【冷たい墓石で鬼は泣く~拾壱~】
文字数 2,440文字
紅葉が辺りを真っ赤に染める季節となった。
わたしは相も変わらず、何をやっても中堅程度の腕前でしかなかった。頭もいいワケでもなく、剣術も大したことがない。
馬乃助の一件以降、道場には居づらくなってしまったが、わたしと馬乃助では、その人間性も能力も違う。それに家柄も違ったこともあって、特段面倒な弊害を受けることはなかった。
とはいえ、学問も剣術も、その厳しさが変わることはまったくなかった。学問所ではまだ馬乃助もいて、その能力を密かに比べられていたし、剣術道場でも、その腕前の違いを陰で鼻で笑われたりしたのもよく覚えている。
そんな中、身体に打撲キズを作る武士が道場だけでなく、町中で多くなった。その理由は、夜になると町の何処かに現れる辻斬りによって打ち負かされた結果なのだという。
辻斬りなのに斬り殺されていないとは、と疑問も残るが、多分、命は取らずに銭だけを盗む夜盗の類いだろうと巷ではウワサされていた。
それから二年ほど経った。
わたしも馬乃助も二十歳になろうとしていた。と、その頃にもなると、流石のわたしにも結納の話が出て来始めた。相手は香取のほうの旗本のお嬢さんとのことだった。
が、わたしはどうも気が進まず、日々をボンヤリと過ごしていた。というのも、わたしには他に好きな女がいたのだ。
それは町の茶屋娘である『おはる』ちゃんだった。
おはるちゃんは非常に魅力的な娘だった。客に対する当たりというのはいうまでもないし、それがステキなのはある意味当然ではあったが、そんな彼女の立ち振舞いの端々からは、確かに彼女の人柄の良さが出ていた。
だが、わたしに出来ることなど、遠目から彼女のことを見つめることに過ぎなかった。
それはわたしと彼女では身分が違いすぎるということが一番の原因だった。
この身分の違いというのが、何よりも重かった。わたしはおはるちゃんが好きだ。だが、その果てに、父がわたしとおはるちゃんの婚姻を認めてくれるはずがなかった。何故なら、わたしと彼女では身分が違うから。
士族という、ある種の特権的な身分であるにも関わらず、そこには自由がない。あるのはうわべばかりの権威と腰からぶら下がる身分を表すだけの刀だけ。そこには何もなかった。
わたしは何度も彼女のことを諦めようと思った。だが、諦めはどうしてもつかなかった。
もう彼女とは会うまい。そうは思いつつも、わたしは暇があれば彼女の働く茶屋へと赴いてしまうのだ。
そしてまた、彼女に会いに茶屋へ行く。
茶屋に入って、団子と茶のひとつでも頼んでも、彼女はまばゆい笑みを浮かべてくれるというのに、その先にはことばはない。わたしにも、その先のことばを掛ける勇気はなかった。緊張が、わたしからことばを奪い、平静を奪っていったのだ。
わたしは学もなければ剣の腕も大したことはない。こんなわたしを彼女が好いてくれるはずがない。いつしか、わたしのこころはどんどん内向きになっていった。士族の権威なんてモノはもはやそこにはなく、あるのは丸裸のわたしの弱いこころだけだった。
わたしはそうして彼女にまた茶と団子を頼んだ。彼女は笑みを浮かべて奥へと下がって行った。わたしの身体は強張っていた。
そんな時、わたしのとなりに誰かが腰掛けた。
馬乃助だった。
下衆な笑みを浮かべてわたしのほうを見ている。わたしはそんな馬乃助のことを無視するように馬乃助から視線を逸らした。笑い声。
「お前、あの娘が好きなんだろ?」
馬之助のことばは何処までも核心をついていた。そこには遠慮なんてモノは欠片もなく、あるのはわたしに対する挑戦状のような鋭い一撃だけだった。
「何をいうか……」
わたしは咄嗟に否定した。だが、思ってもないことを口にすると、どうにも罪悪感がこころに生まれてしまう。恐らく、馬之助はそんなわたしの罪悪感を見て取ったに違いなかった。
「ほう、そういうモンかねぇ」
馬之助は何か確信めいた口調でいった。ことばの裏にはわたしをバカにする趣があった。
「貴様、滅多なことをいうなよ?」
「貴様だぁ? テメエはいつからおれにそんな口を利けるようになったんだよ」
馬之助の顔は非常に恐ろしかった。まるで、昔、わたしにくっついて回っていた時分に、わたしに貴様と呼ばれて遠ざかっていった頃のことを根に持っているようだった。
「……それは、わたしが兄だからだ」
「兄、だぁ? 弟より学問も剣術も出来ねぇ兄貴が偉そうな口叩くなよ」
尤もだった。わたしは馬之助のいうように「兄」という権威を抱いただけの存在でしかなかった。わたしはすべてにおいて馬之助よりも下。精々上回っていることといえば、長男としての、これからの待遇くらいだろう。だが、わたしはまだまだ若かったーー若造だった。
「うるさい! わたしにだってな、色々事情があるんだ。知ったような口を利くな!」
わたしはみっともなく声を荒げていた。町人たちの目が一挙に降り注ぐ。にしても、不思議な光景であったであろう。同じ顔がふたつ、口論しているというのだから。
カタッという音がした。
うしろを向くと、そこにはおはるちゃんが手を震わせて立っていた。馬之助は立ち上がり、おはるちゃんの前に立ちはだかると、
「何を見てんだ。あぁ? 文句あるのか」
震える彼女に、わたしはガマンが出来なくなった。
「やめろ! この子に何かしようモノなら……」
わたしは刀の柄に手を掛けた。だが、手は震えていた。刀で馬之助に勝てるワケがないとわかっていたからだ。だが、馬之助は、
「まぁ、そういうならここは引いてやる。寅三郎。後で覚えておけよ」
寅三郎、馬之助がその名を口にしたのはいつぶりだったろう。馬之助はそのまま茶屋から立ち去った。と、わたしは柄から手を外した。
「あ、ありがとうございます……!」
その声に振り返ると、おはるちゃんが頭を下げていた。わたしは、咄嗟にいった。
「あぁ……、あの、好きです!」
【続く】
わたしは相も変わらず、何をやっても中堅程度の腕前でしかなかった。頭もいいワケでもなく、剣術も大したことがない。
馬乃助の一件以降、道場には居づらくなってしまったが、わたしと馬乃助では、その人間性も能力も違う。それに家柄も違ったこともあって、特段面倒な弊害を受けることはなかった。
とはいえ、学問も剣術も、その厳しさが変わることはまったくなかった。学問所ではまだ馬乃助もいて、その能力を密かに比べられていたし、剣術道場でも、その腕前の違いを陰で鼻で笑われたりしたのもよく覚えている。
そんな中、身体に打撲キズを作る武士が道場だけでなく、町中で多くなった。その理由は、夜になると町の何処かに現れる辻斬りによって打ち負かされた結果なのだという。
辻斬りなのに斬り殺されていないとは、と疑問も残るが、多分、命は取らずに銭だけを盗む夜盗の類いだろうと巷ではウワサされていた。
それから二年ほど経った。
わたしも馬乃助も二十歳になろうとしていた。と、その頃にもなると、流石のわたしにも結納の話が出て来始めた。相手は香取のほうの旗本のお嬢さんとのことだった。
が、わたしはどうも気が進まず、日々をボンヤリと過ごしていた。というのも、わたしには他に好きな女がいたのだ。
それは町の茶屋娘である『おはる』ちゃんだった。
おはるちゃんは非常に魅力的な娘だった。客に対する当たりというのはいうまでもないし、それがステキなのはある意味当然ではあったが、そんな彼女の立ち振舞いの端々からは、確かに彼女の人柄の良さが出ていた。
だが、わたしに出来ることなど、遠目から彼女のことを見つめることに過ぎなかった。
それはわたしと彼女では身分が違いすぎるということが一番の原因だった。
この身分の違いというのが、何よりも重かった。わたしはおはるちゃんが好きだ。だが、その果てに、父がわたしとおはるちゃんの婚姻を認めてくれるはずがなかった。何故なら、わたしと彼女では身分が違うから。
士族という、ある種の特権的な身分であるにも関わらず、そこには自由がない。あるのはうわべばかりの権威と腰からぶら下がる身分を表すだけの刀だけ。そこには何もなかった。
わたしは何度も彼女のことを諦めようと思った。だが、諦めはどうしてもつかなかった。
もう彼女とは会うまい。そうは思いつつも、わたしは暇があれば彼女の働く茶屋へと赴いてしまうのだ。
そしてまた、彼女に会いに茶屋へ行く。
茶屋に入って、団子と茶のひとつでも頼んでも、彼女はまばゆい笑みを浮かべてくれるというのに、その先にはことばはない。わたしにも、その先のことばを掛ける勇気はなかった。緊張が、わたしからことばを奪い、平静を奪っていったのだ。
わたしは学もなければ剣の腕も大したことはない。こんなわたしを彼女が好いてくれるはずがない。いつしか、わたしのこころはどんどん内向きになっていった。士族の権威なんてモノはもはやそこにはなく、あるのは丸裸のわたしの弱いこころだけだった。
わたしはそうして彼女にまた茶と団子を頼んだ。彼女は笑みを浮かべて奥へと下がって行った。わたしの身体は強張っていた。
そんな時、わたしのとなりに誰かが腰掛けた。
馬乃助だった。
下衆な笑みを浮かべてわたしのほうを見ている。わたしはそんな馬乃助のことを無視するように馬乃助から視線を逸らした。笑い声。
「お前、あの娘が好きなんだろ?」
馬之助のことばは何処までも核心をついていた。そこには遠慮なんてモノは欠片もなく、あるのはわたしに対する挑戦状のような鋭い一撃だけだった。
「何をいうか……」
わたしは咄嗟に否定した。だが、思ってもないことを口にすると、どうにも罪悪感がこころに生まれてしまう。恐らく、馬之助はそんなわたしの罪悪感を見て取ったに違いなかった。
「ほう、そういうモンかねぇ」
馬之助は何か確信めいた口調でいった。ことばの裏にはわたしをバカにする趣があった。
「貴様、滅多なことをいうなよ?」
「貴様だぁ? テメエはいつからおれにそんな口を利けるようになったんだよ」
馬之助の顔は非常に恐ろしかった。まるで、昔、わたしにくっついて回っていた時分に、わたしに貴様と呼ばれて遠ざかっていった頃のことを根に持っているようだった。
「……それは、わたしが兄だからだ」
「兄、だぁ? 弟より学問も剣術も出来ねぇ兄貴が偉そうな口叩くなよ」
尤もだった。わたしは馬之助のいうように「兄」という権威を抱いただけの存在でしかなかった。わたしはすべてにおいて馬之助よりも下。精々上回っていることといえば、長男としての、これからの待遇くらいだろう。だが、わたしはまだまだ若かったーー若造だった。
「うるさい! わたしにだってな、色々事情があるんだ。知ったような口を利くな!」
わたしはみっともなく声を荒げていた。町人たちの目が一挙に降り注ぐ。にしても、不思議な光景であったであろう。同じ顔がふたつ、口論しているというのだから。
カタッという音がした。
うしろを向くと、そこにはおはるちゃんが手を震わせて立っていた。馬之助は立ち上がり、おはるちゃんの前に立ちはだかると、
「何を見てんだ。あぁ? 文句あるのか」
震える彼女に、わたしはガマンが出来なくなった。
「やめろ! この子に何かしようモノなら……」
わたしは刀の柄に手を掛けた。だが、手は震えていた。刀で馬之助に勝てるワケがないとわかっていたからだ。だが、馬之助は、
「まぁ、そういうならここは引いてやる。寅三郎。後で覚えておけよ」
寅三郎、馬之助がその名を口にしたのはいつぶりだったろう。馬之助はそのまま茶屋から立ち去った。と、わたしは柄から手を外した。
「あ、ありがとうございます……!」
その声に振り返ると、おはるちゃんが頭を下げていた。わたしは、咄嗟にいった。
「あぁ……、あの、好きです!」
【続く】