【藪医者放浪記~拾伍~】
文字数 2,534文字
葬儀のような空気が蔓延している。
口をきけなくなったお咲の君に、もはやしゃべる気力をも失ってしまった松平天馬にお羊。空気は非常に重い。
それもそうだ。
医者を探しだし、いざ治療をして貰おうとしたら、助手である妻を探して欲しいといわれ、そして探してくれば今度は何処かへ話し合いに行ってしまう。不穏でないとはいえない。
と、そこで障子が開く。天馬とお羊が目を向けるとそこには茂作とお涼が隠し切れない品のない笑みを浮かべて立っている。
「先生ッ!」お羊は先だって口を挟む。「治療のほうは……ッ!」
「お羊ッ!」
天馬のことばにハッとするお羊。
「失礼致しました……」
「いえいえ、いいんですよぉ!」お涼がご機嫌な様子でいう。「それより、天馬様?」
お涼は城が崩れ落ちるように勢いよく天馬の前に座り込む。礼儀もクソもない。
「何でしょうか……?」
「話はわかりました。大変でいらしたんですね。でも、もう大丈夫! しっかりと治療しますのでねぇ! 大薮が!」
「……え!?」
茂作は声を上げる。胸を叩き、自信満々にいうお涼とは対照的だ。天馬もこれには困ってしまったようで、困惑気味に笑みを見せると、
「それはありがたいのですが、順庵先生は驚かれていますが……」
「え……!?」
お涼は恨めしげに茂作のほうを見る。その視線はまるで茂作の反応を糾弾するよう。茂作もこれには困ってしまい、何とか取り繕おうとするも、上手くことばは出て来ない。
「いいから、突っ立ってないで座ったら」
お涼にいわれ、茂作は慌ててお涼のとなりに座る。沈黙がボンヤリと膜を張る。全員が全員ーーというか、天馬とお羊がーーその場の流れを掴もうと必死になっている、といった感じ。
愛想笑いを続けるお涼、目が右に左に泳いでいる茂作、そんなふたりに困惑の色を隠せない天馬とお羊、そして石のように動かないお咲。異様な光景が広がっている。
「で、では、治療を……」
茂作は手を伸ばし、お咲の頬を触り唸る。
「……いかがですか?」
天馬のことばを無視して、茂作は続いて頬を触る。お咲はちょっとイヤそうな顔をしていた。そして、茂作はお咲の胸を触ろうとした。
「やめろ」女の声。
「あ、すいません」首を傾げる茂作、お涼のほうを見る。「……今何かいったか?」
「え? いや、何も」
「アナタは?」とお羊に訊ねる茂作。
「……何も」
「そ、そうか。気のせいか……」
「如何でしょうか?」と天馬。
茂作は腕を組み、目をつむって唸る。何かを考えているようだが、実際は何も考えていないのが丸見え。いや、何とかこの状況を乗り切る術を思案してはいるのだろうが。
静寂が訪れる。と、お涼が何やらモジモジとし始め、かと思いきや、
「あのぉ、すみません」お涼がいいにくそうにいう。「……かわやはどちらでしょうか?」
かわやとは、今でいうところの便所のことである。
「お羊、案内してあげなさい」
天馬にいわれ、お羊は立ち上がり、お涼を伴って部屋から消える。茂作と天馬、そしてお咲の三人は再び沈黙の中に身をおく。
「あのぉ、先生……」
「は、はいッ!」
「それで、お咲は何の病なんで……?」
「えッ!?」酷く驚く茂作。「え、えっとですねぇ……、それは!」
「天馬殿」
その声に合わせて障子が勢い良く開く。そこに現れたのは猿田源之助だ。その表情は何処か真剣で緊張しているようだった。
「おや、源之助か。どうした?」
「ちょっと、来て頂けませんか」
「何だい、込み入った話なのかい?」
「そうです」
猿田の目には鋭い光が宿っているよう。それを見た天馬は、一瞬で表情を険しくする。
「……わかった。すぐ行く。はなれのほうで待っておれ」
その天馬の声色は、先程まで困惑し憔悴しきっていた男とは思えないくらいに低く落ち着いている。天馬にいわれ、猿田は相槌を打つとそのままゆっくりと障子を閉め、猿田の影はそのまま陽が落ちるようにスーッと消える。
「……順庵先生」重く鳴り響く鐘の音のように天馬は切り出す。
「はいッ!?」
「申しワケないが、少しお咲とふたりで治療をしてて頂けませんか。わたくしは野暮用が出来てしまったモノで」
「あ、はぁ……」茂作は曖昧に頷く。
「ご理解頂きありがとうございます。では、少々の間、席を外しますのでよろしく」
そういって天馬はゆっくりと障子をくぐって行った。茂作は幽霊のように消えていった天馬のほうに視線を残す。その目には恐怖が浮かんでいた。
松平天馬。いかにもボンクラそうな旗本の殿様。目の前の出来事に右往左往するばかりで、そこに威厳などというモノは欠片もない。
はずだった。
だが、部屋を後にする前に見せたあの鋭い眼光は普通の人間が見せるモノではなかった。確かに茂作には侍の知り合いなどいない。そもそも身分が違うのだから、国を脱して来た長屋住まいの侍相手でもない限りはまともに侍と顔を合わせ、口をきき、目を合わせることもない。
町で見た侍たちは高値で買った威厳を纏っているようで高圧的な印象はあったが、いってしまえばそれまでだった。その人物の本質を見たワケではないので、正確な話は出来ないにしろ、とはいえ、あんな鋭く冷たい眼光の出来る者を茂作は知らなかった。
天馬の眼光は侍の目付き、というよりは
人殺しの目だった。
震えは背骨からやって来る。だが、目の前にいるのはあの天馬の娘。それもあのタヌキのような親父と比べモノにならないほどに可愛らしい。それに、胸も大きい。
茂作はここ最近、そういった事情からは遠ざかっていた。江戸にいた頃は吉原や深川で女を買うこともあったが、それも銭が飛ぶ。ともなれば、職を失って以降は出向くことも出来なかったのはいうまでもない。
茂作の目はお咲の胸に釘付けになっている。
理性と恐怖、そして性欲が三者三様向かい合っている。茂作の頭は茹で上がらんといわんばかりになっていた。そして、茂作は、
「……ち、治療をするから、動くんじゃねぇぞぉ?」
と両手を前に出してお咲の胸のほうへ伸ばす。
突然、茂作の頬が弾かれた。
「止めろよ」女の声がいった。
女の声。女の。女の……。茂作は見てしまった。動く口許。そして、さっきの声。
「あっ!?」
茂作は声を上げた。
【続く】
口をきけなくなったお咲の君に、もはやしゃべる気力をも失ってしまった松平天馬にお羊。空気は非常に重い。
それもそうだ。
医者を探しだし、いざ治療をして貰おうとしたら、助手である妻を探して欲しいといわれ、そして探してくれば今度は何処かへ話し合いに行ってしまう。不穏でないとはいえない。
と、そこで障子が開く。天馬とお羊が目を向けるとそこには茂作とお涼が隠し切れない品のない笑みを浮かべて立っている。
「先生ッ!」お羊は先だって口を挟む。「治療のほうは……ッ!」
「お羊ッ!」
天馬のことばにハッとするお羊。
「失礼致しました……」
「いえいえ、いいんですよぉ!」お涼がご機嫌な様子でいう。「それより、天馬様?」
お涼は城が崩れ落ちるように勢いよく天馬の前に座り込む。礼儀もクソもない。
「何でしょうか……?」
「話はわかりました。大変でいらしたんですね。でも、もう大丈夫! しっかりと治療しますのでねぇ! 大薮が!」
「……え!?」
茂作は声を上げる。胸を叩き、自信満々にいうお涼とは対照的だ。天馬もこれには困ってしまったようで、困惑気味に笑みを見せると、
「それはありがたいのですが、順庵先生は驚かれていますが……」
「え……!?」
お涼は恨めしげに茂作のほうを見る。その視線はまるで茂作の反応を糾弾するよう。茂作もこれには困ってしまい、何とか取り繕おうとするも、上手くことばは出て来ない。
「いいから、突っ立ってないで座ったら」
お涼にいわれ、茂作は慌ててお涼のとなりに座る。沈黙がボンヤリと膜を張る。全員が全員ーーというか、天馬とお羊がーーその場の流れを掴もうと必死になっている、といった感じ。
愛想笑いを続けるお涼、目が右に左に泳いでいる茂作、そんなふたりに困惑の色を隠せない天馬とお羊、そして石のように動かないお咲。異様な光景が広がっている。
「で、では、治療を……」
茂作は手を伸ばし、お咲の頬を触り唸る。
「……いかがですか?」
天馬のことばを無視して、茂作は続いて頬を触る。お咲はちょっとイヤそうな顔をしていた。そして、茂作はお咲の胸を触ろうとした。
「やめろ」女の声。
「あ、すいません」首を傾げる茂作、お涼のほうを見る。「……今何かいったか?」
「え? いや、何も」
「アナタは?」とお羊に訊ねる茂作。
「……何も」
「そ、そうか。気のせいか……」
「如何でしょうか?」と天馬。
茂作は腕を組み、目をつむって唸る。何かを考えているようだが、実際は何も考えていないのが丸見え。いや、何とかこの状況を乗り切る術を思案してはいるのだろうが。
静寂が訪れる。と、お涼が何やらモジモジとし始め、かと思いきや、
「あのぉ、すみません」お涼がいいにくそうにいう。「……かわやはどちらでしょうか?」
かわやとは、今でいうところの便所のことである。
「お羊、案内してあげなさい」
天馬にいわれ、お羊は立ち上がり、お涼を伴って部屋から消える。茂作と天馬、そしてお咲の三人は再び沈黙の中に身をおく。
「あのぉ、先生……」
「は、はいッ!」
「それで、お咲は何の病なんで……?」
「えッ!?」酷く驚く茂作。「え、えっとですねぇ……、それは!」
「天馬殿」
その声に合わせて障子が勢い良く開く。そこに現れたのは猿田源之助だ。その表情は何処か真剣で緊張しているようだった。
「おや、源之助か。どうした?」
「ちょっと、来て頂けませんか」
「何だい、込み入った話なのかい?」
「そうです」
猿田の目には鋭い光が宿っているよう。それを見た天馬は、一瞬で表情を険しくする。
「……わかった。すぐ行く。はなれのほうで待っておれ」
その天馬の声色は、先程まで困惑し憔悴しきっていた男とは思えないくらいに低く落ち着いている。天馬にいわれ、猿田は相槌を打つとそのままゆっくりと障子を閉め、猿田の影はそのまま陽が落ちるようにスーッと消える。
「……順庵先生」重く鳴り響く鐘の音のように天馬は切り出す。
「はいッ!?」
「申しワケないが、少しお咲とふたりで治療をしてて頂けませんか。わたくしは野暮用が出来てしまったモノで」
「あ、はぁ……」茂作は曖昧に頷く。
「ご理解頂きありがとうございます。では、少々の間、席を外しますのでよろしく」
そういって天馬はゆっくりと障子をくぐって行った。茂作は幽霊のように消えていった天馬のほうに視線を残す。その目には恐怖が浮かんでいた。
松平天馬。いかにもボンクラそうな旗本の殿様。目の前の出来事に右往左往するばかりで、そこに威厳などというモノは欠片もない。
はずだった。
だが、部屋を後にする前に見せたあの鋭い眼光は普通の人間が見せるモノではなかった。確かに茂作には侍の知り合いなどいない。そもそも身分が違うのだから、国を脱して来た長屋住まいの侍相手でもない限りはまともに侍と顔を合わせ、口をきき、目を合わせることもない。
町で見た侍たちは高値で買った威厳を纏っているようで高圧的な印象はあったが、いってしまえばそれまでだった。その人物の本質を見たワケではないので、正確な話は出来ないにしろ、とはいえ、あんな鋭く冷たい眼光の出来る者を茂作は知らなかった。
天馬の眼光は侍の目付き、というよりは
人殺しの目だった。
震えは背骨からやって来る。だが、目の前にいるのはあの天馬の娘。それもあのタヌキのような親父と比べモノにならないほどに可愛らしい。それに、胸も大きい。
茂作はここ最近、そういった事情からは遠ざかっていた。江戸にいた頃は吉原や深川で女を買うこともあったが、それも銭が飛ぶ。ともなれば、職を失って以降は出向くことも出来なかったのはいうまでもない。
茂作の目はお咲の胸に釘付けになっている。
理性と恐怖、そして性欲が三者三様向かい合っている。茂作の頭は茹で上がらんといわんばかりになっていた。そして、茂作は、
「……ち、治療をするから、動くんじゃねぇぞぉ?」
と両手を前に出してお咲の胸のほうへ伸ばす。
突然、茂作の頬が弾かれた。
「止めろよ」女の声がいった。
女の声。女の。女の……。茂作は見てしまった。動く口許。そして、さっきの声。
「あっ!?」
茂作は声を上げた。
【続く】