【丑寅は静かに嗤う~御頭】
文字数 2,362文字
冬の終わりを告げるおだやかな風が、村の辻を撫でるように吹いている。
痩せ細った草木が揺れる。その先には草履を履いた比較的小さな足が見える。
その足取りは遅くもなく早くもない。ただ、自分の呼吸を乱さない程度の早さで土埃を撒き散らしながら歩いている。
そんな足取りで歩く足の後方からは、駆け足で寄ってくる細いシワだらけの足。
「待ってくれ!」
比較的高めではあるが、何処となく枯れ果てたようなかすれ声。前を歩く足は立ち止まり、うしろへと向きを変える。
走っていた、痩せ細った足が止まる。その膝は微かに折られ、膝小僧に痩せ細ったシワだらけの手を置き、身体を支えている。荒い呼吸。如何に体力が欠如しているかわかる。
「どうされました?」
振り返った者の低めの声。張りがあることを考えると、まだ年老いてはいない。
そんな質問に対し、痩せ細った手足を持つ者は荒い呼吸で応答する。具体的なことばはない。余程全力で追って来たのだろう。すぐにはことばを返せる様子は皆無だ。
「……用がないのなら行きます」
前を行く者の足が踵を返そうとする。追う者に背を向けて、再び歩を進めようと右の足を踏み出そうとする。だが、
「待ってくれ……ッ!」掠れ声、呼吸混じりで如何にも苦しそうだ。「どうして行ってしまわれるのだ……? それに行ってしまわれるとて、急ぐことはなかろう」
前をゆく者は再度足を止め、後を追う者のほうを振り返る。
「……いえ。わたしの役目はこれにて終わりました。これ以上の長居は無用です」
「そうではない……! わたしのいいたいことはそういうことではないんだ……」
空っ風が空気を射つように響く。
「どういうことでしょうか?」
冷たい風よりももっと冷たいモノいいが、灰色の空色へと霞のように溶けて消える。後を追う者のことばを歓迎していないのは明らか。だが、後を追う者はうっすらと口許に笑みを浮かべる。唾を飲み込み、いう。
「わたしがいいたいのは、主に、村に残って頂けないだろうか、ということだ……」
「何故?」前をゆく者は殆ど否定するようにピシャリと疑問を呈する。
「何故、って。そんなことは決まっておろう」
前をゆく者は口を挟まない。ただ、静かに次に紡がれるであろうことばを待っている。足許はまるで根が張ったように落ち着いている。
呼吸も落ち着いたのか、後を追う者は身体を立てて、漸く前をゆく者と真正面から向かう。
「主は、わたしたちにとっては恩人だ」後を追う者は、村のほうを振り返り、続ける。「確かに多くの者が犠牲になった。村の外れには、またたくさんの墓が立つこととなるだろう。だが、それはそれ、だ。彼らは運が悪かったのだ。だから、主が気を病んだり、責任を感じることはない。違うか?」
張り詰めたような空気、雲に隠れた太陽が冷ややかな光を差し込む。陽の光は原の一角を照らし、風に揺れる草を寂しげに浮かび上がらせる。
前をゆく者の口許が緩む。
「……確かに、そうかもしれませんね。御天道様は、いつだって気まぐれです。悪い者ほど面白可笑しく長生きし、善良な者ほど早く死ぬ。きっと、あそこで死ねた者たちは幸運な者たちだったのでしょう」
そのことばには皮肉めいた響きがあるように思える。それを裏付けするように、前をゆく者は不敵な笑い声を上げる。
後を追う者は、前をゆく者のことばを冗談として受け取ったのか、何処かいいワケがましい笑みを浮かべていう。
「確かにそうかもしれないが、それではまるで主もわたしも悪人だったようではないか。それに、生き残ったのはわたしたちだけではない。お京も、お雉さんもそうではないか」
「……確かに、そうですね」
「そうだろう。確かに殺生は罪だ。だが、主のやった殺生はやむを得ないモノだ。村の者たちを救うには仕方がなかったのだよ。生き延びたからといって、主やお雉さんに罪があるとは誰も思わんのではないかな?」
「確かにその通りです。お雉さんはただ村人のために立ち上がっただけです。いや、彼女だけじゃない。源之助殿もそうだった」
「源之助……。あぁ、猿田さんか。あの方とは随分と懇意になったようだな」
「いえ、そう思うのはわたしだけかもしれません」前をゆく者は首を横に振る。
「どういうことだね?」
「源之助殿は自分の過去にずっと苦しめられて来た。殺し屋としての性質が彼を孤独にし、孤高にした。極限の緊張感の中に自分を置き続けたことにより、彼は見たくもないモノが見えるようになってしまった」
「見たくもないモノ?」
前をゆく者は静かに頷く。
「人間の業というヤツです。源之助殿は人が背負っている業というヤツに敏感になっていた。源之助殿は、最後までわたしを疑っていました。わたしの剣の腕を信頼してはいたようでしたが、わたしを信用してはいなかった」
「どうして、そういい切れるのかね?」
「それは、わたしが『丑寅』だと、源之助殿は気づいてしまっていたから」
草木がざわめく。
「……主が『丑寅』だって?」
後を追うモノのことばは、ピンと糸が張ったよう。だが、その響きは何処か取り繕ったように大袈裟な趣があった。
「おや、随分と驚かれるのですね?」
「それは……。まさか、桃川さんが『丑寅』だなんて、そんな……」
「とはいっても、わたしは三代目。後釜についただけに過ぎないですが」
「……だが、桃川さんは桃川さんだ。お京も主のことは気に入っておるみたいだし、わたしも同じだ。だから……」
「まるで、お京さんをダシにしてでも、わたしを村から出したくない、そう感じますね。だが、本当はわたしに出て行かれて困るのは、お主なのではないですか?」
無音。けたたましいほどの。
「……どうしてそう思われる?」
「それは良顕様が最初の『丑寅』だから」
良顕と桃川は静かに嗤った。
【続く】
痩せ細った草木が揺れる。その先には草履を履いた比較的小さな足が見える。
その足取りは遅くもなく早くもない。ただ、自分の呼吸を乱さない程度の早さで土埃を撒き散らしながら歩いている。
そんな足取りで歩く足の後方からは、駆け足で寄ってくる細いシワだらけの足。
「待ってくれ!」
比較的高めではあるが、何処となく枯れ果てたようなかすれ声。前を歩く足は立ち止まり、うしろへと向きを変える。
走っていた、痩せ細った足が止まる。その膝は微かに折られ、膝小僧に痩せ細ったシワだらけの手を置き、身体を支えている。荒い呼吸。如何に体力が欠如しているかわかる。
「どうされました?」
振り返った者の低めの声。張りがあることを考えると、まだ年老いてはいない。
そんな質問に対し、痩せ細った手足を持つ者は荒い呼吸で応答する。具体的なことばはない。余程全力で追って来たのだろう。すぐにはことばを返せる様子は皆無だ。
「……用がないのなら行きます」
前を行く者の足が踵を返そうとする。追う者に背を向けて、再び歩を進めようと右の足を踏み出そうとする。だが、
「待ってくれ……ッ!」掠れ声、呼吸混じりで如何にも苦しそうだ。「どうして行ってしまわれるのだ……? それに行ってしまわれるとて、急ぐことはなかろう」
前をゆく者は再度足を止め、後を追う者のほうを振り返る。
「……いえ。わたしの役目はこれにて終わりました。これ以上の長居は無用です」
「そうではない……! わたしのいいたいことはそういうことではないんだ……」
空っ風が空気を射つように響く。
「どういうことでしょうか?」
冷たい風よりももっと冷たいモノいいが、灰色の空色へと霞のように溶けて消える。後を追う者のことばを歓迎していないのは明らか。だが、後を追う者はうっすらと口許に笑みを浮かべる。唾を飲み込み、いう。
「わたしがいいたいのは、主に、村に残って頂けないだろうか、ということだ……」
「何故?」前をゆく者は殆ど否定するようにピシャリと疑問を呈する。
「何故、って。そんなことは決まっておろう」
前をゆく者は口を挟まない。ただ、静かに次に紡がれるであろうことばを待っている。足許はまるで根が張ったように落ち着いている。
呼吸も落ち着いたのか、後を追う者は身体を立てて、漸く前をゆく者と真正面から向かう。
「主は、わたしたちにとっては恩人だ」後を追う者は、村のほうを振り返り、続ける。「確かに多くの者が犠牲になった。村の外れには、またたくさんの墓が立つこととなるだろう。だが、それはそれ、だ。彼らは運が悪かったのだ。だから、主が気を病んだり、責任を感じることはない。違うか?」
張り詰めたような空気、雲に隠れた太陽が冷ややかな光を差し込む。陽の光は原の一角を照らし、風に揺れる草を寂しげに浮かび上がらせる。
前をゆく者の口許が緩む。
「……確かに、そうかもしれませんね。御天道様は、いつだって気まぐれです。悪い者ほど面白可笑しく長生きし、善良な者ほど早く死ぬ。きっと、あそこで死ねた者たちは幸運な者たちだったのでしょう」
そのことばには皮肉めいた響きがあるように思える。それを裏付けするように、前をゆく者は不敵な笑い声を上げる。
後を追う者は、前をゆく者のことばを冗談として受け取ったのか、何処かいいワケがましい笑みを浮かべていう。
「確かにそうかもしれないが、それではまるで主もわたしも悪人だったようではないか。それに、生き残ったのはわたしたちだけではない。お京も、お雉さんもそうではないか」
「……確かに、そうですね」
「そうだろう。確かに殺生は罪だ。だが、主のやった殺生はやむを得ないモノだ。村の者たちを救うには仕方がなかったのだよ。生き延びたからといって、主やお雉さんに罪があるとは誰も思わんのではないかな?」
「確かにその通りです。お雉さんはただ村人のために立ち上がっただけです。いや、彼女だけじゃない。源之助殿もそうだった」
「源之助……。あぁ、猿田さんか。あの方とは随分と懇意になったようだな」
「いえ、そう思うのはわたしだけかもしれません」前をゆく者は首を横に振る。
「どういうことだね?」
「源之助殿は自分の過去にずっと苦しめられて来た。殺し屋としての性質が彼を孤独にし、孤高にした。極限の緊張感の中に自分を置き続けたことにより、彼は見たくもないモノが見えるようになってしまった」
「見たくもないモノ?」
前をゆく者は静かに頷く。
「人間の業というヤツです。源之助殿は人が背負っている業というヤツに敏感になっていた。源之助殿は、最後までわたしを疑っていました。わたしの剣の腕を信頼してはいたようでしたが、わたしを信用してはいなかった」
「どうして、そういい切れるのかね?」
「それは、わたしが『丑寅』だと、源之助殿は気づいてしまっていたから」
草木がざわめく。
「……主が『丑寅』だって?」
後を追うモノのことばは、ピンと糸が張ったよう。だが、その響きは何処か取り繕ったように大袈裟な趣があった。
「おや、随分と驚かれるのですね?」
「それは……。まさか、桃川さんが『丑寅』だなんて、そんな……」
「とはいっても、わたしは三代目。後釜についただけに過ぎないですが」
「……だが、桃川さんは桃川さんだ。お京も主のことは気に入っておるみたいだし、わたしも同じだ。だから……」
「まるで、お京さんをダシにしてでも、わたしを村から出したくない、そう感じますね。だが、本当はわたしに出て行かれて困るのは、お主なのではないですか?」
無音。けたたましいほどの。
「……どうしてそう思われる?」
「それは良顕様が最初の『丑寅』だから」
良顕と桃川は静かに嗤った。
【続く】