【いろは歌地獄旅~いい人、怖い人~】
文字数 4,011文字
白い息を吐いて、進藤信一郎は熱燗をいっこん呷った。冬の寒さに熱い酒は良く沁みる。
川越の街に出ているおでんの屋台は、進藤にとって仕事の疲れを癒す憩いの場となっていた。若い頃に授けられた同心用の黒い羽織も、今ではその色味も薄くなり、褪せている。
進藤は代官所同心だ。年齢はもう六十を超えているが、本人に隠居するつもりはなく、まだまだ仕事を頑張りたいと意気込んでいた。
勿論、女房とふたりの息子からは、もう充分働いたし、仕事内容も安心安全なモノでもないこともあって、早く隠居して欲しいともいわれていたが、進藤にとってはこの同心の仕事こそが何よりの誇りだった。
進藤は元々、江戸にある北町奉行所の同心であったが、幕府の直轄地である小江戸川越の役人の数の減少に伴って、数年前に奉行所からの命で川越の代官所へと赴任してきた。
とはいえ、進藤は同心として無能だとか、怠惰だとかそういうことは決してなかった。むしろ、勤勉で成績も良く、不正に汚職もないという同心としては優秀な部類に入っていた。
だが、進藤には致命的に上昇思考がなく、筆頭同心や与力といった役職には一切興味を示さず、常々出世を拒み続けて来た。
結果、進藤は優秀な同心であるにも関わらず、出世競争からは早々に脱落し、人員の補充も兼ねて川越へと送られた。
端から見れば落ちこぼれも同然で、事実、進藤が江戸から来た当時は、人間的に問題があって川越へと送られて来たとウワサされた。
が、時間と共にその優秀さと勤勉さは周囲に認められ、その優れた人格により上からも下からも親しまれ、今となっては代官所に不可欠な存在となっていた。
とはいえ、進藤自身、川越でのノンビリした生活は、本人の性格に良く合っていたようで、楽しくやれているようだった。
そんな進藤が何よりも優れていたのは、剣術の腕だった。神道無念流の免許皆伝で、経験も確かなモノだった。オマケに大東流の柔術も身につけていることもあって、仮に刀を失ったとしても、並みの相手であれば、素手で何とかなってしまうほどだった。
グツグツ煮えるおでんが、甘美な香りを伴った湯気を立てている。
「進藤さんは最近どうですかい?」
おでん屋のオヤジに訊ねられ、進藤は曖昧に近況を答える。
「これといってだねぇ。平和なモンだよ」
「でも、ここ最近、悪人ばかりが殺される事件がよく起きてるでしょう? アレとかはどういうことになっているんで?」
「あぁ。確かに、そのことに関しては代官所で色々といわれてるよ。『天誅屋』だっけ。代官所は天誅屋を探して捕らえるよういっているし、やっていることは確かに殺しで悪いことだけど、相手が相手だけにみんなそこまで詰めては追ってないね。天誅屋がいれば、自分たちの仕事も減って楽出来るからね」
「そうなんですな。で、進藤さんはどう思っているんですかい?」
「わたしは……」
「ふぅ、冷えるな」手を擦りながら暖簾を潜る男がひとり。「オヤジ、適当に見繕って」
「おや、猿田さんじゃないの。今日はどうしたんだい? 天馬様にメシを抜かれたのかい?」
「いや、食ったんだけど、腹に貯まんなくて。で、おでんでも食おうと思ってね」
猿田と呼ばれた男は進藤のとなりに腰掛ける。
「またまた。そんなに食ったら太るよ」
「太らんよ、育ち盛りだからね」
「何をいってんだか。アンタもう三十過ぎだろう? 育つのは腹だけだよ」
「はは、耳が痛いね」
猿田は、紺の着物に黒の袴、淡青色の柄巻が拵えられた刀を身につけており、髷は結っておらず、金属の髪留めで前髪からうしろへ撫で付けるという一風変わった風貌をしている。
「じゃ、ちょっと待ってておくれよ」
と、おでん屋のオヤジはおでんの状態を確かめ始める。
「松平様に仕えられているのですか?」進藤は猿田を不思議そうに眺める。
「いやいや、そんな大層なモンじゃないです」
「この人、松平様のところの居候なんだよ」おでん屋のオヤジが説明する。
「居候ねぇ」進藤は興味深そうにいう。「どういう経緯でそうなったのですか?」
自分は旅の者で、川越の町で行き倒れていたところを天馬殿に拾われた、と猿田は簡単に経緯を説明する。
「なるほど、松平様らしいですね」
「しかし、猿田さんも気をつけなよ? 最近、また『天誅屋』が出ているらしいじゃないか」
「え? あぁ、そうらしいね。でも『天誅屋』の連中は辻斬りとは違うらしいじゃない。無差別に人は殺さないんじゃない?」
「いや、わからんよ。ねぇ、進藤さん」
「え?……えぇ」進藤は酒を呷る。「確かに代官所は『天誅屋』を探そうと躍起になってるけど、わたしはそこまで気にしてないよ。少なくとも今のところは、ね。ただ、悪事を働けば、その時はその時というだけで」
「悪事も何も、現に人を殺してるじゃない」
「それはそうだけど、相手はわたしのような一塊の同心じゃどうにも出来ない相手だからね。そういった相手の横暴を止めるには、そうするより他はないのかもしれないね」
「面白い考え方ですね」猿田はいう。
「いえいえ、長年ああいうところに勤めていると、見たくもない、知りたくもないことを色々と見聞きしてしまいましてね。自分が如何に強かろうが、結局は己が立場には勝てないとわかってしまうのです。だから、少しはそういうお伽噺のようなモノを信じてみたいと思いましてね。まぁ、年寄りの世迷いごとですが」
「進藤さん、ちょっとお疲れなんじゃないのかい? ほら、もう一杯つけるから、元気出しなさいよ」
「ありがとうございます」
「ほら、猿田さんも。お付き合いして」
「えぇ、ではーー」
その時、猿田の目が鋭くうしろへと光る。が、やや首を傾けたのみで、うしろを振り向くことはしない。
「どうかされました?」と進藤。
「……いえ、何でも」猿田は満面の笑みで答える。「そんなことより飲みましょう! えっと……、進藤さん!」
「えぇ、猿田さん」
それからというモノ、進藤、猿田は酒を酌み交わし、話に花を咲かせた。
横暴な態度の役人が多い中で、穏やかで物腰の柔らかい進藤と常識に縛られない猿田は不思議と意気投合し、互いの身の上から剣術のことまで、たくさんのことばを交わした。
一刻して、ふたりの酒席はお開きとなった。ふたりとも満足そうに屋台を後にし、その場にて別れた。またこの場で会えることを祈って。
帰り道、進藤は酒で酔っているにも関わらず、落ち着きのある歩調で歩いている。下級役人とはいえ武士は武士、その歩く様には一切のスキは見えない。
ふと進藤は立ち止まる。まぶたを半分瞑り、聞き耳を立てるようにして佇む。鈍い音。小さくて聞き逃してしまいそうだが、その音は確かに暗闇の中で蠢いていた。
「どうかされたんですか?」
進藤が訊ねると、暗闇の中から何者かが姿を現す。と、そこにいたのは、
猿田だった。
先ほどと何も変わらない服装。違う点といえば、酒に酔って真っ赤になった顔だろうか。
「いやぁ、申し訳ない。道を間違えてしまったようでして」
「隠さずともいいですよ。……いやぁ、まことにかたじけない」
進藤は猿田に軽く頭を下げる。
「いやいや、どうしたんですか? わたしは何もしておりませんが」
「隠さずとも大丈夫ですよ。アナタを捕らえようとは思っていませんから。気づいておられたんでしょう? 何者かがわたしの後をつけ回していた、と」
「……気づいてらっしゃいましたか」
「えぇ。さっき一緒に飲んでいる時、アナタ、一瞬とてつもない殺気を放ったでしょう。でも、それはその場にいるわたしやおでん屋のオヤジさんに向けられたモノではなく、うしろ。わたしたちの背後に向かっていた」
猿田は大きくため息をつく。
「隠しごとは出来ませんね。仰る通りです。はじめはわたしを狙っているモノとばかり思っていましたが、いざアナタと別れて探りを入れてみたら、どうも気配がない。とすると、狙われているのはアナタだ、とわかったのです」
「なるほど、勘の鋭い御方だ。しかし、どうして御自分が狙われている、と思われたのですか?」
一瞬の静寂がふたりの間にこだまする。
「……わたしも居候とはいえ、松平天馬に仕えている者ですから。わたしを拐かしてしまえば、松平家に揺さぶりを掛けられるし、わたしを斬れば脅しや報復にもなりますから」
「なるほど、なるほど。しかし、気になるのは、居候ひとりを拐かしたことで、直参旗本の立場である松平様が、靡くでしょうか?」
風が吹く。冷たい風が吹く。
「……確かに、その通りですね」
猿田の声は強張っている。余裕を見せるように笑ってはいるが、声色は何処までも正直だった。
「いや、お気になさらないで。先ほどもいったように、わたしはアナタに感謝しなければならない。もしかしたら、今日で命を失っていたかもしれないのですから」
「アナタほどの腕前を持つ方が、そうなるとは思いませんけどね」
「……では、どうして助けに参られた?」
「用心のためです。アナタも随分と飲まれていたから、いざという時のためです」
一瞬の静寂を置いて、進藤は笑う。
「まったく、恐ろしい方だ。是非また一杯やりましょう」
「こちらこそ、お願いします」
「はい。では、今夜はこれで。明日は朝から代官所も騒がしくなるでしょうから」
そういって進藤は歩き出したが、それからすぐにまた立ち止まり、横目で猿田を見る。
「それからもうひとつ。決して、悪の道には堕ちないように。わたしも『そのこと』でアナタを捕らえたくない。アナタはあくまでわたしのお伽噺に出て来る顔のない登場人物のひとりであって欲しいと願っています」
進藤は再び歩き出す。その足取りは、やはり一分のスキもなく、引き締まっている。
猿田は笑みを浮かべる。だが、その脚はブルブルと震えている。その震えが止まったのは、それから半刻も後のことだった。
川越の街に出ているおでんの屋台は、進藤にとって仕事の疲れを癒す憩いの場となっていた。若い頃に授けられた同心用の黒い羽織も、今ではその色味も薄くなり、褪せている。
進藤は代官所同心だ。年齢はもう六十を超えているが、本人に隠居するつもりはなく、まだまだ仕事を頑張りたいと意気込んでいた。
勿論、女房とふたりの息子からは、もう充分働いたし、仕事内容も安心安全なモノでもないこともあって、早く隠居して欲しいともいわれていたが、進藤にとってはこの同心の仕事こそが何よりの誇りだった。
進藤は元々、江戸にある北町奉行所の同心であったが、幕府の直轄地である小江戸川越の役人の数の減少に伴って、数年前に奉行所からの命で川越の代官所へと赴任してきた。
とはいえ、進藤は同心として無能だとか、怠惰だとかそういうことは決してなかった。むしろ、勤勉で成績も良く、不正に汚職もないという同心としては優秀な部類に入っていた。
だが、進藤には致命的に上昇思考がなく、筆頭同心や与力といった役職には一切興味を示さず、常々出世を拒み続けて来た。
結果、進藤は優秀な同心であるにも関わらず、出世競争からは早々に脱落し、人員の補充も兼ねて川越へと送られた。
端から見れば落ちこぼれも同然で、事実、進藤が江戸から来た当時は、人間的に問題があって川越へと送られて来たとウワサされた。
が、時間と共にその優秀さと勤勉さは周囲に認められ、その優れた人格により上からも下からも親しまれ、今となっては代官所に不可欠な存在となっていた。
とはいえ、進藤自身、川越でのノンビリした生活は、本人の性格に良く合っていたようで、楽しくやれているようだった。
そんな進藤が何よりも優れていたのは、剣術の腕だった。神道無念流の免許皆伝で、経験も確かなモノだった。オマケに大東流の柔術も身につけていることもあって、仮に刀を失ったとしても、並みの相手であれば、素手で何とかなってしまうほどだった。
グツグツ煮えるおでんが、甘美な香りを伴った湯気を立てている。
「進藤さんは最近どうですかい?」
おでん屋のオヤジに訊ねられ、進藤は曖昧に近況を答える。
「これといってだねぇ。平和なモンだよ」
「でも、ここ最近、悪人ばかりが殺される事件がよく起きてるでしょう? アレとかはどういうことになっているんで?」
「あぁ。確かに、そのことに関しては代官所で色々といわれてるよ。『天誅屋』だっけ。代官所は天誅屋を探して捕らえるよういっているし、やっていることは確かに殺しで悪いことだけど、相手が相手だけにみんなそこまで詰めては追ってないね。天誅屋がいれば、自分たちの仕事も減って楽出来るからね」
「そうなんですな。で、進藤さんはどう思っているんですかい?」
「わたしは……」
「ふぅ、冷えるな」手を擦りながら暖簾を潜る男がひとり。「オヤジ、適当に見繕って」
「おや、猿田さんじゃないの。今日はどうしたんだい? 天馬様にメシを抜かれたのかい?」
「いや、食ったんだけど、腹に貯まんなくて。で、おでんでも食おうと思ってね」
猿田と呼ばれた男は進藤のとなりに腰掛ける。
「またまた。そんなに食ったら太るよ」
「太らんよ、育ち盛りだからね」
「何をいってんだか。アンタもう三十過ぎだろう? 育つのは腹だけだよ」
「はは、耳が痛いね」
猿田は、紺の着物に黒の袴、淡青色の柄巻が拵えられた刀を身につけており、髷は結っておらず、金属の髪留めで前髪からうしろへ撫で付けるという一風変わった風貌をしている。
「じゃ、ちょっと待ってておくれよ」
と、おでん屋のオヤジはおでんの状態を確かめ始める。
「松平様に仕えられているのですか?」進藤は猿田を不思議そうに眺める。
「いやいや、そんな大層なモンじゃないです」
「この人、松平様のところの居候なんだよ」おでん屋のオヤジが説明する。
「居候ねぇ」進藤は興味深そうにいう。「どういう経緯でそうなったのですか?」
自分は旅の者で、川越の町で行き倒れていたところを天馬殿に拾われた、と猿田は簡単に経緯を説明する。
「なるほど、松平様らしいですね」
「しかし、猿田さんも気をつけなよ? 最近、また『天誅屋』が出ているらしいじゃないか」
「え? あぁ、そうらしいね。でも『天誅屋』の連中は辻斬りとは違うらしいじゃない。無差別に人は殺さないんじゃない?」
「いや、わからんよ。ねぇ、進藤さん」
「え?……えぇ」進藤は酒を呷る。「確かに代官所は『天誅屋』を探そうと躍起になってるけど、わたしはそこまで気にしてないよ。少なくとも今のところは、ね。ただ、悪事を働けば、その時はその時というだけで」
「悪事も何も、現に人を殺してるじゃない」
「それはそうだけど、相手はわたしのような一塊の同心じゃどうにも出来ない相手だからね。そういった相手の横暴を止めるには、そうするより他はないのかもしれないね」
「面白い考え方ですね」猿田はいう。
「いえいえ、長年ああいうところに勤めていると、見たくもない、知りたくもないことを色々と見聞きしてしまいましてね。自分が如何に強かろうが、結局は己が立場には勝てないとわかってしまうのです。だから、少しはそういうお伽噺のようなモノを信じてみたいと思いましてね。まぁ、年寄りの世迷いごとですが」
「進藤さん、ちょっとお疲れなんじゃないのかい? ほら、もう一杯つけるから、元気出しなさいよ」
「ありがとうございます」
「ほら、猿田さんも。お付き合いして」
「えぇ、ではーー」
その時、猿田の目が鋭くうしろへと光る。が、やや首を傾けたのみで、うしろを振り向くことはしない。
「どうかされました?」と進藤。
「……いえ、何でも」猿田は満面の笑みで答える。「そんなことより飲みましょう! えっと……、進藤さん!」
「えぇ、猿田さん」
それからというモノ、進藤、猿田は酒を酌み交わし、話に花を咲かせた。
横暴な態度の役人が多い中で、穏やかで物腰の柔らかい進藤と常識に縛られない猿田は不思議と意気投合し、互いの身の上から剣術のことまで、たくさんのことばを交わした。
一刻して、ふたりの酒席はお開きとなった。ふたりとも満足そうに屋台を後にし、その場にて別れた。またこの場で会えることを祈って。
帰り道、進藤は酒で酔っているにも関わらず、落ち着きのある歩調で歩いている。下級役人とはいえ武士は武士、その歩く様には一切のスキは見えない。
ふと進藤は立ち止まる。まぶたを半分瞑り、聞き耳を立てるようにして佇む。鈍い音。小さくて聞き逃してしまいそうだが、その音は確かに暗闇の中で蠢いていた。
「どうかされたんですか?」
進藤が訊ねると、暗闇の中から何者かが姿を現す。と、そこにいたのは、
猿田だった。
先ほどと何も変わらない服装。違う点といえば、酒に酔って真っ赤になった顔だろうか。
「いやぁ、申し訳ない。道を間違えてしまったようでして」
「隠さずともいいですよ。……いやぁ、まことにかたじけない」
進藤は猿田に軽く頭を下げる。
「いやいや、どうしたんですか? わたしは何もしておりませんが」
「隠さずとも大丈夫ですよ。アナタを捕らえようとは思っていませんから。気づいておられたんでしょう? 何者かがわたしの後をつけ回していた、と」
「……気づいてらっしゃいましたか」
「えぇ。さっき一緒に飲んでいる時、アナタ、一瞬とてつもない殺気を放ったでしょう。でも、それはその場にいるわたしやおでん屋のオヤジさんに向けられたモノではなく、うしろ。わたしたちの背後に向かっていた」
猿田は大きくため息をつく。
「隠しごとは出来ませんね。仰る通りです。はじめはわたしを狙っているモノとばかり思っていましたが、いざアナタと別れて探りを入れてみたら、どうも気配がない。とすると、狙われているのはアナタだ、とわかったのです」
「なるほど、勘の鋭い御方だ。しかし、どうして御自分が狙われている、と思われたのですか?」
一瞬の静寂がふたりの間にこだまする。
「……わたしも居候とはいえ、松平天馬に仕えている者ですから。わたしを拐かしてしまえば、松平家に揺さぶりを掛けられるし、わたしを斬れば脅しや報復にもなりますから」
「なるほど、なるほど。しかし、気になるのは、居候ひとりを拐かしたことで、直参旗本の立場である松平様が、靡くでしょうか?」
風が吹く。冷たい風が吹く。
「……確かに、その通りですね」
猿田の声は強張っている。余裕を見せるように笑ってはいるが、声色は何処までも正直だった。
「いや、お気になさらないで。先ほどもいったように、わたしはアナタに感謝しなければならない。もしかしたら、今日で命を失っていたかもしれないのですから」
「アナタほどの腕前を持つ方が、そうなるとは思いませんけどね」
「……では、どうして助けに参られた?」
「用心のためです。アナタも随分と飲まれていたから、いざという時のためです」
一瞬の静寂を置いて、進藤は笑う。
「まったく、恐ろしい方だ。是非また一杯やりましょう」
「こちらこそ、お願いします」
「はい。では、今夜はこれで。明日は朝から代官所も騒がしくなるでしょうから」
そういって進藤は歩き出したが、それからすぐにまた立ち止まり、横目で猿田を見る。
「それからもうひとつ。決して、悪の道には堕ちないように。わたしも『そのこと』でアナタを捕らえたくない。アナタはあくまでわたしのお伽噺に出て来る顔のない登場人物のひとりであって欲しいと願っています」
進藤は再び歩き出す。その足取りは、やはり一分のスキもなく、引き締まっている。
猿田は笑みを浮かべる。だが、その脚はブルブルと震えている。その震えが止まったのは、それから半刻も後のことだった。