの魂のようなモノで、存在はしていながら肉体は存在していない。だからこそお前がわたしの肉体を切り裂き、殺したと思ったとしても、その肉体は存在していないのだから、殺せなどしなかったのだ。つまり、お前は存在しない肉体を殺したような気分になっていただけで、わたしの実態である魂は殺せはしなかったということだ。魂さえ残っていれば肉体などどうにでもなる。だから、わたしはお前が一度、大地獄から抜け出したと思った時に餓鬼の姿でお前の前に現れることが出来た、ということだ」
「待て!……待て」牛馬は混乱する。「つまり、何だ……。テメェが魂だけの存在で、その姿は自由自在だってことはわかった。じゃあ他のヤツラはどうなんだ? あの……」
牛馬のことばが途切れる。微かに甦った記憶。確かにその時は存在した者たちの名前を思い出せないのだろう。それを補足してやるように、
「鬼水も宗顕も存在しない。閻魔と神は存在するが、その人格は大きく異なる。ひとついえるのは、閻魔も神も、お前が幻想の中で見たような腰抜けではなく、まともな格好に厳粛な人格の持ち主だ。特に神はそう。あんな出鱈目な格好をする異常者ではない。あれはお前の抱く権力者の印象がそのまま具現化したモノだ」
神、猟奇的な馬鹿者。だが、それは単なる虚像でしかなかった。そう、牛馬が想像で作り上げた霞に過ぎなかったということだ。
「何だって……」牛馬はことばを失うも、絞り出すようにして、その先を続ける。「待て、じゃあ、あの……」
「白装束の男、奥村新兵衛か」静かに頷く牛馬に、悩顕は語る。「あれは確かに存在する。というのも、あの男も大地獄の住人なのだから」
「……あの男が?」
「そうだ。ヤツも大地獄の住人。本来なら大地獄には牢獄のような虚無の空間が孤立して存在しているだけだが、それが個人の強い感情によって引き付けられ、交わってしまうことがある。今回は恐らく、お前の猿田源之助に対する強い恨みが、同じ猿田源之助と因縁のあるあの男を呼び寄せたのだろう」
「おれが、ヤツを呼び寄せた、か……」
「そうだ。天地が返った後で奥村が姿を消したのは、お前の地獄とヤツのが分離したからだ」
「……そうだったか」
「そう。ヤツは猿田源之助の父親を殺し、その後もたくさんの者の命を奪った。あの男はここへ来る運命だったのだ。そして、猿田源之助。この男もいずれはこの大地獄へと導かれることとなる。これは揺るぐことはない」
猿田源之助が大地獄へ落ちる。そのことばで牛馬は驚愕しつつ、その表情に何処とない希望を抱かせる。
「どうした、何処となく嬉しそうだが」
「……どうだろうな。ひとついえるのは、おれはまだ終わっちゃいないってことだ」
うっすらと笑う牛馬に、悩顕も思わず笑う。
「漸くいつもの感じを取り戻したといった感じだな。しかし、それでよい。大地獄での生活に終わりはない。ずっと腐った魂として孤独に生き続けなければならないならば、そのくらい明るい面をしていたほうがいい」
「まったく、その通りだな……。だけどよ、ちょっとテメェに訊きたいことと頼みたいことがあるんだ。どうせ、ここは何もない虚無の世界。そこに非情な世界があるような幻想を抱き続けて生きなきゃならねぇ。なら、地獄のようなおれの頼みを聴いてくれてもいいよなぁ?」
「ことの次第による。申してみよ」
牛馬はニヤリと笑う。
【続く】