【画面の向こうの友人たちよ】
文字数 1,965文字
やはり人は年を取っても変わらないモノなのかもしれないということだ。
まぁ、何でそんな話をするかというと理由は単純で、最近、おれが昔好きだったある物に再びハマってしまったからである。では、それは何か。それはーー
チャットである。
どういうワケか、おれはこの年になって匿名性のあるチャットにハマってしまったのだ。
元はといえば、おれも中学時代、ネットのチャット文化というモノにハマっていたワケだ。それは顔の知っている五村西の連中はもちろんだが、顔の知らない遠く離れた誰かとチャットをするのも結構好きだったのだ。
正直、おれ自身人見知りで、あまり見知らぬ人と話すのは得意ではないのだけど、とはいえ、ネットワークを介すと、顔も名前もわからないからか、案外そういった相手とは普通にメッセージのやり取りが出来てしまうのだ。
だが、おれが中学生の時というのは、まだインターネットにもアングラな雰囲気が残っており、ネットワークを介した出会いにより犯罪が起きた、だなんて物騒な話も少なくなかったこともあって、ネットでのそういったやり取りや友人としての出会いというのも、あまり推奨されていなかった。
だが、これがSNSの台頭によって、インターネットがオープンで、誰もがアクセスしやすいポップな雰囲気を醸し出すようになった結果、クラスの一軍を自称していたような薄ら寒い連中が自分の顔を晒して、開けたネットの世界で現実世界の知り合いたちと限りなく狭い、限定的な付き合いをするようになってしまい、インターネットが現実世界の延長のようになってしまった結果、インターネットも随分と肩身の狭い空間になってしまった気がするのだ。
当たり前だが、匿名性のある見知らぬ相手は完全ブロック。そんなヤツには用はない。そんな学校の教室で普通にあった「グループ化」のようなことがネットでも起きてからというモノ、ネットも随分とつまらなくなった。
だが、おれが好きだったのは、そういった何処かアングラだが、互いの顔すら知らない人たちが自分の趣味や何かを介して気軽に交流できるようなそんな空間だった。
間違っても、現実に関わりのある相手と現実の延長のようなグループで肩身の狭いだけの深いようで浅い、かつ密なようで薄っぺらい関係を築くなんてゴメンだったワケだ。
いうなれば、インターネットは現実でどうにもならないモノを抱えた人が逃げ込める最後の逃げ場であるべき、とおれは思うのだ。
老害だとか時代遅れとかいわれても構わない。でも、やっぱりおれが好きなネットというのはそういった匿名性があるからこそ好きなのだ。現実の知り合いだとどうしても遠慮しがちで、相談できないことも多いしな。
確かに顔が見えないとトラブルも起きがちになってしまうかもしれないけど、逆にだからこそ打ち解ける関係というのもあると思うのだ。
それに今のように緊急事態や蔓延防止でどうにも閉鎖的な時間が多くなると、現実で話せる相手も限られる。
勿論、職場のようなパブリックなコミュニティにいれば会話がなくなることはないにしても、そこに雑談のような活気があるとは必ずしもいい切れない。
そんな時、顔が見えない誰かと角の立たない交流が出来るのであれば、またこころの状態も変わってくるのではないか、と思うのだ。
かくいうおれも、十何年ぶりに匿名性のあるチャットにハマってしまったワケだけど、やはり顔の見えない相手とはいえ、そういった人が書き込むネットワーク上のプログラムの塵レベルでしかないメッセージであっても、孤独な魂には充分な救いになりうるのではと思うのだ。
そんな感じで、案外、現実でなくとも逃げ場はあるモノなのだ。相手の顔がわからないことは怖いかもしれないけど、だからこそ気楽にというのもあるとは思うのだ。
まぁ、だからといって昔のワル自慢、犯罪自慢はしちゃいけないし、宗教等の勧誘目的で近づくのもダメだけどな。
もはや死語となってしまった感じもあるけど、かつてあった『ネチケット』ということばが如何に大事なモノだったか、改めて考える必要があるのかもしれない。それは相手の顔と名前がわかっていようといなかろうと、だ。
どんな相手にでもエチケット、マナーというモノは必要だ。それは顔の知っている相手に対するネチケットが欠落しがちな現代だからこそ余計に、な。これは有名人相手をはじめ、自分の友人、知り合いレベルも勿論、な。
まぁ、何ていうか、現実の延長のような関係性に疲れた時は、見知らぬ誰かとコミュニケーションを取るのもいいかもしれないなーーもちろん、相手の見極めは大事ではあるけれど。
とりあえずいえるのはーー、
ルールを守って、清く正しく楽しめれば、それでいいんじゃないかな。
と、今日はそんな感じでーー
アスタラ。
まぁ、何でそんな話をするかというと理由は単純で、最近、おれが昔好きだったある物に再びハマってしまったからである。では、それは何か。それはーー
チャットである。
どういうワケか、おれはこの年になって匿名性のあるチャットにハマってしまったのだ。
元はといえば、おれも中学時代、ネットのチャット文化というモノにハマっていたワケだ。それは顔の知っている五村西の連中はもちろんだが、顔の知らない遠く離れた誰かとチャットをするのも結構好きだったのだ。
正直、おれ自身人見知りで、あまり見知らぬ人と話すのは得意ではないのだけど、とはいえ、ネットワークを介すと、顔も名前もわからないからか、案外そういった相手とは普通にメッセージのやり取りが出来てしまうのだ。
だが、おれが中学生の時というのは、まだインターネットにもアングラな雰囲気が残っており、ネットワークを介した出会いにより犯罪が起きた、だなんて物騒な話も少なくなかったこともあって、ネットでのそういったやり取りや友人としての出会いというのも、あまり推奨されていなかった。
だが、これがSNSの台頭によって、インターネットがオープンで、誰もがアクセスしやすいポップな雰囲気を醸し出すようになった結果、クラスの一軍を自称していたような薄ら寒い連中が自分の顔を晒して、開けたネットの世界で現実世界の知り合いたちと限りなく狭い、限定的な付き合いをするようになってしまい、インターネットが現実世界の延長のようになってしまった結果、インターネットも随分と肩身の狭い空間になってしまった気がするのだ。
当たり前だが、匿名性のある見知らぬ相手は完全ブロック。そんなヤツには用はない。そんな学校の教室で普通にあった「グループ化」のようなことがネットでも起きてからというモノ、ネットも随分とつまらなくなった。
だが、おれが好きだったのは、そういった何処かアングラだが、互いの顔すら知らない人たちが自分の趣味や何かを介して気軽に交流できるようなそんな空間だった。
間違っても、現実に関わりのある相手と現実の延長のようなグループで肩身の狭いだけの深いようで浅い、かつ密なようで薄っぺらい関係を築くなんてゴメンだったワケだ。
いうなれば、インターネットは現実でどうにもならないモノを抱えた人が逃げ込める最後の逃げ場であるべき、とおれは思うのだ。
老害だとか時代遅れとかいわれても構わない。でも、やっぱりおれが好きなネットというのはそういった匿名性があるからこそ好きなのだ。現実の知り合いだとどうしても遠慮しがちで、相談できないことも多いしな。
確かに顔が見えないとトラブルも起きがちになってしまうかもしれないけど、逆にだからこそ打ち解ける関係というのもあると思うのだ。
それに今のように緊急事態や蔓延防止でどうにも閉鎖的な時間が多くなると、現実で話せる相手も限られる。
勿論、職場のようなパブリックなコミュニティにいれば会話がなくなることはないにしても、そこに雑談のような活気があるとは必ずしもいい切れない。
そんな時、顔が見えない誰かと角の立たない交流が出来るのであれば、またこころの状態も変わってくるのではないか、と思うのだ。
かくいうおれも、十何年ぶりに匿名性のあるチャットにハマってしまったワケだけど、やはり顔の見えない相手とはいえ、そういった人が書き込むネットワーク上のプログラムの塵レベルでしかないメッセージであっても、孤独な魂には充分な救いになりうるのではと思うのだ。
そんな感じで、案外、現実でなくとも逃げ場はあるモノなのだ。相手の顔がわからないことは怖いかもしれないけど、だからこそ気楽にというのもあるとは思うのだ。
まぁ、だからといって昔のワル自慢、犯罪自慢はしちゃいけないし、宗教等の勧誘目的で近づくのもダメだけどな。
もはや死語となってしまった感じもあるけど、かつてあった『ネチケット』ということばが如何に大事なモノだったか、改めて考える必要があるのかもしれない。それは相手の顔と名前がわかっていようといなかろうと、だ。
どんな相手にでもエチケット、マナーというモノは必要だ。それは顔の知っている相手に対するネチケットが欠落しがちな現代だからこそ余計に、な。これは有名人相手をはじめ、自分の友人、知り合いレベルも勿論、な。
まぁ、何ていうか、現実の延長のような関係性に疲れた時は、見知らぬ誰かとコミュニケーションを取るのもいいかもしれないなーーもちろん、相手の見極めは大事ではあるけれど。
とりあえずいえるのはーー、
ルールを守って、清く正しく楽しめれば、それでいいんじゃないかな。
と、今日はそんな感じでーー
アスタラ。