【丑寅は静かに嗤う~老婆】
文字数 2,284文字
潮風のにおいが鼻腔をくすぐる。
海は日の光を受けて白銀に輝き、海岸沿いでは真っ白な波が静かに浜辺へと押し寄せている。犬蔵は波に優しく撫でられながら、浜辺に倒れている。意識はないよう。
犬蔵の瞼がピクリと動く。
ゆっくりと目を開ける犬蔵ーー目の前には美しい浜辺に生い茂る木々が広がっている。
「ん……ん?」
犬蔵はワケもわからないといった調子で木々を眺め、辺りを見回す。その場で仰向けになってみるが、砂が背中の傷口に触れたのか、急な苦痛に顔を歪めながら、寝返りを打つ。仰向けになって痛みに耐えていると、苦痛は少しずつ引いていく。
すべての痛みが消えた時には、犬蔵の全身は海水ではない何かでビッショリになっている。
痛みも引き、ゆっくりと身体を起こそうとする犬蔵ーー水晶体に水の中で揺れる何かが映る。
犬蔵は立ち上がり、水の中で揺れるその何かに近づく。それは一見するとボロの布切れのよう。だが、近づいていくと次第にその姿が鮮明となっていく。それはーー
人だったのだ。
だが、それはピクリとも動かず、ただ波に揺られるばかりだ。よく見ると、右の手首に何かがくくりつけられている。
犬蔵は浮かぶそれを引き上げ、仰向けにする。そこには戌亥の面ーー
「猪之助……」
それは猪之助だったーーいや、猪之助だったモノといったほうが正しいだろうか。戌亥の面をゆっくりと取ると、面の下には猪之助の穏やかな死に顔がある。犬蔵は戌亥の面と猪之助の亡骸を照らし会わすようにして見る。
「……兄弟、やっぱりお前にはコイツは重すぎたんだよ」
犬蔵は戌亥の面を胸に抱き、静かに涙を流す。犬蔵の目に、猪之助の右手に繋がれた何かが目に入る。猪之助の右手首にくくりつけられた紐を手繰り寄せる犬蔵ーー
紐には刀がくくりつけられている。
右手の紐はどうやら刀の鞘に結んであった下緒のようだった。
犬蔵は右手にくくりつけられた下緒を解くと、鞘の中に眠る刀身を確認する。刀に海水は御法度だ。各部が傷むだけでなく、何よりも刀身が錆び付く恐れがある。
だが、それは杞憂に過ぎなかった。刀は依然として活きのいい輝きを有している。
犬蔵は刀と戌亥の面を自分の右側に置き、死んだ猪之助の横で海に向かって胡座を掻く。日の光が犬蔵の目をキラキラと輝かせる。ただ、その表情はどこか寂しげだ。
「……おれは、犬蔵。十二鬼面の戌亥だった。それが今じゃ何もない。桃のお侍、雉の姉ちゃん、エテ公に捕らわれ、崖から落ちた。……全部覚えてるのかよ」悲しげに犬蔵はいう。「おれも桃のお侍みたいにすべてを忘れちまえば、楽だったかもしれねぇのに。なぁ、兄弟……」
時間はゆったりと流れ続ける。波音と共に、波と共に。犬蔵は動かない。まるで魂が抜けてしまったようにボーッと海を見つめたままだ。
「どうしてこんなことになっちまったんだろうな。おれらは、こんな殺し合いをするためだけに生きてきたのかな……」
だが、猪之助がその問いに答えることはない。犬蔵の肩が震える。砂浜が点々と濡れる。
突然、平穏を切り裂く悲鳴が聴こえる。
犬蔵はハッとし、戌亥の面と刀を手にし、戌亥の面を懐に仕舞って立ち上がり、刀を腰元に差しながら悲鳴のしたほうへと向かう。
傷が痛んであまり早くは走れないが、それでも犬蔵は可能な限り早く走ろうとする。
犬蔵が走り出して少しすると、浜辺にポツポツとした点が三つ見えてくる。更に近づくとその点はふたりの侍とひとりの老婆になる。
ふたりの侍は如何にも旗本といわんばかりにの大層な着物に身を包んでいる。対する老婆は、その逆ーーぼろ布をつぎはぎしたような何ともみすぼらしい格好。
怒号ーー侍のひとりが上げる。老婆はそれに対して土下座して詫びるばかり。それを見た犬蔵は怒りを足音に乗せて三人に近づくと、
「テメェらコラァ! 侍がふたりして婆さんイジメとは、情けないとは思わねぇのか!」
犬蔵が微かに頬を歪ませる。声を上げると痛みが込み上げて来るのだろう。
犬蔵の怒号に振り向く三人ーー
「何だ? 無礼者! 拙者たちを誰かと知っての口利きか?」
片方の侍がそういって犬蔵に詰め寄って来る。見た感じ、まだ子供のようだ。
「貴様、聴いているのかーー」
侍がいい終わらんとするところで、犬蔵は侍の顔面に拳を叩き込む。技術はないが、力だけは凄まじい犬蔵の拳で、侍は受け身を取る余裕もなく、うしろに倒れる。
「ぶ、無礼者……!」
もうひとりの侍が刀を抜く。だが、その手はブルブルと震えている。
「何だと、クソガキ。やるか?」
「拙者を……誰とーー!」
「ブルブル震えてる口だけは達者なガキだろう。家柄出せば誰もが平伏すと思ってたら大間違いなんだよ!」
刀を抜く犬蔵ーーそのまま刀を天にかざすような八相の構えのまま侍に飛び込んで行く。
侍の顔が恐怖に引き吊る。
袈裟懸けに刀を振り下ろす犬蔵。
侍は何とかそれを受けて防ぐ。
が、犬蔵の勢いは止まらない。野太刀自顕流特有の徹底した猛攻。袈裟に斬れば、次は逆の袈裟。それを繰り返す。
侍は必死に犬蔵の猛攻を防ぐ。その目は涙で溢れている。
侍の刀が折れる。
「ひ、ひぃ……!!」
侍はその場に尻餅をつく。袴がジワリと濡れる。犬蔵は刀を納め、
「あっちで伸びてるバカを連れて、さっさと消えろ小便垂らし」
侍は折れた刀をそのままに、仲間の侍を肩で抱えてその場を逃げ出す。
犬蔵は老婆に手を差し伸べ、
「大丈夫か、婆さん」
老婆は犬蔵の手を取り立ち上がる。
「ありがとうねぇ」
老婆はシワだらけの顔をくしゃっと歪めて笑ったーー
【続く】
海は日の光を受けて白銀に輝き、海岸沿いでは真っ白な波が静かに浜辺へと押し寄せている。犬蔵は波に優しく撫でられながら、浜辺に倒れている。意識はないよう。
犬蔵の瞼がピクリと動く。
ゆっくりと目を開ける犬蔵ーー目の前には美しい浜辺に生い茂る木々が広がっている。
「ん……ん?」
犬蔵はワケもわからないといった調子で木々を眺め、辺りを見回す。その場で仰向けになってみるが、砂が背中の傷口に触れたのか、急な苦痛に顔を歪めながら、寝返りを打つ。仰向けになって痛みに耐えていると、苦痛は少しずつ引いていく。
すべての痛みが消えた時には、犬蔵の全身は海水ではない何かでビッショリになっている。
痛みも引き、ゆっくりと身体を起こそうとする犬蔵ーー水晶体に水の中で揺れる何かが映る。
犬蔵は立ち上がり、水の中で揺れるその何かに近づく。それは一見するとボロの布切れのよう。だが、近づいていくと次第にその姿が鮮明となっていく。それはーー
人だったのだ。
だが、それはピクリとも動かず、ただ波に揺られるばかりだ。よく見ると、右の手首に何かがくくりつけられている。
犬蔵は浮かぶそれを引き上げ、仰向けにする。そこには戌亥の面ーー
「猪之助……」
それは猪之助だったーーいや、猪之助だったモノといったほうが正しいだろうか。戌亥の面をゆっくりと取ると、面の下には猪之助の穏やかな死に顔がある。犬蔵は戌亥の面と猪之助の亡骸を照らし会わすようにして見る。
「……兄弟、やっぱりお前にはコイツは重すぎたんだよ」
犬蔵は戌亥の面を胸に抱き、静かに涙を流す。犬蔵の目に、猪之助の右手に繋がれた何かが目に入る。猪之助の右手首にくくりつけられた紐を手繰り寄せる犬蔵ーー
紐には刀がくくりつけられている。
右手の紐はどうやら刀の鞘に結んであった下緒のようだった。
犬蔵は右手にくくりつけられた下緒を解くと、鞘の中に眠る刀身を確認する。刀に海水は御法度だ。各部が傷むだけでなく、何よりも刀身が錆び付く恐れがある。
だが、それは杞憂に過ぎなかった。刀は依然として活きのいい輝きを有している。
犬蔵は刀と戌亥の面を自分の右側に置き、死んだ猪之助の横で海に向かって胡座を掻く。日の光が犬蔵の目をキラキラと輝かせる。ただ、その表情はどこか寂しげだ。
「……おれは、犬蔵。十二鬼面の戌亥だった。それが今じゃ何もない。桃のお侍、雉の姉ちゃん、エテ公に捕らわれ、崖から落ちた。……全部覚えてるのかよ」悲しげに犬蔵はいう。「おれも桃のお侍みたいにすべてを忘れちまえば、楽だったかもしれねぇのに。なぁ、兄弟……」
時間はゆったりと流れ続ける。波音と共に、波と共に。犬蔵は動かない。まるで魂が抜けてしまったようにボーッと海を見つめたままだ。
「どうしてこんなことになっちまったんだろうな。おれらは、こんな殺し合いをするためだけに生きてきたのかな……」
だが、猪之助がその問いに答えることはない。犬蔵の肩が震える。砂浜が点々と濡れる。
突然、平穏を切り裂く悲鳴が聴こえる。
犬蔵はハッとし、戌亥の面と刀を手にし、戌亥の面を懐に仕舞って立ち上がり、刀を腰元に差しながら悲鳴のしたほうへと向かう。
傷が痛んであまり早くは走れないが、それでも犬蔵は可能な限り早く走ろうとする。
犬蔵が走り出して少しすると、浜辺にポツポツとした点が三つ見えてくる。更に近づくとその点はふたりの侍とひとりの老婆になる。
ふたりの侍は如何にも旗本といわんばかりにの大層な着物に身を包んでいる。対する老婆は、その逆ーーぼろ布をつぎはぎしたような何ともみすぼらしい格好。
怒号ーー侍のひとりが上げる。老婆はそれに対して土下座して詫びるばかり。それを見た犬蔵は怒りを足音に乗せて三人に近づくと、
「テメェらコラァ! 侍がふたりして婆さんイジメとは、情けないとは思わねぇのか!」
犬蔵が微かに頬を歪ませる。声を上げると痛みが込み上げて来るのだろう。
犬蔵の怒号に振り向く三人ーー
「何だ? 無礼者! 拙者たちを誰かと知っての口利きか?」
片方の侍がそういって犬蔵に詰め寄って来る。見た感じ、まだ子供のようだ。
「貴様、聴いているのかーー」
侍がいい終わらんとするところで、犬蔵は侍の顔面に拳を叩き込む。技術はないが、力だけは凄まじい犬蔵の拳で、侍は受け身を取る余裕もなく、うしろに倒れる。
「ぶ、無礼者……!」
もうひとりの侍が刀を抜く。だが、その手はブルブルと震えている。
「何だと、クソガキ。やるか?」
「拙者を……誰とーー!」
「ブルブル震えてる口だけは達者なガキだろう。家柄出せば誰もが平伏すと思ってたら大間違いなんだよ!」
刀を抜く犬蔵ーーそのまま刀を天にかざすような八相の構えのまま侍に飛び込んで行く。
侍の顔が恐怖に引き吊る。
袈裟懸けに刀を振り下ろす犬蔵。
侍は何とかそれを受けて防ぐ。
が、犬蔵の勢いは止まらない。野太刀自顕流特有の徹底した猛攻。袈裟に斬れば、次は逆の袈裟。それを繰り返す。
侍は必死に犬蔵の猛攻を防ぐ。その目は涙で溢れている。
侍の刀が折れる。
「ひ、ひぃ……!!」
侍はその場に尻餅をつく。袴がジワリと濡れる。犬蔵は刀を納め、
「あっちで伸びてるバカを連れて、さっさと消えろ小便垂らし」
侍は折れた刀をそのままに、仲間の侍を肩で抱えてその場を逃げ出す。
犬蔵は老婆に手を差し伸べ、
「大丈夫か、婆さん」
老婆は犬蔵の手を取り立ち上がる。
「ありがとうねぇ」
老婆はシワだらけの顔をくしゃっと歪めて笑ったーー
【続く】