【西陽の当たる地獄花~弐拾弐~】
文字数 2,241文字
幾多の腕や脚、頭が転がっている。
これらすべては牛馬のモノであったが、当の牛馬の身体は無数の切り傷を作りながらも、その部位はすべて健在している。
袴は依然として無事ではあったが、上の着物は破れ、牛馬のキズだらけの肉体が露になっている。元々、顔の左上から右下に掛けて切り傷があった牛馬ではあったが、その切り傷も、気づけば右上から左下に掛けて、また左目を縦に裂くようなキズが増えていた。
牛馬の左瞼は開かなくなっていた。当然、その光も失われていた。
腰から提げている『神殺』は依然としてキズひとつなく、乱れた刃紋は今にも人の持つ潜在的な殺意を呼び起こさせてしまいそうなほど美しく、刀身からは妖しい光を放ち続けている。
荒く息を吐く牛馬ーー片膝を地面につき、今にも尽きそうな体力の消耗を抑えようとしている。牛馬の対面にて立ち尽くしているのは、猿田源之助ーーもとい、牛馬の潜在的な恐怖が生み出した幻影である『ゲンノスケ』だ。
ゲンノスケには何処にも傷跡がない。着物も皮膚も、これといって裂けたところはなく、キズだらけの牛馬とは雲泥の差だ。
「その程度か?」
ゲンノスケが感情の籠らない、非情な声色を以ていう。牛馬は今にも力尽きそうといった調子にも関わらず、ニヤリと笑って見せ、
「調子こくんじゃねぇ……、時間も身体の部位もいくらでもあるんだ。焦らねぇでおれの遊び相手になれよ……ッ!」
牛馬は立ち上がりながら、二尺八寸もある『神殺』を瞬時に抜刀すると同時に斬り上げの形を以て左から右に掛けて、袈裟懸けにゲンノスケを斬りつけようとする。
が、ゲンノスケはそれに合わせて、右に身を引きながら袈裟懸けに抜刀し、自らを斬りつけようとする牛馬の『神殺』の一撃を、牛馬の右手首ごと叩き落としてしまう。
『神殺』ごと地面に落ちる右手首。牛馬は両膝を地面に付き、左手で斬り落とされた右手首を押さえつける。だが、斬り落とされたはずの右手首もいつの間にか再生している。とはいえ、手首を斬り落とされた苦痛はあるようで、痛みは牛馬の顔を激しく歪めさせる。
「……まるで、極楽だぜ」牛馬が不敵な笑みを浮かべる。「最高だな、痛いってのは。自分が生きてるって実感出来る」
「残念ながら貴殿はとっくの昔に死んでいる。その痛みは咎人だけが受ける苦痛でしかない」
「だからこそいいんじゃねぇか……」牛馬の顔中に脂汗が張り付く。「何も感じねぇ、苦痛もねぇ、そんなん生きてるっていえんのか? 人間、苦痛が伴うからこそ生きてんだ。悩ましいからこそ生きてんだ。痛みと煩悩のない生なんて、死んだも同然だぜ……」
ゲンノスケは呆れたようにいうーー
「だから貴殿は……」
「死んでいる、っていいてぇんだろ?」ゲンノスケのことばを遮る牛馬。「確かにそうかもしれねぇ。あっちの世界からしたら、おれはただの死人でしかねぇ……。でもよ、おれは、今、この何もねぇ暗闇の中で、彼岸の世界で紛れもなく『生きている』んだ……。おれだけの生、おれだけの死、それらをテメエみてぇな存在しもしねぇ幻影に決めつけられて堪るか」
牛馬は再生した右手の指を何度か開閉させると、痛みに堪えながらゆっくりと今さっき斬り落とされた、『神殺』を握り締めた手首を拾い上げ、切れた右手首に左手を掛けたかと思うと、切れた右手首を引き剥がし、『神殺』を再生した右手でしっかりと握り締める。
「……確かに恐れることも感情であって、感情こそが人に与えられた生命の証なのかもしれない。でもなーー」
切れた手首の皮膚を歯で噛む牛馬。
「テメエが、おれのこころに巣食っている『恐怖心』だと? 冗談じゃねぇな。テメエみてぇな下らねぇ恐怖心なんか、おれがすべて食い潰してやるぜ……」
そして、牛馬は噛んだ、切れた右手首の皮膚を思い切り噛み千切る。ブチッ、と音を立てて千切れる皮膚。そして、千切った皮膚を口に含んで咀嚼し、余った切れた右手首を自身の左脇へと乱暴に投げ捨てる。
ゴトンッと音を立てて転がる右手首。クシャクシャという牛馬の咀嚼音。そして、咀嚼した皮膚を飲み込むゴクリという音。
ゲンノスケは明らかに不快感を抱いているように表情を歪めて見せる。その様を見ていた牛馬がケタケタと笑って見せる。そのケタケタとした笑い声はいつしか高笑いへと変わり、闇に包まれた青天井に響いて消えていく。
「……何が可笑しい?」
ゲンノスケが訊ねると、牛馬は少しずつ笑い声を引っ込めてゲンノスケをまっすぐに見、
「何だ、そのツラァ? テメエ、おれの恐怖心とかいっておいて、おれの存在そのモノに不快感を抱いてんじゃねぇか。ハッキリいってやるよ。おれがテメエを恐れてんじゃねぇ、テメエがおれを恐れてんだよ」
「わたしが、貴殿を、恐れている?」
「そうさ。じゃなきゃ、そんな風にイヤそうな顔なんかしねぇよ。そうだ、おれが恐怖心におののいてんじゃねぇ、恐怖心がおれにおののいているんだ。幻影ごときが。何が、『ゲンノスケ』だ。あの程度で不快感を抱くテメエじゃ、猿田源之助の足許にも及ばねぇよ」
牛馬は今度は暗闇を吹き飛ばさんほどのバカ笑いをして見せる。暗闇の中で、牛馬のバカ笑いがこだまする。こだまがこだまを呼び、共鳴し、幾多の笑い声が織り成されているようになる。ゲンノスケの顔から感情が消える。
「さて……」牛馬は顔の前で『神殺』を水平にして掲げると、血塗れの舌で刀身を舐めて見せる。「偽物の恐怖心には死んで貰うぜ……」
【続く】
これらすべては牛馬のモノであったが、当の牛馬の身体は無数の切り傷を作りながらも、その部位はすべて健在している。
袴は依然として無事ではあったが、上の着物は破れ、牛馬のキズだらけの肉体が露になっている。元々、顔の左上から右下に掛けて切り傷があった牛馬ではあったが、その切り傷も、気づけば右上から左下に掛けて、また左目を縦に裂くようなキズが増えていた。
牛馬の左瞼は開かなくなっていた。当然、その光も失われていた。
腰から提げている『神殺』は依然としてキズひとつなく、乱れた刃紋は今にも人の持つ潜在的な殺意を呼び起こさせてしまいそうなほど美しく、刀身からは妖しい光を放ち続けている。
荒く息を吐く牛馬ーー片膝を地面につき、今にも尽きそうな体力の消耗を抑えようとしている。牛馬の対面にて立ち尽くしているのは、猿田源之助ーーもとい、牛馬の潜在的な恐怖が生み出した幻影である『ゲンノスケ』だ。
ゲンノスケには何処にも傷跡がない。着物も皮膚も、これといって裂けたところはなく、キズだらけの牛馬とは雲泥の差だ。
「その程度か?」
ゲンノスケが感情の籠らない、非情な声色を以ていう。牛馬は今にも力尽きそうといった調子にも関わらず、ニヤリと笑って見せ、
「調子こくんじゃねぇ……、時間も身体の部位もいくらでもあるんだ。焦らねぇでおれの遊び相手になれよ……ッ!」
牛馬は立ち上がりながら、二尺八寸もある『神殺』を瞬時に抜刀すると同時に斬り上げの形を以て左から右に掛けて、袈裟懸けにゲンノスケを斬りつけようとする。
が、ゲンノスケはそれに合わせて、右に身を引きながら袈裟懸けに抜刀し、自らを斬りつけようとする牛馬の『神殺』の一撃を、牛馬の右手首ごと叩き落としてしまう。
『神殺』ごと地面に落ちる右手首。牛馬は両膝を地面に付き、左手で斬り落とされた右手首を押さえつける。だが、斬り落とされたはずの右手首もいつの間にか再生している。とはいえ、手首を斬り落とされた苦痛はあるようで、痛みは牛馬の顔を激しく歪めさせる。
「……まるで、極楽だぜ」牛馬が不敵な笑みを浮かべる。「最高だな、痛いってのは。自分が生きてるって実感出来る」
「残念ながら貴殿はとっくの昔に死んでいる。その痛みは咎人だけが受ける苦痛でしかない」
「だからこそいいんじゃねぇか……」牛馬の顔中に脂汗が張り付く。「何も感じねぇ、苦痛もねぇ、そんなん生きてるっていえんのか? 人間、苦痛が伴うからこそ生きてんだ。悩ましいからこそ生きてんだ。痛みと煩悩のない生なんて、死んだも同然だぜ……」
ゲンノスケは呆れたようにいうーー
「だから貴殿は……」
「死んでいる、っていいてぇんだろ?」ゲンノスケのことばを遮る牛馬。「確かにそうかもしれねぇ。あっちの世界からしたら、おれはただの死人でしかねぇ……。でもよ、おれは、今、この何もねぇ暗闇の中で、彼岸の世界で紛れもなく『生きている』んだ……。おれだけの生、おれだけの死、それらをテメエみてぇな存在しもしねぇ幻影に決めつけられて堪るか」
牛馬は再生した右手の指を何度か開閉させると、痛みに堪えながらゆっくりと今さっき斬り落とされた、『神殺』を握り締めた手首を拾い上げ、切れた右手首に左手を掛けたかと思うと、切れた右手首を引き剥がし、『神殺』を再生した右手でしっかりと握り締める。
「……確かに恐れることも感情であって、感情こそが人に与えられた生命の証なのかもしれない。でもなーー」
切れた手首の皮膚を歯で噛む牛馬。
「テメエが、おれのこころに巣食っている『恐怖心』だと? 冗談じゃねぇな。テメエみてぇな下らねぇ恐怖心なんか、おれがすべて食い潰してやるぜ……」
そして、牛馬は噛んだ、切れた右手首の皮膚を思い切り噛み千切る。ブチッ、と音を立てて千切れる皮膚。そして、千切った皮膚を口に含んで咀嚼し、余った切れた右手首を自身の左脇へと乱暴に投げ捨てる。
ゴトンッと音を立てて転がる右手首。クシャクシャという牛馬の咀嚼音。そして、咀嚼した皮膚を飲み込むゴクリという音。
ゲンノスケは明らかに不快感を抱いているように表情を歪めて見せる。その様を見ていた牛馬がケタケタと笑って見せる。そのケタケタとした笑い声はいつしか高笑いへと変わり、闇に包まれた青天井に響いて消えていく。
「……何が可笑しい?」
ゲンノスケが訊ねると、牛馬は少しずつ笑い声を引っ込めてゲンノスケをまっすぐに見、
「何だ、そのツラァ? テメエ、おれの恐怖心とかいっておいて、おれの存在そのモノに不快感を抱いてんじゃねぇか。ハッキリいってやるよ。おれがテメエを恐れてんじゃねぇ、テメエがおれを恐れてんだよ」
「わたしが、貴殿を、恐れている?」
「そうさ。じゃなきゃ、そんな風にイヤそうな顔なんかしねぇよ。そうだ、おれが恐怖心におののいてんじゃねぇ、恐怖心がおれにおののいているんだ。幻影ごときが。何が、『ゲンノスケ』だ。あの程度で不快感を抱くテメエじゃ、猿田源之助の足許にも及ばねぇよ」
牛馬は今度は暗闇を吹き飛ばさんほどのバカ笑いをして見せる。暗闇の中で、牛馬のバカ笑いがこだまする。こだまがこだまを呼び、共鳴し、幾多の笑い声が織り成されているようになる。ゲンノスケの顔から感情が消える。
「さて……」牛馬は顔の前で『神殺』を水平にして掲げると、血塗れの舌で刀身を舐めて見せる。「偽物の恐怖心には死んで貰うぜ……」
【続く】