【酒の神が導く物語~3~】
文字数 2,756文字
「……すみません、冬樹さん。今日は立ち退きの話はーー」
夏原がそういうと、冬樹は彼女のことばを遮るようにしてーー
「いや、その話はいいんだ! その、今日は話があってーー」
そういって冬樹は立ち退きがなしになったことを告げた。夏原は特に喜ぶ様も見せずに、話を聴いていた。
「……そうですか。でも、それだけを伝えにわざわざ来て下さったんですか?」
「それもそう、だけど……」冬樹は一瞬口をつぐみ、ことばを継いだ。「本当は、謝りに来たんだ……」
「謝りに?」
夏原が不思議そうに首を傾げると、冬樹はこくりと頷いて見せた。
「うん、先日のことを謝りたくて。その、何ていうか……、この前はヒドイことをいって本当にゴメン。偉そうに、知ったような口を利いて、おれは何もわかっていなかった。キミがどんな気持ちであそこにいたのかも……」
神妙な空気が場を包み込んだ。夏原は始めこそ複雑に顔を歪めていたが、冬樹のことばが途切れるとうっすらと笑顔を浮かべてーー
「いいんですよ。実際に相手の人は来なかったんですから……」
「……本当にゴメン」
消え入るような冬樹の声。対処的に夏原は笑顔を作って明るくいうーー
「いいんですって。それに、私、母の病気の関係で東京に行かなきゃならないんです。だから、この店ともしばらくおさらばかなぁ……」
「そっか……、お母様、何もなければいいけど」
「ふふ、どうしたんですか、急に。でも、ありがとうございます。じゃあ、私も色々とやらなきゃならないことがあるので、今日はここら辺で」
「……あ、そ、そうだよね。長居して申し訳ない。……じゃ、さようなら」
「うん……、さようなら」
夏原の笑みに対して、冬樹の顔には寂しげな微笑が張り付いていた。その表情には、何か複雑な思いが秘められているようだった。
「……さようなら」弱々しく、冬樹はいった。
「さようなら」
冬樹はそのまま数秒ほど静止していたが、やがておもむろに振り返り、『デュオニソス』を出ていこうとしたーーが、冬樹は再び足を止めた。その視線の先には、マンガのポスター。
「……この絵、ステキだね」
「え?ーーあぁ、その絵、私の好きなマンガのものなんです。でも、意外だな。アナタがその絵を見てそんな風におっしゃるなんて」
「意外?」
夏原は大きく頷いた。
「うん。何というか、アナタはすごい意地悪な人だと思ってたから」
冬樹は申し訳なさそうにうなだれた。夏原は慌ててフォローするように、
「そんな気にしないで下さいよ。……実は、あの日待ち合わせしてたのも、このマンガが好きだって人とだったんです」
「そうだったんだ」
「えぇ。でも、インターネットのファンサイトで知り合った人だから名前も顔もわからない。わかっているのは、この街に住んでて、この街で働いているってことだけ」
「そうなんだ。でも、よくそんな顔も名前もわからない人に会おうと思えたね。怖くなかったの?」
「全然。だって、このマンガが好きな人に、悪い人はいないから……」
夏原のことばに、冬樹はふと何かを呟いた。
「え、何ですか?」
夏原がそう訊ねるも、冬樹はさっきまでの沈んだ雰囲気から一変、毅然とした態度で、
「いや、何でもないんだ。失礼します」
そういって店を飛び出してしまった。
それから数日後、『デュオニソス』では、夏原と春菜が休業前最後の開店準備をしていた。
「夏原さん……ッ! 絶対、絶対帰って来て下さいね……ッ!」
「そんな、大げさだよ。別にいなくなるワケじゃないんだからさ。また、落ち着いたら戻って来るから、さ」
「約束、ですよぉ……ッ!」
「わかってるって」
その時、勢いよく玄関の扉が開く音がした。店内へ続くドアが開くと、そこにいたのは秋彦だった。何やら慌てた様子。
「すみません! うちの冬樹は来ていらっしゃいませんか!? 今朝から連絡が取れなくて」
「冬樹さん?」夏原と春菜は顔を見合わせた。夏原は首を横に振り、「いえ、来てませんが」
「あー、もう何やってんのかなぁ、まったく何処にいるんだろ……。こんな時間だっていうのにーー」秋彦は頭をボリボリ掻いた。
「どうか、されましたか?」
挙動不審な秋彦の様子を伺うように夏原は訊ねた。秋彦はそれを慌てて否定し、
「いえいえ! こっちの話です!」
秋彦はニコニコ笑顔でその場を取り繕おうとしているようだった。夏原は首を傾げた。
「……でも、例のメールの人と会えなくて残念でしたね」春菜がいった。
「そのことだけど」夏原は口を結んだ。「実は……、今日会うことになってるんだ。ここで。難しいとはいったんだけど、最後にどうしても、ほんの少しでもいいからっていうから、店の前まで来て貰うことになったんだ」
「そうなんですか?」
「うん。でも、いつ来るんだろーー」
「あのぉ」秋彦がいった。「スミマセン、聴こえてしまったんですが、夏原さん、今日これからメールのお相手とお会いするんですよね?」
「え?……えぇ」
「そうですか。はぁ、よかった……」
秋彦は大げさに胸を撫で下ろした。
「あのぉ、何か……?」
「い、いぇ! 何でもないんです! それであの、もしよろしかったら、先輩から連絡あるまで、ここで待たせて頂けないでしょうか?」
「え、まぁ、いいですけど」
「よかったぁ。ありがとうございます!」
「いえ、大丈夫ですよ。じゃあ、春菜ちゃん。私は外にいるから、店の支度をよろしくね」
「わかりましたぁ」
夏原は春菜に微笑み、そのまま店の外の桜の木の前へと向かった。店内には店の支度をする春菜とソワソワと立ち尽くす秋彦の姿。
「秋彦さん、でしたっけ?」
「は、はい!」
春菜に急に声を掛けられ、秋彦は飛び上がらんばかりだった。
「店の支度、手伝って貰えますか? そこでただ待ってるだけだと暇でしょ?」
「え、まぁ……、確かに」
春菜はふと笑ってカウンター奥から雑巾を取り出すと秋彦に渡した。
「じゃ、お願いします。何なら、今日一日働いていってもいいんですよ」
「例の件のこともあって、休日出勤で忙しいんだよ。流石にそれは……」
「ふふ、冗談ですよ。そういえば、さっき何かいい掛けてませんでした?」
「え、あぁ、それならーー」
秋彦は窓の外を見た。それにつられて春菜も。
外、夏原が桜の木の前でスマホを胸元に抱きながら立ち尽くす。そこに地面を叩く靴音が聴こえた。その靴音は夏原の目の前で止まった。
冬樹だった。急いで走ってきたこともあって息は上がり、膝に手をついて息を整え、スマホを操作してメールの画面を呼び出すと、それを夏原にーー
夏原は一瞬呆然としていたが、すぐさま桜の花のように満開の笑顔を咲かせた。荒い呼吸をしながら、冬樹は恥ずかしそうに笑った。
舞い散る桜の花びらが、ふたりを包み込んだ。
夏原がそういうと、冬樹は彼女のことばを遮るようにしてーー
「いや、その話はいいんだ! その、今日は話があってーー」
そういって冬樹は立ち退きがなしになったことを告げた。夏原は特に喜ぶ様も見せずに、話を聴いていた。
「……そうですか。でも、それだけを伝えにわざわざ来て下さったんですか?」
「それもそう、だけど……」冬樹は一瞬口をつぐみ、ことばを継いだ。「本当は、謝りに来たんだ……」
「謝りに?」
夏原が不思議そうに首を傾げると、冬樹はこくりと頷いて見せた。
「うん、先日のことを謝りたくて。その、何ていうか……、この前はヒドイことをいって本当にゴメン。偉そうに、知ったような口を利いて、おれは何もわかっていなかった。キミがどんな気持ちであそこにいたのかも……」
神妙な空気が場を包み込んだ。夏原は始めこそ複雑に顔を歪めていたが、冬樹のことばが途切れるとうっすらと笑顔を浮かべてーー
「いいんですよ。実際に相手の人は来なかったんですから……」
「……本当にゴメン」
消え入るような冬樹の声。対処的に夏原は笑顔を作って明るくいうーー
「いいんですって。それに、私、母の病気の関係で東京に行かなきゃならないんです。だから、この店ともしばらくおさらばかなぁ……」
「そっか……、お母様、何もなければいいけど」
「ふふ、どうしたんですか、急に。でも、ありがとうございます。じゃあ、私も色々とやらなきゃならないことがあるので、今日はここら辺で」
「……あ、そ、そうだよね。長居して申し訳ない。……じゃ、さようなら」
「うん……、さようなら」
夏原の笑みに対して、冬樹の顔には寂しげな微笑が張り付いていた。その表情には、何か複雑な思いが秘められているようだった。
「……さようなら」弱々しく、冬樹はいった。
「さようなら」
冬樹はそのまま数秒ほど静止していたが、やがておもむろに振り返り、『デュオニソス』を出ていこうとしたーーが、冬樹は再び足を止めた。その視線の先には、マンガのポスター。
「……この絵、ステキだね」
「え?ーーあぁ、その絵、私の好きなマンガのものなんです。でも、意外だな。アナタがその絵を見てそんな風におっしゃるなんて」
「意外?」
夏原は大きく頷いた。
「うん。何というか、アナタはすごい意地悪な人だと思ってたから」
冬樹は申し訳なさそうにうなだれた。夏原は慌ててフォローするように、
「そんな気にしないで下さいよ。……実は、あの日待ち合わせしてたのも、このマンガが好きだって人とだったんです」
「そうだったんだ」
「えぇ。でも、インターネットのファンサイトで知り合った人だから名前も顔もわからない。わかっているのは、この街に住んでて、この街で働いているってことだけ」
「そうなんだ。でも、よくそんな顔も名前もわからない人に会おうと思えたね。怖くなかったの?」
「全然。だって、このマンガが好きな人に、悪い人はいないから……」
夏原のことばに、冬樹はふと何かを呟いた。
「え、何ですか?」
夏原がそう訊ねるも、冬樹はさっきまでの沈んだ雰囲気から一変、毅然とした態度で、
「いや、何でもないんだ。失礼します」
そういって店を飛び出してしまった。
それから数日後、『デュオニソス』では、夏原と春菜が休業前最後の開店準備をしていた。
「夏原さん……ッ! 絶対、絶対帰って来て下さいね……ッ!」
「そんな、大げさだよ。別にいなくなるワケじゃないんだからさ。また、落ち着いたら戻って来るから、さ」
「約束、ですよぉ……ッ!」
「わかってるって」
その時、勢いよく玄関の扉が開く音がした。店内へ続くドアが開くと、そこにいたのは秋彦だった。何やら慌てた様子。
「すみません! うちの冬樹は来ていらっしゃいませんか!? 今朝から連絡が取れなくて」
「冬樹さん?」夏原と春菜は顔を見合わせた。夏原は首を横に振り、「いえ、来てませんが」
「あー、もう何やってんのかなぁ、まったく何処にいるんだろ……。こんな時間だっていうのにーー」秋彦は頭をボリボリ掻いた。
「どうか、されましたか?」
挙動不審な秋彦の様子を伺うように夏原は訊ねた。秋彦はそれを慌てて否定し、
「いえいえ! こっちの話です!」
秋彦はニコニコ笑顔でその場を取り繕おうとしているようだった。夏原は首を傾げた。
「……でも、例のメールの人と会えなくて残念でしたね」春菜がいった。
「そのことだけど」夏原は口を結んだ。「実は……、今日会うことになってるんだ。ここで。難しいとはいったんだけど、最後にどうしても、ほんの少しでもいいからっていうから、店の前まで来て貰うことになったんだ」
「そうなんですか?」
「うん。でも、いつ来るんだろーー」
「あのぉ」秋彦がいった。「スミマセン、聴こえてしまったんですが、夏原さん、今日これからメールのお相手とお会いするんですよね?」
「え?……えぇ」
「そうですか。はぁ、よかった……」
秋彦は大げさに胸を撫で下ろした。
「あのぉ、何か……?」
「い、いぇ! 何でもないんです! それであの、もしよろしかったら、先輩から連絡あるまで、ここで待たせて頂けないでしょうか?」
「え、まぁ、いいですけど」
「よかったぁ。ありがとうございます!」
「いえ、大丈夫ですよ。じゃあ、春菜ちゃん。私は外にいるから、店の支度をよろしくね」
「わかりましたぁ」
夏原は春菜に微笑み、そのまま店の外の桜の木の前へと向かった。店内には店の支度をする春菜とソワソワと立ち尽くす秋彦の姿。
「秋彦さん、でしたっけ?」
「は、はい!」
春菜に急に声を掛けられ、秋彦は飛び上がらんばかりだった。
「店の支度、手伝って貰えますか? そこでただ待ってるだけだと暇でしょ?」
「え、まぁ……、確かに」
春菜はふと笑ってカウンター奥から雑巾を取り出すと秋彦に渡した。
「じゃ、お願いします。何なら、今日一日働いていってもいいんですよ」
「例の件のこともあって、休日出勤で忙しいんだよ。流石にそれは……」
「ふふ、冗談ですよ。そういえば、さっき何かいい掛けてませんでした?」
「え、あぁ、それならーー」
秋彦は窓の外を見た。それにつられて春菜も。
外、夏原が桜の木の前でスマホを胸元に抱きながら立ち尽くす。そこに地面を叩く靴音が聴こえた。その靴音は夏原の目の前で止まった。
冬樹だった。急いで走ってきたこともあって息は上がり、膝に手をついて息を整え、スマホを操作してメールの画面を呼び出すと、それを夏原にーー
夏原は一瞬呆然としていたが、すぐさま桜の花のように満開の笑顔を咲かせた。荒い呼吸をしながら、冬樹は恥ずかしそうに笑った。
舞い散る桜の花びらが、ふたりを包み込んだ。