【明日、白夜になる前に~睦拾壱~】
文字数 1,776文字
夜のストリートの空気は湿っている。
ネオンが湿気の中で揺れていて非常に神秘的に見える。まるで、ここは現実ではないように思えてならなかった。
ぼくは里村さんと別れていた。だが、顔は緊張感に満ちていると自分でもわかる。
ぼくは尻のポケットに収まったスマホがいつ振動するかを待ち望んでいる。だが、待てば待つほどにスマホは沈黙するばかりだ。
ぼくは彼女を見捨てたのか。違うとはいい切れない。だが、今のぼくに出来ることといえば、何もない。彼女を保護すれば、人質になっているという彼女の御家族に危害が加わることとなる。そうなるのは本意ではない。
これはもはや賭けだった。まず成功する保証はない。というよりむしろ、成功という概念があるのかもわからない。
だが、可能な限り早く動かなければならない。でなければ、彼女がどうなるかなんてわかったもんじゃない。
緊張感がぼくの意識を縛りつける。神経がキリキリと音を立て、ちょっとした物音にも敏感になるよう。まるで全身の毛穴ですべての感触を受け止めているようだった。
ぼくは地元へ戻ると、まずある場所に向かった。もう二度と向かうことはないだろうと思っていた場所。駅を出て繁華街を通り、公園横を通り抜け、ぼくは脇道へと入って進む。
あるところまで来て、ぼくは足を止める。ほんとちょっと見上げただけでもその大きさに酔ってしまいそうな大きな家だ。いや、それ以上に過去がぼくに待ったを掛けている。見えない手がぼくの肩を引き戻そうとしている。
だが、やれることはやっておかなければならない。まずは不確定の要素を潰していかなければならない。じゃないと、すべてが終わってしまう気がしてならない。
指が震える。インターホンのボタンを押すという子供でも容易に出来ることが、今のぼくには出来やしない。ぼくは自分が掲げている腕が義手である右腕だということにふと気づいた。無意識ながら、その行為に業を感じる。
もし、これまでの流れだったら、ぼくはインターホンを押すことが出来ず、たまたま帰って来た、或いは家から出てきた家族と出くわして何かしらのアクションがあると思う。
だが、それではダメなのだ。
もう受け身ばかりでいてはダメだ。ぼくはぼくの出来ることをやって自分の道を切り開いて行かなければならない。三十代にもなって情けないじゃないか。やれ、やるんだ。
押した。
ピンポーンという虚無的な音が響く。
通話が繋がるブツッという音が何処となく暴力的に思えてならなかった。
「はい……」
女性の声、明らかに不機嫌そう。それもそうだ。こんな夜遅くに来客など、普通の人ならまず苛立ちを覚えるのはいうまでもない。ぼくは大きくため息をつき、そしていう。
「夜分にすみません。わたし……」
自分の素性を明かすと、やや暗い声で、
「……何の用ですか?」
と返ってくる。明らかに歓迎していないのは声の低さでわかる。そう、いってしまえばぼくは被害者であり、『加害者』なのだから。ぼくは赤池家からたまきという娘を奪った『加害者』でしかないのだから。
「……ちょっと、娘さんのことでお話したいことがありまして」
答えは返って来ない。だが、インターホンのスピーカーが切れることもない。
考えている。きっと、どうするべきか考えているに違いない。そこで、ぼくは、
「虫のいい話だとは思っています。でも、五分だけでもいいんです! お願い出来ませんか?」思わず声が強張る。
「……わかりました」
そういってスピーカーが切れると少ししてから玄関扉が開く音がし、たまきのお母さんが現れる。たまきのお母さんはちょっと見ない間にかなり草臥れている。元は美魔女と呼んでも可笑しくないくらいキレイな人だったのに、髪は枯れた草木のようにパサパサになり、目の下にはクマが出来ている。皮膚は垂れ下がり、もはや180度変わってしまったという印象だった。
ぼくは思わず絶句したが、たまきのお母さんがこちらを見て来たのでぼくは慌てて頭を下げる。
「どうぞ……」
もはや声まで枯れ果ててしまったのだろうか、と思えるような元気のない声に、ぼくは思わずこころが痛くなった。
たまきのお母さんはぼくに注意を払うこともせずに、そのまま中へ入っていってしまう。ぼくも急いで続く。
……悪夢の再来など、なければいいが。
【続く】
ネオンが湿気の中で揺れていて非常に神秘的に見える。まるで、ここは現実ではないように思えてならなかった。
ぼくは里村さんと別れていた。だが、顔は緊張感に満ちていると自分でもわかる。
ぼくは尻のポケットに収まったスマホがいつ振動するかを待ち望んでいる。だが、待てば待つほどにスマホは沈黙するばかりだ。
ぼくは彼女を見捨てたのか。違うとはいい切れない。だが、今のぼくに出来ることといえば、何もない。彼女を保護すれば、人質になっているという彼女の御家族に危害が加わることとなる。そうなるのは本意ではない。
これはもはや賭けだった。まず成功する保証はない。というよりむしろ、成功という概念があるのかもわからない。
だが、可能な限り早く動かなければならない。でなければ、彼女がどうなるかなんてわかったもんじゃない。
緊張感がぼくの意識を縛りつける。神経がキリキリと音を立て、ちょっとした物音にも敏感になるよう。まるで全身の毛穴ですべての感触を受け止めているようだった。
ぼくは地元へ戻ると、まずある場所に向かった。もう二度と向かうことはないだろうと思っていた場所。駅を出て繁華街を通り、公園横を通り抜け、ぼくは脇道へと入って進む。
あるところまで来て、ぼくは足を止める。ほんとちょっと見上げただけでもその大きさに酔ってしまいそうな大きな家だ。いや、それ以上に過去がぼくに待ったを掛けている。見えない手がぼくの肩を引き戻そうとしている。
だが、やれることはやっておかなければならない。まずは不確定の要素を潰していかなければならない。じゃないと、すべてが終わってしまう気がしてならない。
指が震える。インターホンのボタンを押すという子供でも容易に出来ることが、今のぼくには出来やしない。ぼくは自分が掲げている腕が義手である右腕だということにふと気づいた。無意識ながら、その行為に業を感じる。
もし、これまでの流れだったら、ぼくはインターホンを押すことが出来ず、たまたま帰って来た、或いは家から出てきた家族と出くわして何かしらのアクションがあると思う。
だが、それではダメなのだ。
もう受け身ばかりでいてはダメだ。ぼくはぼくの出来ることをやって自分の道を切り開いて行かなければならない。三十代にもなって情けないじゃないか。やれ、やるんだ。
押した。
ピンポーンという虚無的な音が響く。
通話が繋がるブツッという音が何処となく暴力的に思えてならなかった。
「はい……」
女性の声、明らかに不機嫌そう。それもそうだ。こんな夜遅くに来客など、普通の人ならまず苛立ちを覚えるのはいうまでもない。ぼくは大きくため息をつき、そしていう。
「夜分にすみません。わたし……」
自分の素性を明かすと、やや暗い声で、
「……何の用ですか?」
と返ってくる。明らかに歓迎していないのは声の低さでわかる。そう、いってしまえばぼくは被害者であり、『加害者』なのだから。ぼくは赤池家からたまきという娘を奪った『加害者』でしかないのだから。
「……ちょっと、娘さんのことでお話したいことがありまして」
答えは返って来ない。だが、インターホンのスピーカーが切れることもない。
考えている。きっと、どうするべきか考えているに違いない。そこで、ぼくは、
「虫のいい話だとは思っています。でも、五分だけでもいいんです! お願い出来ませんか?」思わず声が強張る。
「……わかりました」
そういってスピーカーが切れると少ししてから玄関扉が開く音がし、たまきのお母さんが現れる。たまきのお母さんはちょっと見ない間にかなり草臥れている。元は美魔女と呼んでも可笑しくないくらいキレイな人だったのに、髪は枯れた草木のようにパサパサになり、目の下にはクマが出来ている。皮膚は垂れ下がり、もはや180度変わってしまったという印象だった。
ぼくは思わず絶句したが、たまきのお母さんがこちらを見て来たのでぼくは慌てて頭を下げる。
「どうぞ……」
もはや声まで枯れ果ててしまったのだろうか、と思えるような元気のない声に、ぼくは思わずこころが痛くなった。
たまきのお母さんはぼくに注意を払うこともせずに、そのまま中へ入っていってしまう。ぼくも急いで続く。
……悪夢の再来など、なければいいが。
【続く】