【リアルタイム・ロスタイム】
文字数 1,943文字
絶望の果てには希望があるーー何度となく自分にいい聴かせたことばだった。
山田和雅がパニックから立ち直ってもう数年になる。だが、それまでに掛かった時間と労力は今では思い出せないくらいに雑多で面倒なものだった。
パニックが酷かった時は、完全に時間が止まっていた。年を越しても、自分に待っているのは虚無の時間だけ。仕事をすることもなければ、何かを学ぶワケでもない。
やりたいことがなかったワケではなかった。ただ、一歩踏み出すには自分のマインドに潜む悪魔に打ち勝たなくてはならなかった。
その悪魔は強大であり、凶悪だった。人のいる場所での神経を狂わせるようなあの感覚と自分の時間は止まっているのに、周りの時間は進んでいるという現実は、今後二度と体験したくないというのが、和雅の本音だった。
夜、布団に潜っても続く微量な体調不良。いくら寝ても、いくら休んでもどこかで身体は生き続けることを否定し続けるような体調不良など、二度と体感したくない。
そんな過去を振り切るかのように、和雅は筋トレを始めた。バーを使ったプッシュアップ、スクワット、ローラーを使った腹筋運動にスタンドを使った懸垂と自分の肉体を苛めていく。
やったことのない人、トレーニングの習慣がない人からすれば、ハードに思えるかもしれないが、和雅にとってトレーニングは自分の手首をカミソリで切るのと大して変わらなかった。
生き続けたい。
生きているという実感が欲しい。
その実感を埋めてくれるのが痛みだけだった。だが、自分の身体を切りつける度胸はなかった。だからこそ、トレーニングという形で自分の身体を痛めつけた。
しかし、潜在意識は和雅に外へ出ることを許さなかった。だから閉じ籠るしかなかった。だが、家は肉体を守ってくれても、精神までは守ってくれない。負の連鎖ーー精神は守られるどころか、むしろ悪化する。
部屋からの脱出、それが精神には最良だとわかっていた。だが、出られなかった。それがパニックのジレンマというヤツだった。
そして、今もそれと近い状態にある。
年末年始に掛けて新種のウイルスの出現や感染者の増加によって自粛要請が出た今、和雅は外に出ることをやめた。
それはシンプルに自分が感染していないともいいきれないからだ。もしそうなら、近しい誰かに感染させてしまう恐れがある。それを防ぐ為には下手に外出するより、家で大人しくしていたほうがいい。
しかし、引きこもることは和雅にとって悪夢を呼び起こさせる起爆剤でもあった。
昨年前半の緊急事態宣言以来、芝居をやることもなくなり、習い事も半年弱ストップした。そうなると、和雅に生きる活力を与えてくれるモノはほぼなくなり、人生から緊張感が途切れ、とことん自堕落になってしまう。
一度そういった失敗をしているだけに今度は大丈夫。そう思えなくもないが、人間は過ちを繰り返す生き物だ。自分を律することを徹するには、相当な精神力と胆力が必要になる。
トレーニングはそんな自堕落な自分から逃げるのには打ってつけだった。和雅はトレーニングのペースを上げた。
トレーニングを終えると気持ちは晴れた。だが、不安と憂鬱はまたすぐやってくるだろう。
シャワーを浴びて浴室から出ると、身体を拭いながら外の景色を眺める。外夢の西エリアは閑古鳥が鳴いている。それもそうだろう。外夢市駅近辺は東西ともにウイルスの感染がしょっちゅう確認されているからだ。
和雅はウンザリしていた。この騒ぎが収まることを望む声をよく聞きはするが、あくまでそういう声があるというだけで、世間がそこへ向かっているようにはどうにも思えなかった。
恐らく今年もダメだろう。いや、下手すると向こう三年はダメかもしれない。考えれば考えるほどに負の思考が連鎖していく。
和雅には自信がなかった。これ以上自粛を続けていれば、再び自堕落なライフスタイルに陥るだろう。何もない中で、自分の人生に張り合いを持つことが難しいことはわかっていた。だが、そうなれば、また贅肉にまみれ、健康も阻害される。和雅はため息をついた。
スマホが振動した。詩織からだった。
「カズくん、元気? 最近全然会えてないからさ……、よかったら今日、みんなでリモートでご飯でもどうかなと思って……」
和雅の口許が弛んだ。別に恋人というワケではない。だが、こんな風にメッセージをくれる友人がいるだけでも精神は救われる。
すぐさま返信し、冷蔵庫の中身を確認した。足りない。和雅は財布を持ち、マスクをして部屋を出た。
どんな苦しい状況であろうとも、そこに友人がいれば、どうにかなるーーそれを和雅はよく知っていた。やはり、持つべきモノは友人だ。
閑古鳥の鳴く街に和雅の足音が静かに響いた。
山田和雅がパニックから立ち直ってもう数年になる。だが、それまでに掛かった時間と労力は今では思い出せないくらいに雑多で面倒なものだった。
パニックが酷かった時は、完全に時間が止まっていた。年を越しても、自分に待っているのは虚無の時間だけ。仕事をすることもなければ、何かを学ぶワケでもない。
やりたいことがなかったワケではなかった。ただ、一歩踏み出すには自分のマインドに潜む悪魔に打ち勝たなくてはならなかった。
その悪魔は強大であり、凶悪だった。人のいる場所での神経を狂わせるようなあの感覚と自分の時間は止まっているのに、周りの時間は進んでいるという現実は、今後二度と体験したくないというのが、和雅の本音だった。
夜、布団に潜っても続く微量な体調不良。いくら寝ても、いくら休んでもどこかで身体は生き続けることを否定し続けるような体調不良など、二度と体感したくない。
そんな過去を振り切るかのように、和雅は筋トレを始めた。バーを使ったプッシュアップ、スクワット、ローラーを使った腹筋運動にスタンドを使った懸垂と自分の肉体を苛めていく。
やったことのない人、トレーニングの習慣がない人からすれば、ハードに思えるかもしれないが、和雅にとってトレーニングは自分の手首をカミソリで切るのと大して変わらなかった。
生き続けたい。
生きているという実感が欲しい。
その実感を埋めてくれるのが痛みだけだった。だが、自分の身体を切りつける度胸はなかった。だからこそ、トレーニングという形で自分の身体を痛めつけた。
しかし、潜在意識は和雅に外へ出ることを許さなかった。だから閉じ籠るしかなかった。だが、家は肉体を守ってくれても、精神までは守ってくれない。負の連鎖ーー精神は守られるどころか、むしろ悪化する。
部屋からの脱出、それが精神には最良だとわかっていた。だが、出られなかった。それがパニックのジレンマというヤツだった。
そして、今もそれと近い状態にある。
年末年始に掛けて新種のウイルスの出現や感染者の増加によって自粛要請が出た今、和雅は外に出ることをやめた。
それはシンプルに自分が感染していないともいいきれないからだ。もしそうなら、近しい誰かに感染させてしまう恐れがある。それを防ぐ為には下手に外出するより、家で大人しくしていたほうがいい。
しかし、引きこもることは和雅にとって悪夢を呼び起こさせる起爆剤でもあった。
昨年前半の緊急事態宣言以来、芝居をやることもなくなり、習い事も半年弱ストップした。そうなると、和雅に生きる活力を与えてくれるモノはほぼなくなり、人生から緊張感が途切れ、とことん自堕落になってしまう。
一度そういった失敗をしているだけに今度は大丈夫。そう思えなくもないが、人間は過ちを繰り返す生き物だ。自分を律することを徹するには、相当な精神力と胆力が必要になる。
トレーニングはそんな自堕落な自分から逃げるのには打ってつけだった。和雅はトレーニングのペースを上げた。
トレーニングを終えると気持ちは晴れた。だが、不安と憂鬱はまたすぐやってくるだろう。
シャワーを浴びて浴室から出ると、身体を拭いながら外の景色を眺める。外夢の西エリアは閑古鳥が鳴いている。それもそうだろう。外夢市駅近辺は東西ともにウイルスの感染がしょっちゅう確認されているからだ。
和雅はウンザリしていた。この騒ぎが収まることを望む声をよく聞きはするが、あくまでそういう声があるというだけで、世間がそこへ向かっているようにはどうにも思えなかった。
恐らく今年もダメだろう。いや、下手すると向こう三年はダメかもしれない。考えれば考えるほどに負の思考が連鎖していく。
和雅には自信がなかった。これ以上自粛を続けていれば、再び自堕落なライフスタイルに陥るだろう。何もない中で、自分の人生に張り合いを持つことが難しいことはわかっていた。だが、そうなれば、また贅肉にまみれ、健康も阻害される。和雅はため息をついた。
スマホが振動した。詩織からだった。
「カズくん、元気? 最近全然会えてないからさ……、よかったら今日、みんなでリモートでご飯でもどうかなと思って……」
和雅の口許が弛んだ。別に恋人というワケではない。だが、こんな風にメッセージをくれる友人がいるだけでも精神は救われる。
すぐさま返信し、冷蔵庫の中身を確認した。足りない。和雅は財布を持ち、マスクをして部屋を出た。
どんな苦しい状況であろうとも、そこに友人がいれば、どうにかなるーーそれを和雅はよく知っていた。やはり、持つべきモノは友人だ。
閑古鳥の鳴く街に和雅の足音が静かに響いた。