【西陽の当たる地獄花~参拾参~】
文字数 2,275文字
世界は何処までも真っ暗だ。
あれは夢だったのか。神が掛け軸を引っ張った途端に世界全体が反転し、すべてが逆さまになったような違和感。
唸り声。牛馬のモノだ。牛馬の視界が開ける。と、そこには昼の明るさがある。だが、
世界は間違いなく真っ暗だった。
にも関わらず、室内は灯りも必要ないほどに明るい。辺りを見渡す牛馬。と、そこには砕け散った食器にぐちゃぐちゃのメシ、ボロボロの生首、そして裏返しになっている机と椅子。
そこに神の姿はない。白装束の姿も消えてしまっている。役人たちは潰れて屍と化している。牛馬はハッとして外の景色を眺める。
夜の闇が世界を包んでいる。
牛馬は室内を振り返り確かめる。やはり灯りはない。だが、視界は明るく開けている。再び外の景色を眺める牛馬。と、
夜の闇の中で太陽が輝いている。
しかも、その数三つ。
日蝕とは違う。そもそも太陽が三つ三角形を描いて浮かんでいるなどと、そんなバカげた光景を見たことのある者などいないだろう。
牛馬は鬼水と宗賢の名を呼ぶ。鬼水と宗賢は眠りから覚めたように、唸りながらゆっくりと立ち上がる。鬼水は鬼だった時のことを忘れられないように、前足で目を擦る。鬼水は「何ですか?」とやや険しい声でいう。
「何がどうなってるかは自分で確かめろ。兎に角、ヤバイことになってる」
鬼水と宗賢はノロノロと窓際まで進んだが、互いの背丈では外を覗くことが出来ない。それを見かねた牛馬がふたりーー二匹ーーを抱え上げて、窓際の風景へと導く。
鬼水は驚きを隠せなかった。だが、宗賢は、ハッとしたものの、すぐに何かモノ思いに耽るようにして、俯いて見せる。
「こりゃどういうことだ?」
牛馬は宗賢に訊ねる。宗賢は「まさか……、そんな……」と呟いている。そんな宗賢の首すじを引っ張って持ち上げると、自分の目線の高さまで持ち上げて、
「テメェ、何をブツブツいってんだよ。こりゃどういうことだ」
「いえ、わたしにも正直、ワケがわからない、というか……」宗賢は困惑する。「わたしもウワサでしか聴いたことがなかった。ですが、まさか本当に存在したなんて……」
牛馬は苛立たしげに訊ね返す。と、宗賢は、
「これは……『天地反転』のカラクリです」ゆっくりと口を開く。
天地反転のカラクリ。それは極楽の中級以上の役人にウワサされていた神の最後の手だ。確かな話は誰も知らなかったが、ウワサとしていわれていたのは、天地反転のカラクリが作動した時、すべてが反転するということだった。
天と地が逆転するのはもちろん、夜と昼の景色、光景も反転し、挙げ句の果てには極楽と地獄の役割と存在までもが逆転してしまうというとんでもないモノだった。
だが、それも所詮はウワサ程度の話でしかなく、本当にそれが存在していると信じていたのは、極楽の中でも少数だった、と宗賢は話す。
「わたしだって、『天地反転』のカラクリが存在するなどと思ってもみませんでした。そして、天地が反転した以上、これまでの地に足をつけて生活することは出来ません」
そう。これまでの地は現在の天に相当し、これまでの天は現在の地に相当する。
つまり、建物から一歩出れば、そこはすべてが奈落。真っ暗で、三つの太陽が顔を出す奈落が待っているのみということだ。
「外に出れねぇって、じゃあどうやってここから出ればいいんだよ?」
牛馬の疑問に対し、宗賢はいう。
「これもウワサでしかありませんが、極楽院の底には人が生活出来るほどの大きな隠れ家があるといわれていました。わたしを始め、役人連中はみな、その話を本気になどしていませんでしたが、天地反転のカラクリが本当にあった以上、その隠れ家もあるに違いありません」
「あのよぉ、さっきからどっちが天で、どっちが地なのかややこしくて堪んねぇよ。もっとわかりやすく話せや」
「つまり元の状態の地面、反転した状態でいうところの天井の何処かに隠し戸があって、そこから極楽の隠れ家へと入れるということです」
牛馬は依然としてワケがわからないといった様子で顔を歪めている。
「……まぁ、いいたいことは何となくわかった。つまり、神の野郎がいなくなったってことは、その地の底の隠れ家から逃げたとそう考えていいってことだな?」
「そういうことになるでしょう。ただ……」
宗賢は口をつぐむ。あたかも口にしたくない事実がそこにあるかのように。
「ただ、何だよ?」
「今のここは極楽でありながら、極楽ではないんです……」
宗賢のことばに、牛馬も鬼水も戸惑いを隠せない。宗賢のいったことばの意を牛馬が追及すると、宗賢は更にいう。
「その質が地獄と逆転した、ということです。それは、この場所の漢字が変わることから、そのすべてが自ずと知れてくる」
宗賢は牛馬の腕から降りて、地面に零れていた酒で指を湿らすと、湿っていない地面の一部に「ふた文字」の漢字をふたつ書く。
「『獄楽』と『地極』。それが今の彼岸を分けるふたつの世界です。その文字が意味するように、今わたしたちがいる『獄楽』は地獄と化した極楽であり、反対に位置する『地極』は極楽となった地獄ということです。早い話が、わたしたちが今いるのは、地獄と変わらない、ということです。つまり、なるべく早い内にここから逃げなければ、わたしたちの命の保証はない、ということです」
牛馬は納得して頷く。と、鬼水が牛馬の名を呼び、地面に置かれた何かを指す。鬼水が指した先には上質な紙が一枚。牛馬はそれを拾い上げ眺めると「野郎……」とひとこと口走る。
闇の中で三つの太陽が輝いていた。
【続く】
あれは夢だったのか。神が掛け軸を引っ張った途端に世界全体が反転し、すべてが逆さまになったような違和感。
唸り声。牛馬のモノだ。牛馬の視界が開ける。と、そこには昼の明るさがある。だが、
世界は間違いなく真っ暗だった。
にも関わらず、室内は灯りも必要ないほどに明るい。辺りを見渡す牛馬。と、そこには砕け散った食器にぐちゃぐちゃのメシ、ボロボロの生首、そして裏返しになっている机と椅子。
そこに神の姿はない。白装束の姿も消えてしまっている。役人たちは潰れて屍と化している。牛馬はハッとして外の景色を眺める。
夜の闇が世界を包んでいる。
牛馬は室内を振り返り確かめる。やはり灯りはない。だが、視界は明るく開けている。再び外の景色を眺める牛馬。と、
夜の闇の中で太陽が輝いている。
しかも、その数三つ。
日蝕とは違う。そもそも太陽が三つ三角形を描いて浮かんでいるなどと、そんなバカげた光景を見たことのある者などいないだろう。
牛馬は鬼水と宗賢の名を呼ぶ。鬼水と宗賢は眠りから覚めたように、唸りながらゆっくりと立ち上がる。鬼水は鬼だった時のことを忘れられないように、前足で目を擦る。鬼水は「何ですか?」とやや険しい声でいう。
「何がどうなってるかは自分で確かめろ。兎に角、ヤバイことになってる」
鬼水と宗賢はノロノロと窓際まで進んだが、互いの背丈では外を覗くことが出来ない。それを見かねた牛馬がふたりーー二匹ーーを抱え上げて、窓際の風景へと導く。
鬼水は驚きを隠せなかった。だが、宗賢は、ハッとしたものの、すぐに何かモノ思いに耽るようにして、俯いて見せる。
「こりゃどういうことだ?」
牛馬は宗賢に訊ねる。宗賢は「まさか……、そんな……」と呟いている。そんな宗賢の首すじを引っ張って持ち上げると、自分の目線の高さまで持ち上げて、
「テメェ、何をブツブツいってんだよ。こりゃどういうことだ」
「いえ、わたしにも正直、ワケがわからない、というか……」宗賢は困惑する。「わたしもウワサでしか聴いたことがなかった。ですが、まさか本当に存在したなんて……」
牛馬は苛立たしげに訊ね返す。と、宗賢は、
「これは……『天地反転』のカラクリです」ゆっくりと口を開く。
天地反転のカラクリ。それは極楽の中級以上の役人にウワサされていた神の最後の手だ。確かな話は誰も知らなかったが、ウワサとしていわれていたのは、天地反転のカラクリが作動した時、すべてが反転するということだった。
天と地が逆転するのはもちろん、夜と昼の景色、光景も反転し、挙げ句の果てには極楽と地獄の役割と存在までもが逆転してしまうというとんでもないモノだった。
だが、それも所詮はウワサ程度の話でしかなく、本当にそれが存在していると信じていたのは、極楽の中でも少数だった、と宗賢は話す。
「わたしだって、『天地反転』のカラクリが存在するなどと思ってもみませんでした。そして、天地が反転した以上、これまでの地に足をつけて生活することは出来ません」
そう。これまでの地は現在の天に相当し、これまでの天は現在の地に相当する。
つまり、建物から一歩出れば、そこはすべてが奈落。真っ暗で、三つの太陽が顔を出す奈落が待っているのみということだ。
「外に出れねぇって、じゃあどうやってここから出ればいいんだよ?」
牛馬の疑問に対し、宗賢はいう。
「これもウワサでしかありませんが、極楽院の底には人が生活出来るほどの大きな隠れ家があるといわれていました。わたしを始め、役人連中はみな、その話を本気になどしていませんでしたが、天地反転のカラクリが本当にあった以上、その隠れ家もあるに違いありません」
「あのよぉ、さっきからどっちが天で、どっちが地なのかややこしくて堪んねぇよ。もっとわかりやすく話せや」
「つまり元の状態の地面、反転した状態でいうところの天井の何処かに隠し戸があって、そこから極楽の隠れ家へと入れるということです」
牛馬は依然としてワケがわからないといった様子で顔を歪めている。
「……まぁ、いいたいことは何となくわかった。つまり、神の野郎がいなくなったってことは、その地の底の隠れ家から逃げたとそう考えていいってことだな?」
「そういうことになるでしょう。ただ……」
宗賢は口をつぐむ。あたかも口にしたくない事実がそこにあるかのように。
「ただ、何だよ?」
「今のここは極楽でありながら、極楽ではないんです……」
宗賢のことばに、牛馬も鬼水も戸惑いを隠せない。宗賢のいったことばの意を牛馬が追及すると、宗賢は更にいう。
「その質が地獄と逆転した、ということです。それは、この場所の漢字が変わることから、そのすべてが自ずと知れてくる」
宗賢は牛馬の腕から降りて、地面に零れていた酒で指を湿らすと、湿っていない地面の一部に「ふた文字」の漢字をふたつ書く。
「『獄楽』と『地極』。それが今の彼岸を分けるふたつの世界です。その文字が意味するように、今わたしたちがいる『獄楽』は地獄と化した極楽であり、反対に位置する『地極』は極楽となった地獄ということです。早い話が、わたしたちが今いるのは、地獄と変わらない、ということです。つまり、なるべく早い内にここから逃げなければ、わたしたちの命の保証はない、ということです」
牛馬は納得して頷く。と、鬼水が牛馬の名を呼び、地面に置かれた何かを指す。鬼水が指した先には上質な紙が一枚。牛馬はそれを拾い上げ眺めると「野郎……」とひとこと口走る。
闇の中で三つの太陽が輝いていた。
【続く】