【藪医者放浪記~四~】
文字数 2,148文字
仙波屋の竹ノ間で怒号が響いている。
女給たちは怒号のする竹ノ間を横目で見て、ヒソヒソと話をしている。
竹ノ間に泊まってるの誰。何でも江戸から来た夫婦だそうだよ。旅の中、何をあんなに揉めているの。さぁ、何か腹に据えることがあったのだろう。そんなウワサ話が繰り広げられる。
さて、そんな竹ノ間だが、これはこれは、修羅場だった。女給たちの会話の通り竹ノ間には江戸から来た夫婦が泊まっているのだが、室内ではふたりとも立ったままにらみ合っている。
「さぁ、説明おしよ!」女がいう。
「うるせぇ! 亭主に向かって何だその口の利き方は!?」と男。
さっきからこの調子である。このままでは埒が明かないので何があったかを説明すると、ことの始まりは男の仕事の話についてだった。
この男、名前を『茂作』といい、そのふたつ名を『火消さずの茂作』という。
火消さずでわかるかもしれないが、茂作は『町火消』のひとつ『は組』の一員だった。だった、というのは今の茂作はもう町火消ではないことを意味しており、家内の『お涼』とのケンカもそれが原因だった。
さて、そんな茂作だが、今現在の職はどうなっているのか、というと完全なプーである。
何故そうなってしまったのか。早い話が、茂作が町火消から暇を与えられてしまったからだ。
茂作は、そのふたつ名の通りの男だった。つまり、火消さず。火消なのに火を消さないという、完全な役立たずだったのである。
しかも、それだけでなく火消しをすべき時に仕事をせず、何処かが燃えている時には丁半博打をしていたり、屋台で酒を飲んでいたりとそんな体たらくであり、何度組の頭が注意してもまともに仕事をしようとしないので、とうとう組を追い出されてしまったというワケだった。
だが、仕事を失っても茂作は仕事を探すどころか、お涼にそのことを隠したまま昼間から博打を打ち続けていた。そこで、茂作は結構な大勝ちをし、その金を元手に、お涼と川越まで慰労の旅をすることにしたのだ。
とはいえ、町火消の仕事はいつ何処で必要になるかわからない。火は時と場所を選ばずして燃えるモノだからこそ、お涼は仕事のほうは大丈夫なのかと訊ねたのだが、茂作は、
「お前はいつもよく頑張っているから、たまには女房と旅でもして身体を休めてくるといいと頭からいわれた」
とまったくのデタラメを口にしたのだ。お涼も茂作が火消として出来の悪い男だということは風のウワサで何となく知っていた。だが、まさか旦那が実は既に職を失っているとも、茂作がそんなウソをつくところまで落ちぶれているとも、お涼も思わず、それどころか茂作のこころ使いにこころを動かされたほどだった。
だが、それは大きな間違いだった。
そもそも、何故、茂作はお涼を連れて川越まで慰労の旅に繰り出したか。
その目的は単純に慰労の意味合いもあったが、その和んだ雰囲気の中で火消の仕事を失ったことをいえば、何とかなるだろうと茂作は考えていたとのことだった。
だが、茂作の目論見は簡単に崩れた。というか、そんな大事なことを今の今まで隠し通し、かつ生活に必要な銭で打った博打で得たあぶく銭で、名ばかりの慰労の旅に来たとなれば、殆どの人間は呆れるか怒り狂うだろうが、茂作にはそんな考えはまったくなかったようだった。
そんなこともあって茂作が、自分が結構前から火消の職を失い、かつ博打でたまたま得た金で旅にまで来てしまったことをお涼に打ち明けると、お涼は茂作の予想とは反対に烈火の如く怒りを顕にしたのだった。
とまぁ、これがことの成り行きというヤツで、あとはずっと同じ問答のいったり来たり、という風になっていたというワケだ。
ちなみに、この当時の火消という仕事は、ヤクザとまではいかないが、殆ど荒くれ者のような男たちの集まりで、身体には普通に刺青が入っていたこともあって、ヤクザ者と間違われて、まともな仕事につけないこともあった。
というか、頭よりも体を使うことに長けていると自負していた茂作は、力仕事以外はやるつもりもなかったのだが。もちろん、力仕事もダメだったから火消から追い出されたワケだが。
さて、それはさておき、茂作とお涼のケンカは何度となく堂々巡りを繰り返していた。このままでは埒が明かない。誰もがそう思うであろう時になって茂作は、とうとう怒りを爆発させてしまい、お涼に張り手を見舞ってしまった。
殴られたお涼は体勢を崩し、まるで倒れた花のようにその場に崩れ落ちる。
「何すんだい!」とお涼。
「うるせぇ! 亭主に口答えするからだ!」
お涼は視線を畳に落とし、フルフルと震える。
「……もうガマン出来ない。アンタみたいなろくでなし、死んじまえばいいんだ!」
そういってお涼は竹ノ間から飛び出して行ってしまった。茂作はそのままふて腐れ、お涼が出ていった開けっ放しの戸に背を向けて胡座を掻いて座り込んでしまった。
静寂が漂う。火が燃え盛った後は無駄に寒く感じるように、苛烈な怒りの後は冷ややかな静寂がやって来るモノだった。
だが、それも長くは続かなかった。
「どーも、すんません」
背後から聴こえる野太い声に、茂作は威圧的に「あぁ?」といい放って振り返る。とーー
犬吉の姿がそこにあった。
【続く】
女給たちは怒号のする竹ノ間を横目で見て、ヒソヒソと話をしている。
竹ノ間に泊まってるの誰。何でも江戸から来た夫婦だそうだよ。旅の中、何をあんなに揉めているの。さぁ、何か腹に据えることがあったのだろう。そんなウワサ話が繰り広げられる。
さて、そんな竹ノ間だが、これはこれは、修羅場だった。女給たちの会話の通り竹ノ間には江戸から来た夫婦が泊まっているのだが、室内ではふたりとも立ったままにらみ合っている。
「さぁ、説明おしよ!」女がいう。
「うるせぇ! 亭主に向かって何だその口の利き方は!?」と男。
さっきからこの調子である。このままでは埒が明かないので何があったかを説明すると、ことの始まりは男の仕事の話についてだった。
この男、名前を『茂作』といい、そのふたつ名を『火消さずの茂作』という。
火消さずでわかるかもしれないが、茂作は『町火消』のひとつ『は組』の一員だった。だった、というのは今の茂作はもう町火消ではないことを意味しており、家内の『お涼』とのケンカもそれが原因だった。
さて、そんな茂作だが、今現在の職はどうなっているのか、というと完全なプーである。
何故そうなってしまったのか。早い話が、茂作が町火消から暇を与えられてしまったからだ。
茂作は、そのふたつ名の通りの男だった。つまり、火消さず。火消なのに火を消さないという、完全な役立たずだったのである。
しかも、それだけでなく火消しをすべき時に仕事をせず、何処かが燃えている時には丁半博打をしていたり、屋台で酒を飲んでいたりとそんな体たらくであり、何度組の頭が注意してもまともに仕事をしようとしないので、とうとう組を追い出されてしまったというワケだった。
だが、仕事を失っても茂作は仕事を探すどころか、お涼にそのことを隠したまま昼間から博打を打ち続けていた。そこで、茂作は結構な大勝ちをし、その金を元手に、お涼と川越まで慰労の旅をすることにしたのだ。
とはいえ、町火消の仕事はいつ何処で必要になるかわからない。火は時と場所を選ばずして燃えるモノだからこそ、お涼は仕事のほうは大丈夫なのかと訊ねたのだが、茂作は、
「お前はいつもよく頑張っているから、たまには女房と旅でもして身体を休めてくるといいと頭からいわれた」
とまったくのデタラメを口にしたのだ。お涼も茂作が火消として出来の悪い男だということは風のウワサで何となく知っていた。だが、まさか旦那が実は既に職を失っているとも、茂作がそんなウソをつくところまで落ちぶれているとも、お涼も思わず、それどころか茂作のこころ使いにこころを動かされたほどだった。
だが、それは大きな間違いだった。
そもそも、何故、茂作はお涼を連れて川越まで慰労の旅に繰り出したか。
その目的は単純に慰労の意味合いもあったが、その和んだ雰囲気の中で火消の仕事を失ったことをいえば、何とかなるだろうと茂作は考えていたとのことだった。
だが、茂作の目論見は簡単に崩れた。というか、そんな大事なことを今の今まで隠し通し、かつ生活に必要な銭で打った博打で得たあぶく銭で、名ばかりの慰労の旅に来たとなれば、殆どの人間は呆れるか怒り狂うだろうが、茂作にはそんな考えはまったくなかったようだった。
そんなこともあって茂作が、自分が結構前から火消の職を失い、かつ博打でたまたま得た金で旅にまで来てしまったことをお涼に打ち明けると、お涼は茂作の予想とは反対に烈火の如く怒りを顕にしたのだった。
とまぁ、これがことの成り行きというヤツで、あとはずっと同じ問答のいったり来たり、という風になっていたというワケだ。
ちなみに、この当時の火消という仕事は、ヤクザとまではいかないが、殆ど荒くれ者のような男たちの集まりで、身体には普通に刺青が入っていたこともあって、ヤクザ者と間違われて、まともな仕事につけないこともあった。
というか、頭よりも体を使うことに長けていると自負していた茂作は、力仕事以外はやるつもりもなかったのだが。もちろん、力仕事もダメだったから火消から追い出されたワケだが。
さて、それはさておき、茂作とお涼のケンカは何度となく堂々巡りを繰り返していた。このままでは埒が明かない。誰もがそう思うであろう時になって茂作は、とうとう怒りを爆発させてしまい、お涼に張り手を見舞ってしまった。
殴られたお涼は体勢を崩し、まるで倒れた花のようにその場に崩れ落ちる。
「何すんだい!」とお涼。
「うるせぇ! 亭主に口答えするからだ!」
お涼は視線を畳に落とし、フルフルと震える。
「……もうガマン出来ない。アンタみたいなろくでなし、死んじまえばいいんだ!」
そういってお涼は竹ノ間から飛び出して行ってしまった。茂作はそのままふて腐れ、お涼が出ていった開けっ放しの戸に背を向けて胡座を掻いて座り込んでしまった。
静寂が漂う。火が燃え盛った後は無駄に寒く感じるように、苛烈な怒りの後は冷ややかな静寂がやって来るモノだった。
だが、それも長くは続かなかった。
「どーも、すんません」
背後から聴こえる野太い声に、茂作は威圧的に「あぁ?」といい放って振り返る。とーー
犬吉の姿がそこにあった。
【続く】