【明日、白夜になる前に~参拾捌~】
文字数 2,917文字
薄暗い会議室の空気は息が苦しくなるほどに淀んでいる。
ぼくはどういうワケか会社の会議室にいる。ぼくの対面には小林さんが具体的な表情をまったく浮かべずに座っている。ポーカーフェイス。まるで、ぼくと腹の読み合いをするよう。
「あの……、これは……?」
ぼくがいうと小林さんは咳払いでぼくのことばを遮る。ぼくがことばを紡ぐのを止めると、小林さんは再び沈黙の深い海へと潜る。
ワケがわからなかった。
ぼくが何をしたというのだ。ワケもわからずに会議室のイスのひとつに座らされて、スペースを大きく開けて上司と向かい合って座らされるなんて、こんなバカげた話があってたまるだろうかーーアリエナイ。
「あの……、小林さん?」
「で、どうするの?」
質問を質問で返され、ぼくは思わず「はい?」と訊き返す。どうする、とは。さっぱり話が見えて来ない。
「あの……、どうするといわれましても、何のことかさっぱり……」不意にイヤな予感がよぎる。「まさか、ぼくのせいで会社がダメになったとかで、どう責任を取るのかと?」
「全然違うよ」小林さんの声は相変わらず冷めている。「ほんと何もわかってないんだね」
ぼくは「はぁ……」と困惑気味に相槌を打つ。そりゃそうだ。ぼくには何の自覚というか、何かやらかした覚えもないし、そもそもこんな感じで説教される理由もわからないのだ。
というか、不思議なのは小林さんがどうにも可笑しいということだ。
いつもならノラリクラリとした調子で、誰かに説教をするような人ではない。それに、たまきの件で会社を無断欠勤していた時だって、小林さんはぼくに何かあったのではと会社に掛け合って、ぼくを待ち続けてくれた。
そんな人が理由もわからずにぼくの心理的対面につくなんてーー
確かにぼくが小林さんのことを『タヌキ親父』だとか陰で散々なことをいったのも事実だ。新興宗教にハマって家庭崩壊寸前という複雑な事情をネタにしたこともある。
もしや、それがバレたのか?
気に障ったのか?
だとしたらこの話をして笑っていた同僚連中も同類、共犯者ではないか。ならば、ぼくひとりがこうやって呼び出されるのは不当。
というか、小林さんがそのことでぼくに何かあるのであれば、会社の会議室ではなく、食事に誘った時にいうだろう。
それとも、もはや食事に誘いたくないくらい、ぼくのことを嫌いになってしまったということなのだろうか。
思考が空回りする。いよいよ、ワケがわからなくなる。ぼくはどうして今ここにいるのか。
「あの、小林さん!」ぼくは意を決して口を開く。「ぼくはどうしてここにいるんでしょうか!?」
そもそもここに至るまでの経緯すら覚えていないというのだからお笑いだ。経緯というのは、ぼくが呼ばれた理由ではなくて、ぼくがこの部屋に入室するまでの流れというか、小林さんがいつ、どのような調子や態度でぼくに声を掛けたのかを覚えていない、ということだ。
まるで記憶を失ってしまったようだった。
だが、ぼくは自分自身の名前や誕生日、家族のこと、会社のことや同僚、昔の友人のこと、そういった話を全部覚えていた。ということは、ぼくは記憶喪失ではない、ということだ。
ぼくは自分の真剣な気持ちを少しでもわかって貰えるように、と可能な限り誠実な目を演出して、小林さんに真っ直ぐな視線を飛ばす。
「……本当に、何もわからないの?」
皮肉めいた口調で小林さんはいう。その調子はとても冷ややかで、ぼくのことを非難するよう。まるで誰もいない孤島にひとり置き去りにされたような気分。あまりに理不尽な展開に、ぼくもいい加減苛立ちを覚え始めていた。
確かにぼくは怒りを覚えていい立場ではないのかもしれない。だが、小林さんは勿体ぶったようにその理由をいわないし、ここまで来ると流石に我慢の限界だった。
「わかりません。そろそろ理由を教えて下さい」怒りがぼくを強気にさせる。「曖昧な態度ばかり取らないで、いい加減ぼくに何が悪かったか、教えて下さーー」
突然、電話が鳴る。
「ちょっとゴメン」
そういって小林さんは、ぼくの反応を見ることもなく、スマホを取り出して電話に出る。
「はい。……あぁ、着いた?……うん、わかった。……うん。……うん。じゃあーーえ?……あぁ、第二会議室だよ。それじゃあ、待ってるから。来たら入って来ちゃって。じゃーー」
電話を切ると、小林さんは真っ直ぐにぼくを見てため息をつく。
「これから来るって」
来るって、誰が。ぼくはそう訊ねてやろうかとも思ったが、何とか自分を抑え込む。
それから数分、ぼくは淀んだ空気の中、小林さんとふたり、気まずい沈黙に堪え忍びながら、まだ見ぬ来訪者を登場を待った。
会議室のドアを叩く音ーー
「入っていいよ」小林さんがいうと、会議室のドアが音を立てて開く。
「失礼します」
女性の声ーーそれもひとつではない。ひとつは悲しみに暮れたような感じで、ひとつは怒りに討ち震えたような感じ。ぼくは目を見開く。
ドアの奥から姿を現したのは、桃井さんと宗方さんだった。
どういうことだ。ぼくは怒りを忘れて困惑する。そして、その困惑はまた別のモノへと変化するーーある人物の登場によって。
その人物とはーー
黒沢さんだった。
何故、黒沢さんがぼくの会社に。黒沢さんの勤めている会社は、このビルの目と鼻の先。とはいえ、新入社員でもあるまいし、建物を間違えるはずがない。ハテナは留まることを知らない。そして、ぼくは動揺する。
何と、春香さんと里村さんが姿を現したのだ。
何故、どうして、ワケがわからない。何なんだ、このメンツは。これはまるでーー
宗方さん、桃井さん、黒沢さん、里村さん、そして春香さんが小林さんと同じ列のイスに次々と腰掛けて行く。
全員が席に着くと、ぼくと小林さん、彼女たちの一対六という構図が出来上がる。
「これは……」ぼくは思わずいう。
「で、どうすんの?」
冷ややかに小林さんはいう。ぼくはーー
「何が、ですか……?」
「だからーー」小林さんは声を荒げる。「キミはこの中の誰を選ぶの!?」
心臓が跳ね上がる。誰を選ぶ。それはまるで最後通告のようだった。
ぼくを好いてくれているらしい宗方さん、ぼくを宗方さんに結びつけた桃井さん、ぼくがこころを奪われた黒沢さん、そしてぼくの潜在意識が、まだ諦めていないと宣言したかのように現れた里村さんと春香さん。
誰を選ぶかーーそれは困難な質問だった。ぼくは動揺で全身が汗まみれ。何だか吐き気までしてきた。気づけば視界はうねり、赤黒く染まっている。そして、ぼくは気絶するーー
そこで目が覚めた。
全身汗だくーーそれも脂汗まみれ。
夢。今のはすべて夢だったのだ。ぼくは安堵のため息をーー
つけなかった。
誰かひとりを選ばなければならない。もう手遅れな人も混じっているとはいえ、選べなければ、みながぼくのもとを去り、ぼくは再びひとりぼっちになる。そんな未来が待っている。
ぼくは息を震わす。
いつか、決断しなければならない。しかし、どうすればいいーーどうすれば、いい?
眩しい朝陽がいくらぼくの水晶体を照らそうと、ぼくの目の前は真っ暗だった。
【続く】
ぼくはどういうワケか会社の会議室にいる。ぼくの対面には小林さんが具体的な表情をまったく浮かべずに座っている。ポーカーフェイス。まるで、ぼくと腹の読み合いをするよう。
「あの……、これは……?」
ぼくがいうと小林さんは咳払いでぼくのことばを遮る。ぼくがことばを紡ぐのを止めると、小林さんは再び沈黙の深い海へと潜る。
ワケがわからなかった。
ぼくが何をしたというのだ。ワケもわからずに会議室のイスのひとつに座らされて、スペースを大きく開けて上司と向かい合って座らされるなんて、こんなバカげた話があってたまるだろうかーーアリエナイ。
「あの……、小林さん?」
「で、どうするの?」
質問を質問で返され、ぼくは思わず「はい?」と訊き返す。どうする、とは。さっぱり話が見えて来ない。
「あの……、どうするといわれましても、何のことかさっぱり……」不意にイヤな予感がよぎる。「まさか、ぼくのせいで会社がダメになったとかで、どう責任を取るのかと?」
「全然違うよ」小林さんの声は相変わらず冷めている。「ほんと何もわかってないんだね」
ぼくは「はぁ……」と困惑気味に相槌を打つ。そりゃそうだ。ぼくには何の自覚というか、何かやらかした覚えもないし、そもそもこんな感じで説教される理由もわからないのだ。
というか、不思議なのは小林さんがどうにも可笑しいということだ。
いつもならノラリクラリとした調子で、誰かに説教をするような人ではない。それに、たまきの件で会社を無断欠勤していた時だって、小林さんはぼくに何かあったのではと会社に掛け合って、ぼくを待ち続けてくれた。
そんな人が理由もわからずにぼくの心理的対面につくなんてーー
確かにぼくが小林さんのことを『タヌキ親父』だとか陰で散々なことをいったのも事実だ。新興宗教にハマって家庭崩壊寸前という複雑な事情をネタにしたこともある。
もしや、それがバレたのか?
気に障ったのか?
だとしたらこの話をして笑っていた同僚連中も同類、共犯者ではないか。ならば、ぼくひとりがこうやって呼び出されるのは不当。
というか、小林さんがそのことでぼくに何かあるのであれば、会社の会議室ではなく、食事に誘った時にいうだろう。
それとも、もはや食事に誘いたくないくらい、ぼくのことを嫌いになってしまったということなのだろうか。
思考が空回りする。いよいよ、ワケがわからなくなる。ぼくはどうして今ここにいるのか。
「あの、小林さん!」ぼくは意を決して口を開く。「ぼくはどうしてここにいるんでしょうか!?」
そもそもここに至るまでの経緯すら覚えていないというのだからお笑いだ。経緯というのは、ぼくが呼ばれた理由ではなくて、ぼくがこの部屋に入室するまでの流れというか、小林さんがいつ、どのような調子や態度でぼくに声を掛けたのかを覚えていない、ということだ。
まるで記憶を失ってしまったようだった。
だが、ぼくは自分自身の名前や誕生日、家族のこと、会社のことや同僚、昔の友人のこと、そういった話を全部覚えていた。ということは、ぼくは記憶喪失ではない、ということだ。
ぼくは自分の真剣な気持ちを少しでもわかって貰えるように、と可能な限り誠実な目を演出して、小林さんに真っ直ぐな視線を飛ばす。
「……本当に、何もわからないの?」
皮肉めいた口調で小林さんはいう。その調子はとても冷ややかで、ぼくのことを非難するよう。まるで誰もいない孤島にひとり置き去りにされたような気分。あまりに理不尽な展開に、ぼくもいい加減苛立ちを覚え始めていた。
確かにぼくは怒りを覚えていい立場ではないのかもしれない。だが、小林さんは勿体ぶったようにその理由をいわないし、ここまで来ると流石に我慢の限界だった。
「わかりません。そろそろ理由を教えて下さい」怒りがぼくを強気にさせる。「曖昧な態度ばかり取らないで、いい加減ぼくに何が悪かったか、教えて下さーー」
突然、電話が鳴る。
「ちょっとゴメン」
そういって小林さんは、ぼくの反応を見ることもなく、スマホを取り出して電話に出る。
「はい。……あぁ、着いた?……うん、わかった。……うん。……うん。じゃあーーえ?……あぁ、第二会議室だよ。それじゃあ、待ってるから。来たら入って来ちゃって。じゃーー」
電話を切ると、小林さんは真っ直ぐにぼくを見てため息をつく。
「これから来るって」
来るって、誰が。ぼくはそう訊ねてやろうかとも思ったが、何とか自分を抑え込む。
それから数分、ぼくは淀んだ空気の中、小林さんとふたり、気まずい沈黙に堪え忍びながら、まだ見ぬ来訪者を登場を待った。
会議室のドアを叩く音ーー
「入っていいよ」小林さんがいうと、会議室のドアが音を立てて開く。
「失礼します」
女性の声ーーそれもひとつではない。ひとつは悲しみに暮れたような感じで、ひとつは怒りに討ち震えたような感じ。ぼくは目を見開く。
ドアの奥から姿を現したのは、桃井さんと宗方さんだった。
どういうことだ。ぼくは怒りを忘れて困惑する。そして、その困惑はまた別のモノへと変化するーーある人物の登場によって。
その人物とはーー
黒沢さんだった。
何故、黒沢さんがぼくの会社に。黒沢さんの勤めている会社は、このビルの目と鼻の先。とはいえ、新入社員でもあるまいし、建物を間違えるはずがない。ハテナは留まることを知らない。そして、ぼくは動揺する。
何と、春香さんと里村さんが姿を現したのだ。
何故、どうして、ワケがわからない。何なんだ、このメンツは。これはまるでーー
宗方さん、桃井さん、黒沢さん、里村さん、そして春香さんが小林さんと同じ列のイスに次々と腰掛けて行く。
全員が席に着くと、ぼくと小林さん、彼女たちの一対六という構図が出来上がる。
「これは……」ぼくは思わずいう。
「で、どうすんの?」
冷ややかに小林さんはいう。ぼくはーー
「何が、ですか……?」
「だからーー」小林さんは声を荒げる。「キミはこの中の誰を選ぶの!?」
心臓が跳ね上がる。誰を選ぶ。それはまるで最後通告のようだった。
ぼくを好いてくれているらしい宗方さん、ぼくを宗方さんに結びつけた桃井さん、ぼくがこころを奪われた黒沢さん、そしてぼくの潜在意識が、まだ諦めていないと宣言したかのように現れた里村さんと春香さん。
誰を選ぶかーーそれは困難な質問だった。ぼくは動揺で全身が汗まみれ。何だか吐き気までしてきた。気づけば視界はうねり、赤黒く染まっている。そして、ぼくは気絶するーー
そこで目が覚めた。
全身汗だくーーそれも脂汗まみれ。
夢。今のはすべて夢だったのだ。ぼくは安堵のため息をーー
つけなかった。
誰かひとりを選ばなければならない。もう手遅れな人も混じっているとはいえ、選べなければ、みながぼくのもとを去り、ぼくは再びひとりぼっちになる。そんな未来が待っている。
ぼくは息を震わす。
いつか、決断しなければならない。しかし、どうすればいいーーどうすれば、いい?
眩しい朝陽がいくらぼくの水晶体を照らそうと、ぼくの目の前は真っ暗だった。
【続く】