【明日、白夜になる前に~玖~】
文字数 2,891文字
「どうしたんですか? ソワソワして」
里村さんのひとことでぼくはハッとする。ぼくはソワソワしていたのだろうか。
間違いなくわかるのは、自分が極度に緊張しているということ。瞼はしっかりと見開かれ、身体は微かに強張り、そのせいか全身が僅かながら震えている。妙に神経が研ぎ澄まされたような気がするのも多分そのせいだろう。
「大丈夫ですかぁ? 今度は倒れないで下さいよ?」
冗談半分といった調子で里村さんは笑いながらいう。ぼくは曖昧に相槌を打つ。
ぼくと里村さんは公園で落ち合った後、予約してあった江田市でも有名なすき焼き店に入った。幸いなことに世間も所謂「緊迫した状態」を抜け出ていたこともあって、美味い肉と酒にありつくことができたのだ。
酒は進んだ。多分緊張感もあって、アルコールを入れないとやっていられなかったのかもしれない。まぁ、それがダメなんだけど。
ただ、そのせいか、気づけば空の中ジョッキが三本。現在三十分だから、十分に一杯を飲んでいる計算になるが、流石にハイペースで飲み過ぎだ。そのせいか頭も働かず、全身がポッと熱を帯びているようだった。
ぼくは向かいに座る里村さんを見る。テーブルに肩肘をつき、クシャっとした笑みを浮かべて目を半分ほど開けたその無防備な感じが、水滴が零れ落ちるようにぼくの琴線を刺激する。
ピチッとしたシャツにより強調された大きな胸、短い袖口から今にも垣間見えそうな脇、首を濡らし、皮膚を流れ落ちる汗、絹のようにサラサラしていそうで触り心地の良さそうな肌、揺らめく度に鼻腔をくすぐる甘い香りを発する長めの茶色い髪。そのすべてがぼくを刺激し、ぼくは彼女にバレないように生唾を飲み込む。
不意に彼女が天真爛漫な笑みを浮かべる。
「どうしちゃったんですか? めっちゃ緊張してるじゃないですか?」
彼女の問いに対し、ぼくはたどたどしく、
「あ、いや、別にその、緊張とかは、して、ないです、よ」
とかまったく説得力のないひとことを発する。まったくもって情けない。
ぼくの情けない返答を聴いて、里村さんは大胆に笑って見せる。
「斎藤さんって、ウソが下手ですね。でも、そういう人、嫌いじゃないですよ」
そういって里村さんがぼくを見つめる目は、まるで小さい子供を見つめるお姉さんのよう。何とも恥ずかしい限りだ。
「あぁ、いや、その……、それより、自己紹介がまだでしたね……!」
もう入店して三十分が経つというのに、ここまで話した内容といえば、ここ最近の世の中の動きという堅苦しくも当たり障りのないもの。にしても、よくここまでろくに自分のことも話さないでいられたモノだ。
先にぼくが話す。現在三十四歳で、生まれは埼玉の片田舎。大学は都内のまぁまぁなレベルの私立大で、大学卒業後は、現在の会社に就職し、システムエンジニアとして生計を立てている。独り暮らしを始めたのは大学を出てから。
ぼくの住む東京都下の街である五村市は、さほど栄えてもなく、田舎というほど寂れてもいない。治安が兎に角悪いが、場所を選ばなければ、家賃も大して高くはないので、ちょっと気をつければそこまで住みづらくはない。
好きなモノは……特になしーーというワケにもいかなかったので、高校生の時流行っていたこともあって何となくハマッていた格闘技のことを話してみたーーが、
「え、そうなんですか? あたしも実は好きなんですよね! 観るのはプロレスが殆どなんですけど、ボクシングとか格闘技もテレビでやってたら観ちゃうっていうか。最近はエクササイズもかねてブラジリアン柔術も始めてみたんですけど、これが凄く楽しくて!」
まさか、こんな形でヒットするとは思わず、ぼくは笑みを浮かべつつも、内心はどうしようかと考えを巡らさずを得なくなってしまった。
というのも、ぼくにとっての格闘技の知識など、所詮は高校時代のにわかな知識に基づくモノでしかなく、最近の格闘技事情などこれっぽっちも知らなかったのだ。況してやプロレスなんて、まったくといっていいほど知らない。それこそ小、中学校でやったインチキだらけのプロレスごっこが良いところだ。
それに、まさかブラジル柔道?をやっているなんて意外も意外だ。確かに身体は引き締まっているけれど、身体の線の細さから見て、そういったモノをやっているようには思えない。
ぼくはちなみに中学高校と卓球部で、武道にも格闘技にも無縁な少年時代だった。ついでにいうと、ぼくにとっての「ラブ」は「愛」ではなく、単なる「0点」でしかなかったワケだ。まさに今のぼくのようなーーやかましいわ。
「斎藤さんは何が好きなんですか? プロレス? MMA? ボクシング?」
何だ、MMAって。WHOみたいなもんだろうか。まぁ、保険機構と格闘技のそういうモノじゃ真逆っちゃ真逆ーーって、そんなことはどうでもいい。ぼくは兎も角、何か話を返さなければと内心で躍起になり、自分の知っているワードを適当にチョイスして、
「コ、コマンドサンボ……」
と返したのだが、コマンドサンボが何なのかは具体的には知らない。ただ、そういうモノがあるということだけは知っている。が、里村さんは顔を歪めるどころか、
「コマンドサンボですか! 確かハリトーノフやヴォルグ・ハンのベースがそうですよね!」
またもや地雷を踏んでしまったらしい。誰だハリトーノフとヴォルグ・ハンって。
ぼくはそんな感じで何となく知ったような振りをしつつ、曖昧に笑みを浮かべる。すると、里村さんはどこか不安げに顔を歪め、
「もしかして、つまらなかったですか……?」
という。ぼくとしては、そんなことはなく、
「いや、そんなことは……!」
と必死に否定しーー
と思いきや、突然、スマホが振動する。長い。どうやら電話のようだ。ぼくはディスプレイを見て誰からの電話かを確認する。
そして、それを無視する。
「いいんですか?」
「え?」
「電話」
「あぁ、いいんですよ別に。大した用じゃないでしょうし」
「ならいいですけど……」
が、電話はまたすぐ掛かって来る。二度無視すれば三度、三度の次は四度ーー
「大丈夫、なんですか?」
彼女が心配そうに訊ねる。ぼくはこの鬱陶しい電話に嫌気が差していた。まったく、いつも人の邪魔しかしないのだから困ったもんだ。
またもや掛かって来る。ぼくは、
「ちょっとすいません」
と彼女に断りを入れてスマホを手に取る。そして彼女に気付かれない程度に乱暴に通話ボタンをスライドさせ、スマホを耳に当てるとーー
「何か用?」
ぼくは里村さんとの時間を邪魔された不快感を極力殺して電話の向こう側の相手にいう。が、相手のことばは、ぼくにとって思いも掛けないモノで、
「えっ……ッ?」
ぼくは口をポッカリと開け、ただされるがままに話を聴くしかなくなってしまった。人間、呆然とすると、ただうちひしがれることしか出来ないようだ。頭の中が真っ白になる。
そんなぼくを見つめる里村さんの視線が、明らかに変化したのが、ぼくにわかった唯一のことだったーー
【続く】
里村さんのひとことでぼくはハッとする。ぼくはソワソワしていたのだろうか。
間違いなくわかるのは、自分が極度に緊張しているということ。瞼はしっかりと見開かれ、身体は微かに強張り、そのせいか全身が僅かながら震えている。妙に神経が研ぎ澄まされたような気がするのも多分そのせいだろう。
「大丈夫ですかぁ? 今度は倒れないで下さいよ?」
冗談半分といった調子で里村さんは笑いながらいう。ぼくは曖昧に相槌を打つ。
ぼくと里村さんは公園で落ち合った後、予約してあった江田市でも有名なすき焼き店に入った。幸いなことに世間も所謂「緊迫した状態」を抜け出ていたこともあって、美味い肉と酒にありつくことができたのだ。
酒は進んだ。多分緊張感もあって、アルコールを入れないとやっていられなかったのかもしれない。まぁ、それがダメなんだけど。
ただ、そのせいか、気づけば空の中ジョッキが三本。現在三十分だから、十分に一杯を飲んでいる計算になるが、流石にハイペースで飲み過ぎだ。そのせいか頭も働かず、全身がポッと熱を帯びているようだった。
ぼくは向かいに座る里村さんを見る。テーブルに肩肘をつき、クシャっとした笑みを浮かべて目を半分ほど開けたその無防備な感じが、水滴が零れ落ちるようにぼくの琴線を刺激する。
ピチッとしたシャツにより強調された大きな胸、短い袖口から今にも垣間見えそうな脇、首を濡らし、皮膚を流れ落ちる汗、絹のようにサラサラしていそうで触り心地の良さそうな肌、揺らめく度に鼻腔をくすぐる甘い香りを発する長めの茶色い髪。そのすべてがぼくを刺激し、ぼくは彼女にバレないように生唾を飲み込む。
不意に彼女が天真爛漫な笑みを浮かべる。
「どうしちゃったんですか? めっちゃ緊張してるじゃないですか?」
彼女の問いに対し、ぼくはたどたどしく、
「あ、いや、別にその、緊張とかは、して、ないです、よ」
とかまったく説得力のないひとことを発する。まったくもって情けない。
ぼくの情けない返答を聴いて、里村さんは大胆に笑って見せる。
「斎藤さんって、ウソが下手ですね。でも、そういう人、嫌いじゃないですよ」
そういって里村さんがぼくを見つめる目は、まるで小さい子供を見つめるお姉さんのよう。何とも恥ずかしい限りだ。
「あぁ、いや、その……、それより、自己紹介がまだでしたね……!」
もう入店して三十分が経つというのに、ここまで話した内容といえば、ここ最近の世の中の動きという堅苦しくも当たり障りのないもの。にしても、よくここまでろくに自分のことも話さないでいられたモノだ。
先にぼくが話す。現在三十四歳で、生まれは埼玉の片田舎。大学は都内のまぁまぁなレベルの私立大で、大学卒業後は、現在の会社に就職し、システムエンジニアとして生計を立てている。独り暮らしを始めたのは大学を出てから。
ぼくの住む東京都下の街である五村市は、さほど栄えてもなく、田舎というほど寂れてもいない。治安が兎に角悪いが、場所を選ばなければ、家賃も大して高くはないので、ちょっと気をつければそこまで住みづらくはない。
好きなモノは……特になしーーというワケにもいかなかったので、高校生の時流行っていたこともあって何となくハマッていた格闘技のことを話してみたーーが、
「え、そうなんですか? あたしも実は好きなんですよね! 観るのはプロレスが殆どなんですけど、ボクシングとか格闘技もテレビでやってたら観ちゃうっていうか。最近はエクササイズもかねてブラジリアン柔術も始めてみたんですけど、これが凄く楽しくて!」
まさか、こんな形でヒットするとは思わず、ぼくは笑みを浮かべつつも、内心はどうしようかと考えを巡らさずを得なくなってしまった。
というのも、ぼくにとっての格闘技の知識など、所詮は高校時代のにわかな知識に基づくモノでしかなく、最近の格闘技事情などこれっぽっちも知らなかったのだ。況してやプロレスなんて、まったくといっていいほど知らない。それこそ小、中学校でやったインチキだらけのプロレスごっこが良いところだ。
それに、まさかブラジル柔道?をやっているなんて意外も意外だ。確かに身体は引き締まっているけれど、身体の線の細さから見て、そういったモノをやっているようには思えない。
ぼくはちなみに中学高校と卓球部で、武道にも格闘技にも無縁な少年時代だった。ついでにいうと、ぼくにとっての「ラブ」は「愛」ではなく、単なる「0点」でしかなかったワケだ。まさに今のぼくのようなーーやかましいわ。
「斎藤さんは何が好きなんですか? プロレス? MMA? ボクシング?」
何だ、MMAって。WHOみたいなもんだろうか。まぁ、保険機構と格闘技のそういうモノじゃ真逆っちゃ真逆ーーって、そんなことはどうでもいい。ぼくは兎も角、何か話を返さなければと内心で躍起になり、自分の知っているワードを適当にチョイスして、
「コ、コマンドサンボ……」
と返したのだが、コマンドサンボが何なのかは具体的には知らない。ただ、そういうモノがあるということだけは知っている。が、里村さんは顔を歪めるどころか、
「コマンドサンボですか! 確かハリトーノフやヴォルグ・ハンのベースがそうですよね!」
またもや地雷を踏んでしまったらしい。誰だハリトーノフとヴォルグ・ハンって。
ぼくはそんな感じで何となく知ったような振りをしつつ、曖昧に笑みを浮かべる。すると、里村さんはどこか不安げに顔を歪め、
「もしかして、つまらなかったですか……?」
という。ぼくとしては、そんなことはなく、
「いや、そんなことは……!」
と必死に否定しーー
と思いきや、突然、スマホが振動する。長い。どうやら電話のようだ。ぼくはディスプレイを見て誰からの電話かを確認する。
そして、それを無視する。
「いいんですか?」
「え?」
「電話」
「あぁ、いいんですよ別に。大した用じゃないでしょうし」
「ならいいですけど……」
が、電話はまたすぐ掛かって来る。二度無視すれば三度、三度の次は四度ーー
「大丈夫、なんですか?」
彼女が心配そうに訊ねる。ぼくはこの鬱陶しい電話に嫌気が差していた。まったく、いつも人の邪魔しかしないのだから困ったもんだ。
またもや掛かって来る。ぼくは、
「ちょっとすいません」
と彼女に断りを入れてスマホを手に取る。そして彼女に気付かれない程度に乱暴に通話ボタンをスライドさせ、スマホを耳に当てるとーー
「何か用?」
ぼくは里村さんとの時間を邪魔された不快感を極力殺して電話の向こう側の相手にいう。が、相手のことばは、ぼくにとって思いも掛けないモノで、
「えっ……ッ?」
ぼくは口をポッカリと開け、ただされるがままに話を聴くしかなくなってしまった。人間、呆然とすると、ただうちひしがれることしか出来ないようだ。頭の中が真っ白になる。
そんなぼくを見つめる里村さんの視線が、明らかに変化したのが、ぼくにわかった唯一のことだったーー
【続く】