【藪医者放浪記~参拾参~】
文字数 1,245文字
屋敷の中は騒然としていた。
それも当たり前の話だろう。武田の御子息、藤十郎とその従者たちが現れたというのにも関わらず、いまだにお咲の君の声は戻ることなく、依然として何の問題も解決していないのだから。
これは屋敷の主人である松平天馬はもちろんのこと、女中のお羊、守山勘十郎、そして医者に間違われて半ば強制的に屋敷へと連れて来られた茂作はいうまでもない。
そんな中で泰然としているのがお咲の君。それも当たり前な話で、お咲としては話せないままのほうが都合がいいのだから。話が出来なければ藤十郎との縁談は進むこともなく破綻する。そうともなれば、お咲はすきでもない男と一緒になるまでもないのだから。
だが、そんなことともなれば、水戸武田家と川越松平の関係は悪化するのはいうまでもない。幕府直轄の直参旗本の両家の関係が拗れれば、それはそれで面倒だ。それに石高も武田家のほうが上。すなわち格上の武田家の逆鱗に触れれば、いくら直参とはいえ、松平家の評判はガタ落ち。御家取り潰しにもなりかねない。
ただ、不思議なのは格上であるはずの武田家子息、藤十郎がわざわざ川越まで出向き、縁談をするということである。本来ならば、格下である松平家から水戸武田家のほうへと出向かなければならないのだが、それも逆。
それに、それだけの御家の跡継ぎとなる子息が長い旅路をゆくのだから、それだけ多くの従者がつくことは想像に容易い。だが、そうはならなかった。
聞くところによれば、これらすべては武田家当主からの提案であるという。そして、その理由というのがーー
『折角だから、藤十郎やその従者たちに川越という街の素晴らしさを知って貰いたい。それに跡継ぎたる者、縁談を行う相手のお父上が居を構えている場所をよく知ることも大事なことであるのだから』
ということだった。いわれてみればそうかもしれないとも思えるが、結果として藤十郎たち一行は九十九街道に迷い込み、ヤクザたちに狙われるという散々な目に遭っている。そう考えると、武田家当主の思惑はむしろ悪いほうへと働いてしまったといえる。
しかし、九十九から難を逃れて松平邸に辿り着けたのは不幸中の幸い。少なくとも、大騒ぎはしているが、これといった難を伝えることばもないことを考えると、藤十郎が大きなケガを負っているワケではなさそうだった。
だが、ことはそう穏やかにはいかない。そもそもが、九十九での出来事が発端となって縁談はなし、それどころか松平邸ひいては川越という国の評判をも貶めることとなりかねない。そうともなればーー
「あぁ、うるさいねぇ」その場の空気を引き裂くように、お涼はいった。「ウダウダいってないでさっさとしたらどうなの!」
まったく自分が今回の騒動の発端のひとりとなったことなど、まったく考えていないモノいいだった。茂作は苛立ちながら、お涼のほうを向いた。
が、突然目を丸くすると、お涼とお咲の君を交互に見、そしていったーー
「これだッ!」
周りの視線が茂作に集まった。
【続く】
それも当たり前の話だろう。武田の御子息、藤十郎とその従者たちが現れたというのにも関わらず、いまだにお咲の君の声は戻ることなく、依然として何の問題も解決していないのだから。
これは屋敷の主人である松平天馬はもちろんのこと、女中のお羊、守山勘十郎、そして医者に間違われて半ば強制的に屋敷へと連れて来られた茂作はいうまでもない。
そんな中で泰然としているのがお咲の君。それも当たり前な話で、お咲としては話せないままのほうが都合がいいのだから。話が出来なければ藤十郎との縁談は進むこともなく破綻する。そうともなれば、お咲はすきでもない男と一緒になるまでもないのだから。
だが、そんなことともなれば、水戸武田家と川越松平の関係は悪化するのはいうまでもない。幕府直轄の直参旗本の両家の関係が拗れれば、それはそれで面倒だ。それに石高も武田家のほうが上。すなわち格上の武田家の逆鱗に触れれば、いくら直参とはいえ、松平家の評判はガタ落ち。御家取り潰しにもなりかねない。
ただ、不思議なのは格上であるはずの武田家子息、藤十郎がわざわざ川越まで出向き、縁談をするということである。本来ならば、格下である松平家から水戸武田家のほうへと出向かなければならないのだが、それも逆。
それに、それだけの御家の跡継ぎとなる子息が長い旅路をゆくのだから、それだけ多くの従者がつくことは想像に容易い。だが、そうはならなかった。
聞くところによれば、これらすべては武田家当主からの提案であるという。そして、その理由というのがーー
『折角だから、藤十郎やその従者たちに川越という街の素晴らしさを知って貰いたい。それに跡継ぎたる者、縁談を行う相手のお父上が居を構えている場所をよく知ることも大事なことであるのだから』
ということだった。いわれてみればそうかもしれないとも思えるが、結果として藤十郎たち一行は九十九街道に迷い込み、ヤクザたちに狙われるという散々な目に遭っている。そう考えると、武田家当主の思惑はむしろ悪いほうへと働いてしまったといえる。
しかし、九十九から難を逃れて松平邸に辿り着けたのは不幸中の幸い。少なくとも、大騒ぎはしているが、これといった難を伝えることばもないことを考えると、藤十郎が大きなケガを負っているワケではなさそうだった。
だが、ことはそう穏やかにはいかない。そもそもが、九十九での出来事が発端となって縁談はなし、それどころか松平邸ひいては川越という国の評判をも貶めることとなりかねない。そうともなればーー
「あぁ、うるさいねぇ」その場の空気を引き裂くように、お涼はいった。「ウダウダいってないでさっさとしたらどうなの!」
まったく自分が今回の騒動の発端のひとりとなったことなど、まったく考えていないモノいいだった。茂作は苛立ちながら、お涼のほうを向いた。
が、突然目を丸くすると、お涼とお咲の君を交互に見、そしていったーー
「これだッ!」
周りの視線が茂作に集まった。
【続く】