【明日、白夜になる前に~睦拾弐~】
文字数 2,697文字
白い壁に白色電球、まるですべてが虚無で出来ているような部屋だった。
明るいはずなのに何処か薄暗さがあり、部屋全体に冷たい空気が張りついている。
部屋の真ん中はたくさんの小さい穴の空いたアクリルの板で仕切られており、仕切られたふたつの部屋の互いのドアの付近には、刑務官が退屈な時間に堪え忍ぶようにやや俯き加減になって呆然と座っている。
ぼくはアクリル板の前に置かれた椅子に腰掛けている。板の前には簡易的なカウンターテーブルのようなスペースがあったが、ぼくはそこに腕を載せることなく、むしろだらりと肩を落としたようにして室内を見回している。
やはりモノ珍しいもんだ。
こういった場所に縁がなかった。出来ることなら生涯縁なんてなければよかったと思うけど、ぼくの中に僅かに残っている腐り掛けの好奇心が首をもたげ、あちこち見回してしまう。
だが、それ以上にぼくは緊張していた。張り詰めた空気。多分、場所が場所だからというのもあるだろうけど、それ以上にこれから向かいの扉から現れるであろう存在に対して、ぼくは何処か一抹の不安、あるいは恐怖を抱いているのかもしれない。それを裏づけるかのように、胃液は沸騰し、今にも食道を逆流してくるんじゃないかという不快感に満ちている。
出来ることなら来て欲しくなんかない。時間も、あの人も。だが、それではどうしようもない。すべては逃げでしかないのだから。
突然、アクリルの向こう側の扉が開く。まるでぼくは心臓と共に身体ごと飛び上がるようにビクッと身体を震わせる。
刑務官に案内されて来たのは、
赤池たまき。
数日前の夜、ぼくはたまきの実家を訪ねた。そしてそこでご両親と何となくの話をし、謝罪され、こちらも謝罪し、たまきと面会したいと申し出て収監先を教えて貰ったのだ。
収監されて数ヶ月、たまきはすっかりと痩せこけ、目は虚ろになり、髪はボサボサで、まるで別人のようになっていた。もはや身体中から疲労が滲み出ていた。
刑務官に二、三の注意を受け、たまきはぼくの目の前に座る。その際も特に何もいわない。これがちょっと前まで彼氏と彼女だった男女の関係性といえるのだろうか。
いや、別れているという意味では、この関係こそが正しいのかもしれない。
沈黙。沈黙が幽霊のようにボンヤリと佇んでいる。たまきはまるでうしろに怨霊でも背負っているかのように背中を丸め、ぼくには一切目を合わせようとはしない。
会話に困るシチュエーション。確かに、元カレ、元カノという関係ではあるが、それ以上にぼくたちは被害者と加害者という関係でもある。ただ別れただけの元恋人でも重い関係性というのは存在するが、ぼくとたまきは本当の意味で重い関係だった。
「……久しぶり」先に口火を切ったのはぼくのほうだった。「元気だった?」
いってから、しまったと思う。見るからに元気そうでないのに、これではまるで皮肉をいっているようだ。
たまきはぼくに目を合わせずに、「うん、元気だよ……。久しぶり、だね……」
と今にも消え入りそうな声でいう。それはまるで罪悪感からか、気まずさからか、はたまた不貞腐れているからかはわからなかった。ぼくは、うんと頷いてことばを見失う。相手が相手だけに切り出すことばも難しい。
だが、そんなこともいっていられない。面会時間にも制限はある。このまま黙って座っていて、そのままタイムアップだなんて、バカもいいところだ。そんなことになるくらいなら、多少の気まずさを感じたとしても、話を進めて行かなければならないだろう。
ぼくは大きく息を吸い、吐くと、アグレッシブな態度を示すように腕をカウンターの上に置く。
「腕……」たまきがいう。
「あっ……」ぼくは思わず、腕をカウンター下に置き直す。「ごめん……」
「ううん。悪いのはわたしだから……。今日はどうしたの? 珍しいね」
「あぁ、うん」
ことばが途切れてしまう。でも多分、何を話していいかわからないワケではないのだと思う。むしろ、話したいことが多過ぎて何をいえばいいのかわからなくなっているのだろう。
時が刻一刻と過ぎていく。まるで処刑の時間。説教が終わるまでの苦行。身体が震える。自分の感情が溢れ出して来る。
「ごめん」
ぼくは思わずそういって頭を下げている。たまきはチラリとぼくのほうを見る。
「どうして謝るの? 悪いのはわたしなのに」
「うん……、そうだと思う」ぼくはもう本音で話すことに決めた。「正直、キミのことを恨んだよ。こんな右腕にされて、怖い想いをさせられて、色んな人に迷惑を掛けて、本当に最低だとぼくは思う」
結構キツいことをいったにも関わらず、たまきは相変わらず俯いたままで、うんと頷き続けている。ぼくは更に続ける。
「キミのことは忘れなかった。で、最近になって、更に鮮烈に思い出した」
ぼくはそういって彼女に最近の里村さんにあった出来事のことを話した。彼女はその話題の時は殆ど相槌を打たなくなっていた。というより、相槌を打つ声が小さくなっていた。
「……それで、キミを思い出した。人を監禁していたぶって、風呂に入らせず、まともな食事も与えず縛りつける。それに加えて本人に代わって恋人のような振る舞いというか、メッセージを送って。まるで、キミがやりそうなことだと思った。もしかしたら、キミが脱獄してぼくのところまで来たんじゃないかって本気で思った。キミはそれくらい執念深いと思っていたし、ぼくと仲のいい女性を監禁するなんて、平気でしそうだと思ったから」
我ながら、かなり最低な口振りだ。たまきも失意を口に出すように微かな声で相槌を打っている。ぼくは更に続ける。
「でも、そんなことないよな。脱獄してまでそんなことするなんて、有り得なかった。だから、今日は謝りに来たんだ。ゴメン。改めて考えると、こういうところが、たまきにそういう風にさせる切っ掛けを作ったのかもしれない。だから、悪いのはキミだけじゃない。ぼくも悪かったんだと思う。だから、何ていうか……」
「わたしは……」たまきが口を開く。「……わたしは、アナタのことを独占したかっただけ。だからアナタがわたしを疑うのも無理はないと思う。でもね、わたし、本当の本当にアナタのことが好きだったんだよ。でも、今となってはアナタがそう思うのも無理はなかったと思う。わざわざ謝りに来てくれてありがとうね。また会えて、嬉しかった……」
その時になって彼女は少し顔を持ち上げた程度だったが、漸くぼくを正面から見詰め、微笑んだ。その笑顔はまるで数日ぶりに雲から顔を出した太陽のように控えめだった。
【続く】
明るいはずなのに何処か薄暗さがあり、部屋全体に冷たい空気が張りついている。
部屋の真ん中はたくさんの小さい穴の空いたアクリルの板で仕切られており、仕切られたふたつの部屋の互いのドアの付近には、刑務官が退屈な時間に堪え忍ぶようにやや俯き加減になって呆然と座っている。
ぼくはアクリル板の前に置かれた椅子に腰掛けている。板の前には簡易的なカウンターテーブルのようなスペースがあったが、ぼくはそこに腕を載せることなく、むしろだらりと肩を落としたようにして室内を見回している。
やはりモノ珍しいもんだ。
こういった場所に縁がなかった。出来ることなら生涯縁なんてなければよかったと思うけど、ぼくの中に僅かに残っている腐り掛けの好奇心が首をもたげ、あちこち見回してしまう。
だが、それ以上にぼくは緊張していた。張り詰めた空気。多分、場所が場所だからというのもあるだろうけど、それ以上にこれから向かいの扉から現れるであろう存在に対して、ぼくは何処か一抹の不安、あるいは恐怖を抱いているのかもしれない。それを裏づけるかのように、胃液は沸騰し、今にも食道を逆流してくるんじゃないかという不快感に満ちている。
出来ることなら来て欲しくなんかない。時間も、あの人も。だが、それではどうしようもない。すべては逃げでしかないのだから。
突然、アクリルの向こう側の扉が開く。まるでぼくは心臓と共に身体ごと飛び上がるようにビクッと身体を震わせる。
刑務官に案内されて来たのは、
赤池たまき。
数日前の夜、ぼくはたまきの実家を訪ねた。そしてそこでご両親と何となくの話をし、謝罪され、こちらも謝罪し、たまきと面会したいと申し出て収監先を教えて貰ったのだ。
収監されて数ヶ月、たまきはすっかりと痩せこけ、目は虚ろになり、髪はボサボサで、まるで別人のようになっていた。もはや身体中から疲労が滲み出ていた。
刑務官に二、三の注意を受け、たまきはぼくの目の前に座る。その際も特に何もいわない。これがちょっと前まで彼氏と彼女だった男女の関係性といえるのだろうか。
いや、別れているという意味では、この関係こそが正しいのかもしれない。
沈黙。沈黙が幽霊のようにボンヤリと佇んでいる。たまきはまるでうしろに怨霊でも背負っているかのように背中を丸め、ぼくには一切目を合わせようとはしない。
会話に困るシチュエーション。確かに、元カレ、元カノという関係ではあるが、それ以上にぼくたちは被害者と加害者という関係でもある。ただ別れただけの元恋人でも重い関係性というのは存在するが、ぼくとたまきは本当の意味で重い関係だった。
「……久しぶり」先に口火を切ったのはぼくのほうだった。「元気だった?」
いってから、しまったと思う。見るからに元気そうでないのに、これではまるで皮肉をいっているようだ。
たまきはぼくに目を合わせずに、「うん、元気だよ……。久しぶり、だね……」
と今にも消え入りそうな声でいう。それはまるで罪悪感からか、気まずさからか、はたまた不貞腐れているからかはわからなかった。ぼくは、うんと頷いてことばを見失う。相手が相手だけに切り出すことばも難しい。
だが、そんなこともいっていられない。面会時間にも制限はある。このまま黙って座っていて、そのままタイムアップだなんて、バカもいいところだ。そんなことになるくらいなら、多少の気まずさを感じたとしても、話を進めて行かなければならないだろう。
ぼくは大きく息を吸い、吐くと、アグレッシブな態度を示すように腕をカウンターの上に置く。
「腕……」たまきがいう。
「あっ……」ぼくは思わず、腕をカウンター下に置き直す。「ごめん……」
「ううん。悪いのはわたしだから……。今日はどうしたの? 珍しいね」
「あぁ、うん」
ことばが途切れてしまう。でも多分、何を話していいかわからないワケではないのだと思う。むしろ、話したいことが多過ぎて何をいえばいいのかわからなくなっているのだろう。
時が刻一刻と過ぎていく。まるで処刑の時間。説教が終わるまでの苦行。身体が震える。自分の感情が溢れ出して来る。
「ごめん」
ぼくは思わずそういって頭を下げている。たまきはチラリとぼくのほうを見る。
「どうして謝るの? 悪いのはわたしなのに」
「うん……、そうだと思う」ぼくはもう本音で話すことに決めた。「正直、キミのことを恨んだよ。こんな右腕にされて、怖い想いをさせられて、色んな人に迷惑を掛けて、本当に最低だとぼくは思う」
結構キツいことをいったにも関わらず、たまきは相変わらず俯いたままで、うんと頷き続けている。ぼくは更に続ける。
「キミのことは忘れなかった。で、最近になって、更に鮮烈に思い出した」
ぼくはそういって彼女に最近の里村さんにあった出来事のことを話した。彼女はその話題の時は殆ど相槌を打たなくなっていた。というより、相槌を打つ声が小さくなっていた。
「……それで、キミを思い出した。人を監禁していたぶって、風呂に入らせず、まともな食事も与えず縛りつける。それに加えて本人に代わって恋人のような振る舞いというか、メッセージを送って。まるで、キミがやりそうなことだと思った。もしかしたら、キミが脱獄してぼくのところまで来たんじゃないかって本気で思った。キミはそれくらい執念深いと思っていたし、ぼくと仲のいい女性を監禁するなんて、平気でしそうだと思ったから」
我ながら、かなり最低な口振りだ。たまきも失意を口に出すように微かな声で相槌を打っている。ぼくは更に続ける。
「でも、そんなことないよな。脱獄してまでそんなことするなんて、有り得なかった。だから、今日は謝りに来たんだ。ゴメン。改めて考えると、こういうところが、たまきにそういう風にさせる切っ掛けを作ったのかもしれない。だから、悪いのはキミだけじゃない。ぼくも悪かったんだと思う。だから、何ていうか……」
「わたしは……」たまきが口を開く。「……わたしは、アナタのことを独占したかっただけ。だからアナタがわたしを疑うのも無理はないと思う。でもね、わたし、本当の本当にアナタのことが好きだったんだよ。でも、今となってはアナタがそう思うのも無理はなかったと思う。わざわざ謝りに来てくれてありがとうね。また会えて、嬉しかった……」
その時になって彼女は少し顔を持ち上げた程度だったが、漸くぼくを正面から見詰め、微笑んだ。その笑顔はまるで数日ぶりに雲から顔を出した太陽のように控えめだった。
【続く】