【帝王霊~捌拾漆~】
文字数 1,119文字
朝の空気は何処までも澄み渡っていて、しかも冷たかった。
だからこそ、冬場の朝は本当に嫌いだった。日曜の朝、多くの人たちがまだ布団の中で冬眠している時間に、おれは川澄の武道館にて道着姿で足踏みをしていた。居合の稽古。柔道場での稽古なら畳の上ということもあってまだいいのだが、剣道場では木目の床がまるで氷のように冷たくなっていて足袋をはかないとまともに立ってもいられない。
足袋は嫌いだった。地下足袋ならまだしも、普通の足袋だと滑ってケガの元にもなりかねないし、かつ、パフォーマンスの感覚も変わってしまうこともあって、足袋ははかないと決めていた。
だが、やはり冷たいモノは冷たかった。いつも一緒に稽古をしている六十代半ばの人、同期入門の12歳年上の方と足踏みをしながら笑顔で季節的な要因に文句をいっていた。
「山田くん」
おれを呼んだのは師匠だった。マイルドで優しさが滲み出ている声。聴くだけで安心する。と、師匠のとなりには背が高めの女性が立っていた。
茶色の髪は肩に掛からないショート気味。目は大きく若干つり上がっていた。眉はやや細目で口は大きめで唇は厚かった。胸はーー本人には当然いえないがーーやや小さめで手足は長い。薄桃色のシャツに黒のジャージ姿はやけに着こなされているような印象で、ルックスから見てもきっと運動能力も高いのだろうと思った。オマケに体験、見学者にありがちなオドオドした感じもなく、自信満々な立ち姿からは独特な存在感を感じた。
「こちら、体験の長谷川八重さん。ぼくは今日は試験の方の指導をしますので、山田くんは長谷川さんを教えて頂けませんか?」
おれは即座に、はいと答えた。そもそも断る理由などないし、シンプルにこのような感じの人が居合か、というのも興味があった。おれはこの時、既に四段で、この年は修練期間ということで昇段の資格が与えられていなかった。そんなこともあって、この時期、おれはいずれ来る指導者としての予行として、人に指導する機会が多くなっていた。
「長谷川です! よろしくお願いします!」
高い声。今まで会った比較的長身の女性は声の低い人が多かっただけにちょっと意外だった。元気でしかも愛想もいい。年齢的には多分同い年くらいだろうか。いい意味で大人の雰囲気が漂っていた。
これがヤエ先生とのファーストコンタクトだった。
各種儀礼を行い、早速マンツーマンでの稽古に入った。とはいえ、おれは完全な素人を教えることは、実は初めてだった。まぁ、取り敢えずは基本から、ということで始めて行くことにした。
「それじゃあ、簡単に説明していきましょうか」
師匠から借りた刀を大事そうに抱えて、ヤエ先生は満面の笑みで頷いた。
【続く】
だからこそ、冬場の朝は本当に嫌いだった。日曜の朝、多くの人たちがまだ布団の中で冬眠している時間に、おれは川澄の武道館にて道着姿で足踏みをしていた。居合の稽古。柔道場での稽古なら畳の上ということもあってまだいいのだが、剣道場では木目の床がまるで氷のように冷たくなっていて足袋をはかないとまともに立ってもいられない。
足袋は嫌いだった。地下足袋ならまだしも、普通の足袋だと滑ってケガの元にもなりかねないし、かつ、パフォーマンスの感覚も変わってしまうこともあって、足袋ははかないと決めていた。
だが、やはり冷たいモノは冷たかった。いつも一緒に稽古をしている六十代半ばの人、同期入門の12歳年上の方と足踏みをしながら笑顔で季節的な要因に文句をいっていた。
「山田くん」
おれを呼んだのは師匠だった。マイルドで優しさが滲み出ている声。聴くだけで安心する。と、師匠のとなりには背が高めの女性が立っていた。
茶色の髪は肩に掛からないショート気味。目は大きく若干つり上がっていた。眉はやや細目で口は大きめで唇は厚かった。胸はーー本人には当然いえないがーーやや小さめで手足は長い。薄桃色のシャツに黒のジャージ姿はやけに着こなされているような印象で、ルックスから見てもきっと運動能力も高いのだろうと思った。オマケに体験、見学者にありがちなオドオドした感じもなく、自信満々な立ち姿からは独特な存在感を感じた。
「こちら、体験の長谷川八重さん。ぼくは今日は試験の方の指導をしますので、山田くんは長谷川さんを教えて頂けませんか?」
おれは即座に、はいと答えた。そもそも断る理由などないし、シンプルにこのような感じの人が居合か、というのも興味があった。おれはこの時、既に四段で、この年は修練期間ということで昇段の資格が与えられていなかった。そんなこともあって、この時期、おれはいずれ来る指導者としての予行として、人に指導する機会が多くなっていた。
「長谷川です! よろしくお願いします!」
高い声。今まで会った比較的長身の女性は声の低い人が多かっただけにちょっと意外だった。元気でしかも愛想もいい。年齢的には多分同い年くらいだろうか。いい意味で大人の雰囲気が漂っていた。
これがヤエ先生とのファーストコンタクトだった。
各種儀礼を行い、早速マンツーマンでの稽古に入った。とはいえ、おれは完全な素人を教えることは、実は初めてだった。まぁ、取り敢えずは基本から、ということで始めて行くことにした。
「それじゃあ、簡単に説明していきましょうか」
師匠から借りた刀を大事そうに抱えて、ヤエ先生は満面の笑みで頷いた。
【続く】