【丑寅は静かに嗤う~負犬】
文字数 2,528文字
白い太陽、からっとした空気とは裏腹に、男の目には涙が浮かんでいる。
犬蔵ーーそれが男の名前。だが、それが本当の名前かどうかを知っているモノはここには犬蔵以外にいない。
犬蔵は相変わらず両手と腰を縛られているが、その先に繋がった手綱を握るは桃川ではなく、猿田である。そのうしろをゆくはお雉、そして最後尾につくは桃川となっている。
「貴殿の配下は何人いたんだ?」
猿田が犬蔵に訊く。が、犬蔵は目を伏せたまま答えようとしない。猿田はそんな犬蔵の様子にはお構い無しに、
「答えろ、配下は何人だ?」
が、やはり犬蔵は答えない。猿田の目から生気が消える。そうかと思うと、猿田は足音を殺して犬蔵に近づき、足を払う。
まるで時間が止まったかのように犬蔵の身体が宙を浮く。そして、時間が一気に動き出したように、犬蔵の身体は地面に勢いよく叩きつけられる。後頭部を抑える犬蔵ーー
「何しやがるーー」
犬蔵の喉元に圧迫。猿田が犬蔵の喉を思い切り踏みつけたのだ。
「答えろ、仲間は何人だ?」
が、犬蔵は答えるどころか、ことばを発することすらままならない。猿田の踏みつけがあまりに強すぎるのか、息を吸うことすら困難になっているよう。猿田の目は、ジトッと死んだようにくすんでいる。
「ちょっと猿ちゃん!」
猿田の元へ駆け寄るお雉ーー犬蔵から猿田を引き剥がそうとするも、猿田はびくとも動かない。
「そんなんじゃ話せないよ! いいから足を退けて!」
必死に猿田を宥めようとするお雉。桃川はうしろからそれをただただ眺めるばかり。猿田を止めようとはしない。お雉は振り返り、
「桃川さんも手伝って!」
そういわれて漸く桃川も動き出す。桃川は早足で三人の元に寄り、猿田の肩を掴んで、
「猿田さん、止めましょう。犬蔵さんも、今は昔の仲間のことは考えられないんでしょう」
「あ?」威圧的に猿田はいう。「知ったことか。ヤツラがあぁやって襲ってきたってことは、また必ずやって来る。何の情報もなく、何の対策も打たずしてたった三人で集団に勝つのは殆ど不可能だ。それとも、そんなもんなくてもどうにかなるとでも?」
「そうはいいません。ですが、ちょっとやり過ぎというか」
「やり過ぎ? 村ひとつを殆ど崩壊させておいて、人まで拐って、それでもやり過ぎることなんてあるのか?ーーどうなんだ。おれとアンタは、今何でここを歩いているんだ?」
「それは……」桃川は答えに詰まる。「盗賊からお京を救い出すため」
「そうだろ。なら、盗賊の一味全体を相手にしなきゃならない。そうなると、敵の人数や組の規模をちゃんと知っておかなきゃならない。そして、当然、敵のやり口や戦術も、な。それとも、そんなモノはアンタには必要ないか?」
桃川は何も返答しない。ただ、猿田と桃川、張り詰めた空気の中で互いに緊張感に満ちた視線のやり取りをするばかり。
突然、猿田はハッとする。そして、桃川から目線を逸らし、右へ左へと目付をしたかと思うと犬蔵の首元から足を退かすとため息をついてゆっくりとうしろに下がる。咳き込む犬蔵。
「付き合ってられないな。そんなに死にたければ、勝手に死ねばいい。元締はおれじゃない。アンタがそういうんなら黙って引き下がるさ」
そういって猿田は静かに先をゆく。
「ちょっと、どこ行くの?」お雉。
「付き合ってられん。のんびりやりたきゃそこでグダグダやってな」
猿田はそういい残して先へ進んでしまう。そんな猿田を見送りつつ、お雉は桃川とともに犬蔵を立たせて、土埃を払う。
「ごめんなさい。昔はあぁじゃなかったんだけど」お雉が犬蔵の着物を叩きながらいう。
犬蔵はお雉の手を振り払い、
「うるせぇ。余計な……お世話なんだよ」
そういって独りでに歩き出してしまう。桃川は犬蔵を追い掛け、地面に引き摺った手綱に手を掛ける。お雉は悲しげに遠ざかっていく男たちの背中を見つめてーー
先を行く猿田ーー辺りに視線を飛ばしながら歩いている。歩幅は狭く、軽く握った拳は振らずに自分の脇に垂らしたままにしている。
猿田の視線が飛ぶ。木の上、繁みの奥、大きな石、目は行き届かなくとも後方への意識も決して緩めはしない。
猿田が歩いていると、目の前に吊り橋が現れる。非常に長い橋で、年期が入っているのか足場となる板はひどく傷み腐っており、橋を支えている縄はちょっとした衝撃でも切れてしまいそうだ。猿田は舌打ちをし、
「参ったな……」
とひとりごとをいう。そしてーー
それから少し遅れて桃川、お雉、犬蔵も吊り橋のもとまで来る。猿田の姿はない。
「ここを渡るの……?」お雉の声に恐怖が入り交じっている。
「あぁ、鬼面の砦はこの更に先だよ。この橋は気をつけて渡らないとな」
犬蔵は慣れたように今にも落ちそうな吊り橋を渡り出す。その足取りは慎重さに欠けている。犬蔵が大きく一歩を踏み出す度に、吊り橋が揺れる。
「ウソ、でしょ?」お雉は今にも消え入りそうな声でいう。「てか、猿ちゃんは?」
「先に行ったんじゃないのか? せっかちだもんなあのエテ公も。もしかしたら、落ちちまったのかも」背を向けたまま犬蔵はいう。
「そんな……」
「グズグズしてっと、置いてくぞ」犬蔵は早さを変えずにグイグイと先へ進んで行く。
「行くしか、ないみたいですね」そういって桃川も橋を渡り始める。
「あ、ちょっと待ってよ!」
お雉は慎重さに慎重さを重ねて橋を渡り出す。桃川、犬蔵、お雉は等間隔で橋を進む。
三人がちょうど橋の真ん中辺りに差し掛かったその時であるーー
橋の前方に動く影がある。
その影はボロの着物を身に纏い、刀を落とし差しにしている。その数は四。みな一様に犬と猪の形を模した面を被っている。
「テメェら!」
まずそれに気づいたのは先頭を行く犬蔵。犬蔵は顔をハッと明るくさせる。お雉は、
「ちょっと、アレ……!」
「犬蔵」
橋の前方から犬蔵を呼ぶ声ーー繁みの奥から現れる明らかに作りの異なった犬と猪の折衷仮面を被るひとりの大きな盗賊の姿が現れる。
「元気だったか?」大きな折衷仮面がいう。
「猪之助……!」
犬蔵は口をポッカリと開けたまま、猪之助と呼んだ折衷仮面を見つめる。
橋の下で波が岩壁を打ち、飛散したーー
【続く】
犬蔵ーーそれが男の名前。だが、それが本当の名前かどうかを知っているモノはここには犬蔵以外にいない。
犬蔵は相変わらず両手と腰を縛られているが、その先に繋がった手綱を握るは桃川ではなく、猿田である。そのうしろをゆくはお雉、そして最後尾につくは桃川となっている。
「貴殿の配下は何人いたんだ?」
猿田が犬蔵に訊く。が、犬蔵は目を伏せたまま答えようとしない。猿田はそんな犬蔵の様子にはお構い無しに、
「答えろ、配下は何人だ?」
が、やはり犬蔵は答えない。猿田の目から生気が消える。そうかと思うと、猿田は足音を殺して犬蔵に近づき、足を払う。
まるで時間が止まったかのように犬蔵の身体が宙を浮く。そして、時間が一気に動き出したように、犬蔵の身体は地面に勢いよく叩きつけられる。後頭部を抑える犬蔵ーー
「何しやがるーー」
犬蔵の喉元に圧迫。猿田が犬蔵の喉を思い切り踏みつけたのだ。
「答えろ、仲間は何人だ?」
が、犬蔵は答えるどころか、ことばを発することすらままならない。猿田の踏みつけがあまりに強すぎるのか、息を吸うことすら困難になっているよう。猿田の目は、ジトッと死んだようにくすんでいる。
「ちょっと猿ちゃん!」
猿田の元へ駆け寄るお雉ーー犬蔵から猿田を引き剥がそうとするも、猿田はびくとも動かない。
「そんなんじゃ話せないよ! いいから足を退けて!」
必死に猿田を宥めようとするお雉。桃川はうしろからそれをただただ眺めるばかり。猿田を止めようとはしない。お雉は振り返り、
「桃川さんも手伝って!」
そういわれて漸く桃川も動き出す。桃川は早足で三人の元に寄り、猿田の肩を掴んで、
「猿田さん、止めましょう。犬蔵さんも、今は昔の仲間のことは考えられないんでしょう」
「あ?」威圧的に猿田はいう。「知ったことか。ヤツラがあぁやって襲ってきたってことは、また必ずやって来る。何の情報もなく、何の対策も打たずしてたった三人で集団に勝つのは殆ど不可能だ。それとも、そんなもんなくてもどうにかなるとでも?」
「そうはいいません。ですが、ちょっとやり過ぎというか」
「やり過ぎ? 村ひとつを殆ど崩壊させておいて、人まで拐って、それでもやり過ぎることなんてあるのか?ーーどうなんだ。おれとアンタは、今何でここを歩いているんだ?」
「それは……」桃川は答えに詰まる。「盗賊からお京を救い出すため」
「そうだろ。なら、盗賊の一味全体を相手にしなきゃならない。そうなると、敵の人数や組の規模をちゃんと知っておかなきゃならない。そして、当然、敵のやり口や戦術も、な。それとも、そんなモノはアンタには必要ないか?」
桃川は何も返答しない。ただ、猿田と桃川、張り詰めた空気の中で互いに緊張感に満ちた視線のやり取りをするばかり。
突然、猿田はハッとする。そして、桃川から目線を逸らし、右へ左へと目付をしたかと思うと犬蔵の首元から足を退かすとため息をついてゆっくりとうしろに下がる。咳き込む犬蔵。
「付き合ってられないな。そんなに死にたければ、勝手に死ねばいい。元締はおれじゃない。アンタがそういうんなら黙って引き下がるさ」
そういって猿田は静かに先をゆく。
「ちょっと、どこ行くの?」お雉。
「付き合ってられん。のんびりやりたきゃそこでグダグダやってな」
猿田はそういい残して先へ進んでしまう。そんな猿田を見送りつつ、お雉は桃川とともに犬蔵を立たせて、土埃を払う。
「ごめんなさい。昔はあぁじゃなかったんだけど」お雉が犬蔵の着物を叩きながらいう。
犬蔵はお雉の手を振り払い、
「うるせぇ。余計な……お世話なんだよ」
そういって独りでに歩き出してしまう。桃川は犬蔵を追い掛け、地面に引き摺った手綱に手を掛ける。お雉は悲しげに遠ざかっていく男たちの背中を見つめてーー
先を行く猿田ーー辺りに視線を飛ばしながら歩いている。歩幅は狭く、軽く握った拳は振らずに自分の脇に垂らしたままにしている。
猿田の視線が飛ぶ。木の上、繁みの奥、大きな石、目は行き届かなくとも後方への意識も決して緩めはしない。
猿田が歩いていると、目の前に吊り橋が現れる。非常に長い橋で、年期が入っているのか足場となる板はひどく傷み腐っており、橋を支えている縄はちょっとした衝撃でも切れてしまいそうだ。猿田は舌打ちをし、
「参ったな……」
とひとりごとをいう。そしてーー
それから少し遅れて桃川、お雉、犬蔵も吊り橋のもとまで来る。猿田の姿はない。
「ここを渡るの……?」お雉の声に恐怖が入り交じっている。
「あぁ、鬼面の砦はこの更に先だよ。この橋は気をつけて渡らないとな」
犬蔵は慣れたように今にも落ちそうな吊り橋を渡り出す。その足取りは慎重さに欠けている。犬蔵が大きく一歩を踏み出す度に、吊り橋が揺れる。
「ウソ、でしょ?」お雉は今にも消え入りそうな声でいう。「てか、猿ちゃんは?」
「先に行ったんじゃないのか? せっかちだもんなあのエテ公も。もしかしたら、落ちちまったのかも」背を向けたまま犬蔵はいう。
「そんな……」
「グズグズしてっと、置いてくぞ」犬蔵は早さを変えずにグイグイと先へ進んで行く。
「行くしか、ないみたいですね」そういって桃川も橋を渡り始める。
「あ、ちょっと待ってよ!」
お雉は慎重さに慎重さを重ねて橋を渡り出す。桃川、犬蔵、お雉は等間隔で橋を進む。
三人がちょうど橋の真ん中辺りに差し掛かったその時であるーー
橋の前方に動く影がある。
その影はボロの着物を身に纏い、刀を落とし差しにしている。その数は四。みな一様に犬と猪の形を模した面を被っている。
「テメェら!」
まずそれに気づいたのは先頭を行く犬蔵。犬蔵は顔をハッと明るくさせる。お雉は、
「ちょっと、アレ……!」
「犬蔵」
橋の前方から犬蔵を呼ぶ声ーー繁みの奥から現れる明らかに作りの異なった犬と猪の折衷仮面を被るひとりの大きな盗賊の姿が現れる。
「元気だったか?」大きな折衷仮面がいう。
「猪之助……!」
犬蔵は口をポッカリと開けたまま、猪之助と呼んだ折衷仮面を見つめる。
橋の下で波が岩壁を打ち、飛散したーー
【続く】