【藪医者放浪記~拾玖~】
文字数 2,062文字
緊迫し切った九十九街道にふと大きな弛みが訪れたようだった。
猿田源之助。如何にも眠そうな顔をしてアクビをしながら、道の真ん中を堂々と歩いている。そんな猿田の姿を、その場にいる全員が眺めている。猿田のうしろには小太りの着流し姿の男が見える。犬吉ではない。
「猿ちゃん……ッ!」寂れた旅館の中にいるお雉がいう。「来てくれたんだ」
「アレがお前のいってた男か」伝助は何処か困惑しているよう。「如何にも頼りない感じだけど、大丈夫なのか?」
伝助がいうのも無理はない。猿田の雰囲気は誰がどう見たって助太刀になりそうな強さは伺えないし、いわれたところで助太刀だと誰も信じはしないだろう。それは道に佇む藤十郎と寅三郎も同様のことだった。
「主はどなたぞ?」藤十郎はいう。
猿田はアクビを切っていう。「もしかして、水戸の武田家のご長男様で?」
「如何にもそうだが……」藤十郎は困惑を隠し切れない。「で、主は……?」
「松平天馬の遣いの者です。武田のご子息とその御一行様が九十九のほうに迷い込んでしまったと知らせがあって助太刀に参りました」
「はぁ……?」
猿田は寅三郎を見る。と、その先に立つ牛馬を見る。猿田はふたりの顔を見比べたかと思うと、頭を二、三叩いて見せる。
「可笑しいな……、同じ顔がふたつある……」
「待ってたぜ、猿田源之助」
猿田の名前を呼ぶのは、紛れもない牛馬である。そのことばに猿田は半目で牛馬のことを見る。一見すると弛緩しきった雰囲気ではあるが、全身からは力も抜け、その立ち姿には一分のスキも見られない。
「……貴殿か」
「まさか、こんなすぐに会えるとは思いもしなかったぜ。あの下手な同心の真似事なんかしなくとも、アンタの腕はわかるヤツにはわかる。まぁ、そこのボンクラふたりや、銀次んとこの三下じゃ、アンタは単なる自堕落な男にしか見えねぇだろうがな。なぁ、そうだろう、寅」
「……寅?」猿田はチラッと寅三郎を見る。「貴殿ら、兄弟で反目し合ってるのか」
「兄弟が何だ。この男に兄を名乗られるなんて、正直吐き気しかしねぇけどな」
「悲しいモノだな」
「何が、だ」
「おれには兄弟というモノはいなくてね。ひとり子で、いつだって自分の身は自分で何とか出来るようにしてきた。単純に羨ましかった。兄弟ってヤツがな」
「残念だが、兄弟ってのはそんなにいいモンじゃねぇぜ。血が繋がっていようと裏切るヤツは裏切るし、信用出来ないヤツはとことん信用する価値がねぇからな。権力を笠に着るマヌケ野郎なんて、所詮はひとりじゃ何も出来ないクズばかりだ。能なしほどよく威圧するってのは、そこの寅と寅の父親から教えて貰ったよ」
そういう牛馬の顔は凍りついている。まるで感情という感情を忘れてしまったかのよう。牛馬が話している最中の寅三郎は、まるで過去に起こったことから目を叛けるかのように視線を牛馬から逸らしている。
「さて、そういうことだ源之助さん。そこにいるマヌケふたりを助けたければ、おれと戦うしかない。銀次の一家の連中もやらなきゃならねぇしな。さぁ、どうするよ?」
猿田の視線は牛馬だけを見据えている。それ以外の存在はまるで視界の端にも映っていないとでもいわんばかりだった。
「猿田、源之助殿か」藤十郎がいう。
「そうですが」
「わたしからもお願いだ。このままではわたしは死に、そうなれば武田家は断絶だ。報酬ならいくらでもお出しする。だから、何とかしては貰えぬかね?」
虚ろな目付きで、猿田は藤十郎を見つめた。そのまま大きくため息をついたかと思うと、ふと呟く。
「……確かに、これではあんまりだな」
「……何か?」藤十郎。
「いえ。報酬はいりません。松平家のことにも関わる話ではありますから、そのことで個人的に報酬を頂いては、天馬殿の顔に泥を塗ることになる。おこころ遣いは非常にありがたいですが、そこは受け取るワケにはいきません」
「なるほど、そういうことであれば仕方がないだろう。では……」
「死ぬ準備は出来たか?」牛馬が割って入る。
唐突な問い掛けに寅三郎と藤十郎は硬直する。猿田は何の感動もないように虚ろな目を浮かべたまま、静かに牛馬を見詰めている。猿田は寅三郎と藤十郎を庇うように前に進み出る。
「いいこころがけだな」皮肉めいた口振りで牛馬はいう。「しかし、まさかこんなに早くやり合えるとは、な」
牛馬のことばに、猿田は何の感嘆もせず、ただただしっとりと濡れた花のように静かに佇んでいる。左手で刀に手を掛ける。
「正直、おれは用心棒なんてどうでもいいんだよ。ただ、権力に屈することなく、アンタのような狼のような実力者と剣を交えたい。それだけなんだよ。そのためなら仕えている組の事情なんかどうだっていいーー」
「なら……」猿田は牛馬のことばを遮るようにしていう。「その仕えている組がもう既に潰れているとしたら、どうする?」
「……あ?」と牛馬。
牛馬が猿田のことばの意味を理解できるはずもなかった。そして、それは藤十郎と寅三郎も。そしてーー
今度は猿田が不敵な笑みを浮かべる番だった。
【続く】
猿田源之助。如何にも眠そうな顔をしてアクビをしながら、道の真ん中を堂々と歩いている。そんな猿田の姿を、その場にいる全員が眺めている。猿田のうしろには小太りの着流し姿の男が見える。犬吉ではない。
「猿ちゃん……ッ!」寂れた旅館の中にいるお雉がいう。「来てくれたんだ」
「アレがお前のいってた男か」伝助は何処か困惑しているよう。「如何にも頼りない感じだけど、大丈夫なのか?」
伝助がいうのも無理はない。猿田の雰囲気は誰がどう見たって助太刀になりそうな強さは伺えないし、いわれたところで助太刀だと誰も信じはしないだろう。それは道に佇む藤十郎と寅三郎も同様のことだった。
「主はどなたぞ?」藤十郎はいう。
猿田はアクビを切っていう。「もしかして、水戸の武田家のご長男様で?」
「如何にもそうだが……」藤十郎は困惑を隠し切れない。「で、主は……?」
「松平天馬の遣いの者です。武田のご子息とその御一行様が九十九のほうに迷い込んでしまったと知らせがあって助太刀に参りました」
「はぁ……?」
猿田は寅三郎を見る。と、その先に立つ牛馬を見る。猿田はふたりの顔を見比べたかと思うと、頭を二、三叩いて見せる。
「可笑しいな……、同じ顔がふたつある……」
「待ってたぜ、猿田源之助」
猿田の名前を呼ぶのは、紛れもない牛馬である。そのことばに猿田は半目で牛馬のことを見る。一見すると弛緩しきった雰囲気ではあるが、全身からは力も抜け、その立ち姿には一分のスキも見られない。
「……貴殿か」
「まさか、こんなすぐに会えるとは思いもしなかったぜ。あの下手な同心の真似事なんかしなくとも、アンタの腕はわかるヤツにはわかる。まぁ、そこのボンクラふたりや、銀次んとこの三下じゃ、アンタは単なる自堕落な男にしか見えねぇだろうがな。なぁ、そうだろう、寅」
「……寅?」猿田はチラッと寅三郎を見る。「貴殿ら、兄弟で反目し合ってるのか」
「兄弟が何だ。この男に兄を名乗られるなんて、正直吐き気しかしねぇけどな」
「悲しいモノだな」
「何が、だ」
「おれには兄弟というモノはいなくてね。ひとり子で、いつだって自分の身は自分で何とか出来るようにしてきた。単純に羨ましかった。兄弟ってヤツがな」
「残念だが、兄弟ってのはそんなにいいモンじゃねぇぜ。血が繋がっていようと裏切るヤツは裏切るし、信用出来ないヤツはとことん信用する価値がねぇからな。権力を笠に着るマヌケ野郎なんて、所詮はひとりじゃ何も出来ないクズばかりだ。能なしほどよく威圧するってのは、そこの寅と寅の父親から教えて貰ったよ」
そういう牛馬の顔は凍りついている。まるで感情という感情を忘れてしまったかのよう。牛馬が話している最中の寅三郎は、まるで過去に起こったことから目を叛けるかのように視線を牛馬から逸らしている。
「さて、そういうことだ源之助さん。そこにいるマヌケふたりを助けたければ、おれと戦うしかない。銀次の一家の連中もやらなきゃならねぇしな。さぁ、どうするよ?」
猿田の視線は牛馬だけを見据えている。それ以外の存在はまるで視界の端にも映っていないとでもいわんばかりだった。
「猿田、源之助殿か」藤十郎がいう。
「そうですが」
「わたしからもお願いだ。このままではわたしは死に、そうなれば武田家は断絶だ。報酬ならいくらでもお出しする。だから、何とかしては貰えぬかね?」
虚ろな目付きで、猿田は藤十郎を見つめた。そのまま大きくため息をついたかと思うと、ふと呟く。
「……確かに、これではあんまりだな」
「……何か?」藤十郎。
「いえ。報酬はいりません。松平家のことにも関わる話ではありますから、そのことで個人的に報酬を頂いては、天馬殿の顔に泥を塗ることになる。おこころ遣いは非常にありがたいですが、そこは受け取るワケにはいきません」
「なるほど、そういうことであれば仕方がないだろう。では……」
「死ぬ準備は出来たか?」牛馬が割って入る。
唐突な問い掛けに寅三郎と藤十郎は硬直する。猿田は何の感動もないように虚ろな目を浮かべたまま、静かに牛馬を見詰めている。猿田は寅三郎と藤十郎を庇うように前に進み出る。
「いいこころがけだな」皮肉めいた口振りで牛馬はいう。「しかし、まさかこんなに早くやり合えるとは、な」
牛馬のことばに、猿田は何の感嘆もせず、ただただしっとりと濡れた花のように静かに佇んでいる。左手で刀に手を掛ける。
「正直、おれは用心棒なんてどうでもいいんだよ。ただ、権力に屈することなく、アンタのような狼のような実力者と剣を交えたい。それだけなんだよ。そのためなら仕えている組の事情なんかどうだっていいーー」
「なら……」猿田は牛馬のことばを遮るようにしていう。「その仕えている組がもう既に潰れているとしたら、どうする?」
「……あ?」と牛馬。
牛馬が猿田のことばの意味を理解できるはずもなかった。そして、それは藤十郎と寅三郎も。そしてーー
今度は猿田が不敵な笑みを浮かべる番だった。
【続く】