【いろは歌地獄旅~朧月の夜~】

文字数 3,813文字

 朧月の夜は人死にが出る。

 そんな話を祖父から聴かされた篠崎勘太郎は、夜になって屋敷から抜け出した。

 勘太郎は旗本の長男で、人一倍正義感の強い小わっぱだった。学業にも優れ、父である勘之助の跡取りとしても申し分のなかった。

 中でも勘太郎が優れていたのは剣術の腕前だった。幼き時より新陰流の道場にて剣術を修行し、同じく槍や薙刀、柔術にも優れていた。

 そんな模範的な男児でありながら、勘太郎はいささか無鉄砲なところがあった。

 というのは、その正義感故に、誰かをイジメたり、誰かに嫌がらせをする者を許すことが出来ず、その者たちに武力を以て私的に制裁を加えるということをしがちだったということだ。

 死者は出していないとはいえ、勘太郎の制裁で大怪我した者はたくさんいた。その度に勘太郎は父母からこっぴどく怒られていた。

 だが、そんな時は隠居した祖父である勘兵衛にすがり、慰めて貰うというのが勘太郎にとっての慣例となっていた。

 そんなある時のこと、勘兵衛は勘太郎に朧月の夜に人死にが出るという話をしたワケだ。

 勘太郎は何処で、どうして、と色々なことを聴きたがったが、勘兵衛はそれらのことについて一切口を開かなかった。恐らく、その手の話をしてしまえば、また勘太郎が何かをするのではないかと懸念したのだろう。

 だが、勘兵衛の勘は当たりつつ外れていた。

 勘太郎が行動を起こすかも、というのは正しかった。しかし、勘太郎は詳細を知らずとも自らの手でそれを見つけようと屋敷を飛び出してしまったのだ。

 とはいえ、勘太郎はまだ十歳程度の小わっぱ。背丈もあまり高くはない。大人の振るう刀では長すぎるのはいうまでもなかった。

 だからこそ勘太郎は夜、静けさの中で父の脇差を持ち出したのだ。

 いくら背丈の低い小わっぱだろうと、脇差ならば低い背丈にはちょうどいい長さになる。勘太郎は寝間着姿から着物と袴に着替え、帯の間に父の脇差を差して外へ出た。

 夜の街中は死んだように静かだった。灯りも殆どなく、闇が視界を覆っている。納屋から持ち出して来た提灯がなければ、暗すぎて何も見えなかったに違いない。

 江戸紀では、基本的に夜間の外出は御法度とされている。地域ごとに小さな木戸が設置され、夜にはそれが閉められるために広い範囲を移動することは出来ない。

 だからこそ、勘太郎が動ける範囲というのは限りなく狭かった。

 とはいえ、勘太郎にとって問題なのは、月の霞んだ夜には人死にが出るということであって、移動範囲がどうということではない。そもそも、まだ幼い勘太郎には、そこまで遠くに行く体力も土地勘もなかったのだが。

 勘太郎は移動出来る場所を見回りした。とはいえ、人の姿など見えない。見えるワケがない。危険を犯してまで夜間に外出する者など、火の用心か、泥棒か辻斬りか、逢い引きか相対死にの男女ぐらいだからだ。

 その誰もいないという事実が、勘太郎の緊張感を煽った。これといった音も聴こえないし、灯りもない。まるで街全体がモノノケにでもなったようなまがまがしさがあった。

 勘太郎は顔を強張らせ、口を少し開けて呼吸していた。呼吸が荒くなっていた。目は見開かれ、あちらこちらへ視線が飛んだ。まだ春だというのに、額の辺りには汗が溜まっていた。

 唐突な物音。

 草木が揺れるような音だった。

 勘太郎はすぐさま音のしたほうを向き、「誰だ!」と怒鳴った。だが、何者も返事はしない。勘太郎は提灯を右に左に傾けながら、闇の中に潜んでいるかもしれない「誰か」に問い掛けた。問い掛け続けた。

 だが、やはり何者も反応はしなかった。

 勘太郎は、気のせいかと大きく息を吐いた。しかし、夜に緊張感を募らせながら歩くというのも疲れるモノだ。勘太郎は近くにある川辺で少し休むことにした。

 川辺に着くと、勘太郎はいいちょうどいい大きさの石に腰掛けた。勘太郎は提灯の火を消し、胸を撫で下ろした。

 流れる水のせせらぎ。春ということで少しずつではあるが、虫の音も聴こえて来ている。川面に映る朧気な月が反射して、辺りは僅かに明るかった。とても風流な光景だった。

 突如、勘太郎の後方でポツリと灯りが点いた。

 朧気な灯りが木々の間で揺れていた。まるでお化けのようだった。勘太郎は顔を引き吊らせて思わず「え……?」と呟いた。

 勘太郎は止まった。逃げるにしても、この暗い夜道を灯りなしで走るのは危険だし、歩くのもままならないだろう。それに、仮に物音を立ててしまえば、そこにいる何者かに気付かれてしまうかもしれない。相手が誰であれ、それだけはどうにも避けたいであろう。

 だが、勘太郎は所詮子供だった。というのは、恐怖以上に好奇心が勝ってしまったのだ。

 勘太郎は身体を低くして繁みを潜りながら、ポツリと浮かんだ灯りのほうへと向かった。音を立てないよう細心の注意をして。

 灯りが次第に大きくなっていく。そして、そこにある景色が明確な形をもって勘太郎の前に現れた。勘太郎は小さく口を開けた。

 女がいた。

 やたらと派手な着物に、男たちの欲望を詰め込んだような膨らんだ乳房とそれを包む赤い襦袢、大きな唇、口許にはほくろがあり、髪型は一本に纏めた下げ髪という、勘太郎が見たこともないような色気のある女だった。

 勘太郎は息を震わしながら女を眺めた。

 女はゆっくりと帯の結び目に手を掛けると、その結び目をほどき始めた。

 しなやかに垂れていく帯と、衣擦れのキュッという音。勘太郎の目は大きく見開かれる。

 そして女は着物に手を掛けた。ゆっくりと捲れていく着物から、艶かしい女の身体を内包する赤の長襦袢が露になる。そのすぐ下は女の豊満な肉体がある。その肉体の膨らみは、襦袢だけでは隠し切れず、所々で生々しい肉体の膨らみが自己主張していた。

 勘太郎はツバをゴクリと飲んだ。これから何が始まるのだ、とそんな好奇心が目の輝きに現れていた。だが、それも長くは続かなかった。

 女は完全に着物を脱ぎ落とすと、地面に垂れていた帯を拾い上げて、上に向かって投げた。投げた帯は木の太い枝に掛かった。女は木に掛かった帯を二、三、引っ張った。枝はたわむが折れる様子はなかった。

 それから女はその帯を結び、頑丈な輪っかを作った。女は作った輪っかに両手を掛けた。

 勘太郎は目を凝らした。

 女の顔は何処か寂しそうで、悲しそうだった。女はその輪っかに自分の首をーー

「何をしとる!?」

 勘太郎はつい我慢が出来ずに飛び出した。女はハッとして振り返った。驚きが女の美しい顔に刻み込まれた。

「あ、アンタは!?」

「そんなことして何になるというのだ!」

 女は一瞬、ハッとしたがすぐに、

「放っておいてよ! あたしはね、もう色んなことに嫌気が差したんだよ!」

「嫌気が差したからといって、そのようなことはしてはならぬ!」

「子供のアンタに何がわかるの!?」

「わかる! お主、足が震えているぞ!」

 女は勘太郎のことばで自分の足許を見た。震えている。大きくブルブルと。

 勘太郎は続ける。

「それにその顔、酷く引き吊っておるぞ!」

 勘太郎は帯刀していた脇差を引き抜いて、刀の平を女のほうへ向けた。

「ほら! よく見てみるのだ!」

 女は脇差の平を覗き込んだ。そこには勘太郎のいうように般若のように引き吊った女の顔があった。女は息を飲んでうしろじさり、尻餅をついてしまった。勘太郎は、

「お主はモノノケか何かに憑かれていたのだ。だから、あんな顔をしていたに違いない。でも、今はどうか。ほら、見ておくれ」

 勘太郎は再び脇差の平を女に向けた。女は再び平を覗き込んだ。と、そこには怯えた女の顔があった。女は口許に手を当てたかと思うと、今度は勢い良く泣き出した。

「……もうダメだと思ったの。これしかないって。でも、怖かった……。こんなことしたくないって、何度も止めようとした。だけど、あたしにはもう何処にも居場所なんかなくて……」

「辛くても、何とかなるではないか!」勘太郎は脇差を納刀しながらいった。「お主にはまだ命があるのだから。生きていれば、どうにでもなる! だから死んではならぬ!」

 女は勘太郎にすがりつき抱きついた。

「ごめんよ、坊、ありがとうね! あたし、もう少しだけ頑張ってみるよ!」

 夜闇に女の泣き声がこだました。

 草木の揺れる音はまるで女の決意を称賛しているように静かで壮大だった。

 女に抱きつかれた勘太郎は、どうすればいいかわからないといったようにどぎまぎしたが、結局そのままの状態で立ち尽くしていた。

 それから数刻、夜が明ける頃に女は去った。疲れて眠ってしまった勘太郎を置いて。

 昼頃になって勘太郎が屋敷に戻ると、鬼のような顔をした父母が待ち構えていた。勘太郎が滅茶苦茶に怒られたのはいうまでもない。

 勿論、女の話はしていない。

 その後、勘太郎は勘兵衛に呼び出された。勘兵衛は勘太郎を慰めていたが、勘太郎は何処か清々しい表情をしていた。

「どうした? 怒られて辛くはないのか?」

「いいえ。ですが、お祖父様のいうことは正しかったことがわかりましたから」

「わたしのいうことが?」

「朧月の夜には、ということです」

「えぇ?」勘兵衛は驚きを隠せなかった。「では、誰かが亡くなったのか?」

 勘太郎は首を横に振った。

「大丈夫、拙者がお助け申したから」

 この日、ひとりの子供がまたひとつ大人になった。
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登場人物紹介

どうも!    五条です!


といっても、作中の登場人物とかではなくて、作者なんですが。


ここでは適当に思ったことや経験したことをダラダラと書いていこうかな、と。


ま、そんな感じですわ。

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