【いろは歌地獄旅~ユースネイジア~】
文字数 2,343文字
死ぬのが怖いという人がいる。
これは当たり前といえば当たり前のことだ。というのも死は未知のモノであり、その先に何が待っているか、痛いのか、はたまた苦しいのか、そういったことがまったくわからないのだから、怖くても不思議ではない。
武士道というのは死ぬことと見つけたり、ということばがある。これは、侍は主君のためならば死をも覚悟しなければならないということを意味している。
だが、侍のすべてが死を怖れなかったかといえば、それはウソになるだろう。
侍も人間、未知のモノに恐怖を抱かないワケがない。だが、もし、その恐怖すら感じなくなってしまったならば、侍としては最高であろうか。いや、それとも……。
竹原重兵衛は若き侍である。両親の教育の賜物とあってか幼きより学業に武術と優れた才を見せつけて来た。だが、それも今では見る影もなくなってしまっている。
というのも、重兵衛はもはや人としての機能を失い掛けていた。
一年ほど前だろうか、重兵衛は奉公先である森本武乃進の武家屋敷にて、帳簿の作成を行っていた。だが、その時、重兵衛は簡単な計算にも頭を悩ました。それは頭にモヤが掛かったようだったという。
そして後日、まるで重兵衛の頭のモヤが現実であることを証明するように、重兵衛が作成した帳簿に不備が見つかった。
簡単な計算違い。そういってしまえばそれまでだった。重兵衛は可笑しい、と思いつつも自分が疲れていると考えた。邸の主人である森本も、普段の重兵衛が非常に優秀であることから、重兵衛がかような簡単な失敗をするなど珍しいと思いつつ、重兵衛に次から気を付けるように、と簡単な注意を与えるに終えた。
が、問題はここからだった。
どういうワケか、これより重兵衛の簡単な失敗が積み重なるようになった。
計算違いは当たり前、流麗に読めたはずの文章を読めなくなる、モノの距離感を掴めなくなる、変に感情的になる等、明らかに以前の重兵衛とは異なる様子が見られるようになった。
これには他の奉公人も不思議がり、森本も動揺せざるを得なかった。そして、それは日を経るごとにドンドン悪化していった。
ある日、森本はお忍びで竹原家を訪問した。重兵衛の両親は大変に恐縮し森本を迎えたが、森本はお構い無くといわんばかりに施しを最小限に、重兵衛の両親に訊ねた。
家での重兵衛の様子はどうか。
これには両親も黙ってしまった。というのも、重兵衛は森本家であったのと同様に簡単な失敗を何度も繰り返すようになっていた。
森本と重兵衛の両親で原因を考えてみたモノの、その原因なるモノは何ひとつとして思い浮かばなかった。結局、その日は経過を観察するということで手を打ったのだが、重兵衛の様子は日に日に悪くなっていった。
半年ほどしたある日のこと、武家屋敷に重兵衛が来なかったことがあった。
森本はこれまで特別な事情もなしに休むことなく奉公に来ていた重兵衛が突然に休んだことをひどく心配した。そこで、使いの者に重兵衛の家まで様子を見に行くようにいった。
それから一刻半ほどして使いの者が戻ったが、重兵衛は朝、奉公をしに家を出たということだった。これには森本も困ってしまった。
結局、その日、重兵衛が屋敷に現れることはなかった。そして、翌日、重兵衛は屋敷に現れたーー母と共に。
森本はふたりを屋敷へと招き入れ、早速事情を訊ねた。だが、その答えは森本には想像し得ないモノだった。
屋敷までの道のりがわからない。
それが重兵衛の母の答えだった。森本は口をポッカリ開けて絶句した。あり得ない。だが、今目の前にいる重兵衛はまったく落ち着きのない幼児のようになっていた。
森本が話し掛けると、重兵衛は明らかに頭が回っていないような反応と喋りの遅さを以て森本に返答した。しかも、それは支離滅裂でもはや理を以て話が出来ないといった感じだった。
これには森本も困惑したが、これまでの重兵衛の働きを考えたら、暇を与えるに与えられなくなってしまった。そこで森本は重兵衛に本当に簡単な仕事だけをさせるためだけに毎日母親付き添いのもと、奉公しに来るようにいった。
だが、それもすぐにダメになった。
最初の異変から八ヶ月ほどすると、重兵衛は何度も顔を合わしている奉公人の顔と名前がわからなくなっていた。そして、それは森本と重兵衛の両親のことも例外ではなくなっていた。
重兵衛の両親は泣きながら森本に相談した。が、森本も何といっていいかわからなかった。
また後日、重兵衛の両親が重兵衛を連れて森本を訊ねた。両親の顔は神妙なモノとなっていたが、重兵衛本人は蚊でも飛んでいるかのように集中力に欠けていた。が、森本は重兵衛の行いに対して何もいわなかった。
森本が重兵衛の両親に用件を訊ねると、重兵衛の両親は懐から手紙を取り出して森本のほうへと滑らせた。
「これは?」
と森本が訊ねると重兵衛の父は、
「うちで見つけました。重兵衛の文です。どうやら何ヵ月も前に重兵衛が森本様宛に書いたモノだそうでして」
その目には涙が浮かんでいる。森本はゆっくりと文を受けとり、中を改めた。そしてーー
刀の一閃。重兵衛の首が静かに前に落ちた。
首を斬ったのは、森本自身だった。森本は目に涙を浮かべていた。そして、死んだ重兵衛の仏の前で泣き崩れた。
「森本殿、わたしは今失われております。いずれはあなた様のことも忘れてしまい、わたしは人間としての機能を生きながら失うこととなりましょう。ですが、わたしは両親やあなた様、同じ奉公仲間のことを忘れてまで生き長らえたくはありません。それは自分としても、皆々様にとっても悲しいことでありましょうから。ですから、そうなった時はわたしの首をーー」
文は涙で滲んでいた。
これは当たり前といえば当たり前のことだ。というのも死は未知のモノであり、その先に何が待っているか、痛いのか、はたまた苦しいのか、そういったことがまったくわからないのだから、怖くても不思議ではない。
武士道というのは死ぬことと見つけたり、ということばがある。これは、侍は主君のためならば死をも覚悟しなければならないということを意味している。
だが、侍のすべてが死を怖れなかったかといえば、それはウソになるだろう。
侍も人間、未知のモノに恐怖を抱かないワケがない。だが、もし、その恐怖すら感じなくなってしまったならば、侍としては最高であろうか。いや、それとも……。
竹原重兵衛は若き侍である。両親の教育の賜物とあってか幼きより学業に武術と優れた才を見せつけて来た。だが、それも今では見る影もなくなってしまっている。
というのも、重兵衛はもはや人としての機能を失い掛けていた。
一年ほど前だろうか、重兵衛は奉公先である森本武乃進の武家屋敷にて、帳簿の作成を行っていた。だが、その時、重兵衛は簡単な計算にも頭を悩ました。それは頭にモヤが掛かったようだったという。
そして後日、まるで重兵衛の頭のモヤが現実であることを証明するように、重兵衛が作成した帳簿に不備が見つかった。
簡単な計算違い。そういってしまえばそれまでだった。重兵衛は可笑しい、と思いつつも自分が疲れていると考えた。邸の主人である森本も、普段の重兵衛が非常に優秀であることから、重兵衛がかような簡単な失敗をするなど珍しいと思いつつ、重兵衛に次から気を付けるように、と簡単な注意を与えるに終えた。
が、問題はここからだった。
どういうワケか、これより重兵衛の簡単な失敗が積み重なるようになった。
計算違いは当たり前、流麗に読めたはずの文章を読めなくなる、モノの距離感を掴めなくなる、変に感情的になる等、明らかに以前の重兵衛とは異なる様子が見られるようになった。
これには他の奉公人も不思議がり、森本も動揺せざるを得なかった。そして、それは日を経るごとにドンドン悪化していった。
ある日、森本はお忍びで竹原家を訪問した。重兵衛の両親は大変に恐縮し森本を迎えたが、森本はお構い無くといわんばかりに施しを最小限に、重兵衛の両親に訊ねた。
家での重兵衛の様子はどうか。
これには両親も黙ってしまった。というのも、重兵衛は森本家であったのと同様に簡単な失敗を何度も繰り返すようになっていた。
森本と重兵衛の両親で原因を考えてみたモノの、その原因なるモノは何ひとつとして思い浮かばなかった。結局、その日は経過を観察するということで手を打ったのだが、重兵衛の様子は日に日に悪くなっていった。
半年ほどしたある日のこと、武家屋敷に重兵衛が来なかったことがあった。
森本はこれまで特別な事情もなしに休むことなく奉公に来ていた重兵衛が突然に休んだことをひどく心配した。そこで、使いの者に重兵衛の家まで様子を見に行くようにいった。
それから一刻半ほどして使いの者が戻ったが、重兵衛は朝、奉公をしに家を出たということだった。これには森本も困ってしまった。
結局、その日、重兵衛が屋敷に現れることはなかった。そして、翌日、重兵衛は屋敷に現れたーー母と共に。
森本はふたりを屋敷へと招き入れ、早速事情を訊ねた。だが、その答えは森本には想像し得ないモノだった。
屋敷までの道のりがわからない。
それが重兵衛の母の答えだった。森本は口をポッカリ開けて絶句した。あり得ない。だが、今目の前にいる重兵衛はまったく落ち着きのない幼児のようになっていた。
森本が話し掛けると、重兵衛は明らかに頭が回っていないような反応と喋りの遅さを以て森本に返答した。しかも、それは支離滅裂でもはや理を以て話が出来ないといった感じだった。
これには森本も困惑したが、これまでの重兵衛の働きを考えたら、暇を与えるに与えられなくなってしまった。そこで森本は重兵衛に本当に簡単な仕事だけをさせるためだけに毎日母親付き添いのもと、奉公しに来るようにいった。
だが、それもすぐにダメになった。
最初の異変から八ヶ月ほどすると、重兵衛は何度も顔を合わしている奉公人の顔と名前がわからなくなっていた。そして、それは森本と重兵衛の両親のことも例外ではなくなっていた。
重兵衛の両親は泣きながら森本に相談した。が、森本も何といっていいかわからなかった。
また後日、重兵衛の両親が重兵衛を連れて森本を訊ねた。両親の顔は神妙なモノとなっていたが、重兵衛本人は蚊でも飛んでいるかのように集中力に欠けていた。が、森本は重兵衛の行いに対して何もいわなかった。
森本が重兵衛の両親に用件を訊ねると、重兵衛の両親は懐から手紙を取り出して森本のほうへと滑らせた。
「これは?」
と森本が訊ねると重兵衛の父は、
「うちで見つけました。重兵衛の文です。どうやら何ヵ月も前に重兵衛が森本様宛に書いたモノだそうでして」
その目には涙が浮かんでいる。森本はゆっくりと文を受けとり、中を改めた。そしてーー
刀の一閃。重兵衛の首が静かに前に落ちた。
首を斬ったのは、森本自身だった。森本は目に涙を浮かべていた。そして、死んだ重兵衛の仏の前で泣き崩れた。
「森本殿、わたしは今失われております。いずれはあなた様のことも忘れてしまい、わたしは人間としての機能を生きながら失うこととなりましょう。ですが、わたしは両親やあなた様、同じ奉公仲間のことを忘れてまで生き長らえたくはありません。それは自分としても、皆々様にとっても悲しいことでありましょうから。ですから、そうなった時はわたしの首をーー」
文は涙で滲んでいた。