【元日、原点の日】
文字数 2,833文字
夜闇に溶けた鐘の音は、一体どこまで響くのだろう。
子供の頃、何度も考えたことだった。だが、そんなことにも今は興味を示すこともない。今の詩織が興味あることといえば、美味しいクッキーの作る方法だけだった。
赤く熱せられたオーブンにいくつかのクッキーが載っている。詩織はそれらとひたすらにらめっこをしていた。
完成ーー試しに味見をしてみる。
ダメ。
全然ダメーー詩織の顔にはそう書いてあった。年越しといったら蕎麦が定番だが、それならとっくに食べきってしまった。
ただ、唐突にクッキーが食べたくなり、年が明ける前に準備を始め、気づけば新年を迎えてしまっていた。
執念深く手を加えるも、中々美味しくならない。材料の配分を間違っているのだろうか。
「まだやってんのか」ソファに寝転がった祐太朗がいう。「もう明日にしたらどうだ?」
詩織は拒否した。一度何かに夢中になると、自分が納得するまで続けたがるのが、詩織のいいクセであり、悪いクセでもあった。
「ちょっと……、一枚貰えるか?」
そういって祐太朗はキッチンまでいってクッキーを一枚取り上げ食べた。それに関して詩織は特に何もいわなかった。咀嚼音。クッキーを噛み砕くボリボリという音が室内に響く。
「うん、美味いんじゃないか?」
祐太朗はそういうも詩織はどうも納得のいっていない様子だった。が、詩織は唐突に寝室に入ったかと思うと、少ししてダウンジャケットを着て部屋から出て来た。
「どこ行くんだよ?」祐太朗は訊ねた。
「材料買ってくる」
詩織は祐太朗のことなどほぼノールックだった。が、祐太朗も流石に詩織を引き止めて、
「明日にしろよ」
「いや。今日やる」
そういって祐太朗の手を振りほどくと、そのまま部屋を出ていってしまった。
外の寒さが皮膚に染み入る夜のストリートからは、何のお囃子も聴こえない。今年は初詣も自粛ムードなのだろう。しっぽりとお参りし、しっぽりと去る。それがウイルスが蔓延した後のスタンダードなのかもしれない。
だが、詩織にはそんなことどうでもよく、ささやかに賑わう社寺には目もくれずに歩く。マスクから漏れ出た吐息は相も変わらず白かった。
コンビニに入ると、必要なモノを買い漁り、そのまま店を後にした。
元日も五村は眠らない。ストリートにはカップルやチンピラ、友達連れが闊歩している。
「すいません」
老年の男性の声が詩織を呼び止める。
「何ですか?」詩織はいう。
相手の男性は七〇代後半くらいで、白髪にやや禿げ上がった頭が特徴的だった。パジャマ姿で、背は中背、元気そうな印象。
「どうしたのぉ?」
詩織の声が朗らかになる。詩織が霊に接する時のクセだ。そう、男性は浮遊霊だった。見た目的にはパジャマである以外は、外傷等どこも可笑しなところはない。
だが、彼からは線香のにおいが漂っていた。そう、まだ死んでさほど時間が経っていないということだ。
「あぁ、いえ、実は道に迷ってしまいまして。もしよろしければーー」
男性がいうには、彼は初詣にいきたいとのことだった。男性の名前は『明石健二』。年齢は七八で、昨日肺炎で亡くなり、抜け殻となった肉体は現在自宅で眠っているとのことだった。
「そうだったんだ」
「はい。恥ずかしながらたった一日を堪えきれず、この世を去ることとなってしまいました」
「ううん、何も恥ずかしくないよ。お疲れさまでした。それと初詣って?」
「はい。自分としては、やはりこの一年をまっとうして死にたかった。でも、それも叶わず。とはいえ例え死んで霊魂になっても、最後に初詣にいって天寿をまっとうしたいのです」
「そうなんだ……、わかった! じゃあ、いこっか!」
「ありがとうございます」
健二は深々とお辞儀をした。
ふたりは冷たいストリートを歩いた。健二の足は裸足だ。とはいえ、霊ということもあって冷たさも感じることはないだろう。だがーー
「足、冷たくない?」
詩織は訊ねた。仮に相手が幽霊で、そういったことを感じないとわかっていようとも、詩織は霊に対する配慮を忘れない。健二は照れ臭そうに頭をボリボリ掻きながら、
「いやはや、恐縮です。ですが、大丈夫です。不思議と寒くも冷たくもないのですよ」
「そっか、ならよかった。そういえば、初詣ったことは五村神社でいいの?」
「えぇ、大丈夫です」
詩織は気兼ねなく了承した。五村神社は、五村市駅近辺にある神社で、元日には毎年たくさんの来訪者がある。
詩織は健二とともに歩きながら色々なことを話した。家族のことから仕事のことまで。奥さんはまだご存命で、五〇代の息子がふたりいるとのことだった。定年前までは工場勤務で、自動車製作の指揮をとっていたとのことだった。
「そうだったんだね」
「はい、ですが、技術は日々進化しています。わたしのような者がやっていたことなど、もう過去の話ですよ」
「……確かに、技術は変化していくだろうけど、アナタのやっていたことは無駄じゃない。アナタたちがやって来た実績が積み重なって今の技術があるのだから、そこまで自分のことを卑下することもないんじゃないかなぁ?」
「……ありがとうございます」
ふたりは五村神社まで歩いた。人影も疎らな中、ふたりで歩く様はまるで孫と祖父のよう。だが、ストリートをゆく者たちには、健二の姿は映らない。
五村神社には二〇分程度で着いた。
五村神社には、それなりの人だかり。いくら自粛要請があろうと、それを気にしない人は少なくないのだろう。賽銭箱へと続く道には長い行列ができている。
「じゃあ、並ぼうか」
健二は屈託のない笑顔を浮かべ頷いた。それからふたりは長い長い行列の最後尾に並んだ。
詩織は小銭入れから五〇円玉を二枚取り出した。
「二枚、ですか?」健二はいった。
「うん、ふたり分のお賽銭だからね」
健二の顔に照れが浮かぶ。
「申し訳ありません」
「ううん、全然大丈夫だよ」
行列は長かった。結局、ふたりが賽銭箱まで辿り着いたのは、並び始めて十五分後のことだった。ふたりは賽銭箱に五〇円玉を二枚入れて神社を後にした。
「ありがとうございました」
帰りの道中、健二はいった。
「ううん、いいんだよーー」
詩織の視線が健二のほうへ向いた時には、健二はもうそこにいなかった。きっとこの世への未練がなくなったのだろう。
寂れたストリートに冷たい風が吹く。ひとり取り残された詩織の目に微かな光が宿った。
「ただいま」
詩織が帰宅した頃には、時間も二時を過ぎていた。玄関扉を開けると祐太朗がやって来て、
「随分とゆっくりだったな」
「うん、ちょっと色々あってね」
「色々?」
祐太朗がそう訊ねるも、詩織はそれについて答えようとはせず、ただ意味深な笑みを浮かべてはぐらかすばかりだった。
「何だよ、気になるな」
「そんなことより、ユウくんーー」
満面の笑みを浮かべる詩織に、不思議そうにしている祐太朗。対称的なふたり。
「明けましておめでとう。今年もよろしくね」
数時間後には陽が昇る。
子供の頃、何度も考えたことだった。だが、そんなことにも今は興味を示すこともない。今の詩織が興味あることといえば、美味しいクッキーの作る方法だけだった。
赤く熱せられたオーブンにいくつかのクッキーが載っている。詩織はそれらとひたすらにらめっこをしていた。
完成ーー試しに味見をしてみる。
ダメ。
全然ダメーー詩織の顔にはそう書いてあった。年越しといったら蕎麦が定番だが、それならとっくに食べきってしまった。
ただ、唐突にクッキーが食べたくなり、年が明ける前に準備を始め、気づけば新年を迎えてしまっていた。
執念深く手を加えるも、中々美味しくならない。材料の配分を間違っているのだろうか。
「まだやってんのか」ソファに寝転がった祐太朗がいう。「もう明日にしたらどうだ?」
詩織は拒否した。一度何かに夢中になると、自分が納得するまで続けたがるのが、詩織のいいクセであり、悪いクセでもあった。
「ちょっと……、一枚貰えるか?」
そういって祐太朗はキッチンまでいってクッキーを一枚取り上げ食べた。それに関して詩織は特に何もいわなかった。咀嚼音。クッキーを噛み砕くボリボリという音が室内に響く。
「うん、美味いんじゃないか?」
祐太朗はそういうも詩織はどうも納得のいっていない様子だった。が、詩織は唐突に寝室に入ったかと思うと、少ししてダウンジャケットを着て部屋から出て来た。
「どこ行くんだよ?」祐太朗は訊ねた。
「材料買ってくる」
詩織は祐太朗のことなどほぼノールックだった。が、祐太朗も流石に詩織を引き止めて、
「明日にしろよ」
「いや。今日やる」
そういって祐太朗の手を振りほどくと、そのまま部屋を出ていってしまった。
外の寒さが皮膚に染み入る夜のストリートからは、何のお囃子も聴こえない。今年は初詣も自粛ムードなのだろう。しっぽりとお参りし、しっぽりと去る。それがウイルスが蔓延した後のスタンダードなのかもしれない。
だが、詩織にはそんなことどうでもよく、ささやかに賑わう社寺には目もくれずに歩く。マスクから漏れ出た吐息は相も変わらず白かった。
コンビニに入ると、必要なモノを買い漁り、そのまま店を後にした。
元日も五村は眠らない。ストリートにはカップルやチンピラ、友達連れが闊歩している。
「すいません」
老年の男性の声が詩織を呼び止める。
「何ですか?」詩織はいう。
相手の男性は七〇代後半くらいで、白髪にやや禿げ上がった頭が特徴的だった。パジャマ姿で、背は中背、元気そうな印象。
「どうしたのぉ?」
詩織の声が朗らかになる。詩織が霊に接する時のクセだ。そう、男性は浮遊霊だった。見た目的にはパジャマである以外は、外傷等どこも可笑しなところはない。
だが、彼からは線香のにおいが漂っていた。そう、まだ死んでさほど時間が経っていないということだ。
「あぁ、いえ、実は道に迷ってしまいまして。もしよろしければーー」
男性がいうには、彼は初詣にいきたいとのことだった。男性の名前は『明石健二』。年齢は七八で、昨日肺炎で亡くなり、抜け殻となった肉体は現在自宅で眠っているとのことだった。
「そうだったんだ」
「はい。恥ずかしながらたった一日を堪えきれず、この世を去ることとなってしまいました」
「ううん、何も恥ずかしくないよ。お疲れさまでした。それと初詣って?」
「はい。自分としては、やはりこの一年をまっとうして死にたかった。でも、それも叶わず。とはいえ例え死んで霊魂になっても、最後に初詣にいって天寿をまっとうしたいのです」
「そうなんだ……、わかった! じゃあ、いこっか!」
「ありがとうございます」
健二は深々とお辞儀をした。
ふたりは冷たいストリートを歩いた。健二の足は裸足だ。とはいえ、霊ということもあって冷たさも感じることはないだろう。だがーー
「足、冷たくない?」
詩織は訊ねた。仮に相手が幽霊で、そういったことを感じないとわかっていようとも、詩織は霊に対する配慮を忘れない。健二は照れ臭そうに頭をボリボリ掻きながら、
「いやはや、恐縮です。ですが、大丈夫です。不思議と寒くも冷たくもないのですよ」
「そっか、ならよかった。そういえば、初詣ったことは五村神社でいいの?」
「えぇ、大丈夫です」
詩織は気兼ねなく了承した。五村神社は、五村市駅近辺にある神社で、元日には毎年たくさんの来訪者がある。
詩織は健二とともに歩きながら色々なことを話した。家族のことから仕事のことまで。奥さんはまだご存命で、五〇代の息子がふたりいるとのことだった。定年前までは工場勤務で、自動車製作の指揮をとっていたとのことだった。
「そうだったんだね」
「はい、ですが、技術は日々進化しています。わたしのような者がやっていたことなど、もう過去の話ですよ」
「……確かに、技術は変化していくだろうけど、アナタのやっていたことは無駄じゃない。アナタたちがやって来た実績が積み重なって今の技術があるのだから、そこまで自分のことを卑下することもないんじゃないかなぁ?」
「……ありがとうございます」
ふたりは五村神社まで歩いた。人影も疎らな中、ふたりで歩く様はまるで孫と祖父のよう。だが、ストリートをゆく者たちには、健二の姿は映らない。
五村神社には二〇分程度で着いた。
五村神社には、それなりの人だかり。いくら自粛要請があろうと、それを気にしない人は少なくないのだろう。賽銭箱へと続く道には長い行列ができている。
「じゃあ、並ぼうか」
健二は屈託のない笑顔を浮かべ頷いた。それからふたりは長い長い行列の最後尾に並んだ。
詩織は小銭入れから五〇円玉を二枚取り出した。
「二枚、ですか?」健二はいった。
「うん、ふたり分のお賽銭だからね」
健二の顔に照れが浮かぶ。
「申し訳ありません」
「ううん、全然大丈夫だよ」
行列は長かった。結局、ふたりが賽銭箱まで辿り着いたのは、並び始めて十五分後のことだった。ふたりは賽銭箱に五〇円玉を二枚入れて神社を後にした。
「ありがとうございました」
帰りの道中、健二はいった。
「ううん、いいんだよーー」
詩織の視線が健二のほうへ向いた時には、健二はもうそこにいなかった。きっとこの世への未練がなくなったのだろう。
寂れたストリートに冷たい風が吹く。ひとり取り残された詩織の目に微かな光が宿った。
「ただいま」
詩織が帰宅した頃には、時間も二時を過ぎていた。玄関扉を開けると祐太朗がやって来て、
「随分とゆっくりだったな」
「うん、ちょっと色々あってね」
「色々?」
祐太朗がそう訊ねるも、詩織はそれについて答えようとはせず、ただ意味深な笑みを浮かべてはぐらかすばかりだった。
「何だよ、気になるな」
「そんなことより、ユウくんーー」
満面の笑みを浮かべる詩織に、不思議そうにしている祐太朗。対称的なふたり。
「明けましておめでとう。今年もよろしくね」
数時間後には陽が昇る。