【丑寅は静かに嗤う~小娘】
文字数 2,132文字
雨の向こうで亡霊が佇んでいる。
ボンヤリとした姿で、まるで桃川を手招きするようにユラユラと揺らめいている。
桃川は揺らめく亡霊のような姿を見て一度立ち止まるが、その姿が雨に濡れており、足許と着物の裾が泥で汚れていることに気づくと、ゆっくりとその者のほうへ向かって行く。
桃川は「亡霊」の横を過ぎ去ろうとする。亡霊は何もいわない。ただ、その顔には並々ならぬ感情が浮き彫りになっていたが。
「どうして、何もいわねぇだ……」
亡霊のような者、お京。お京は身体と口許、そしてことばを震わせながらいう。桃川は立ち止まり、意識だけをお京のほうへと傾ける。お京は振り返り、自分に背を向ける桃川の背中に集中放火を浴びせ掛ける。
「桃川さん、あん盗賊の隠れ家にいた時にゃ記憶も全部戻ってたんろ?」何も反応しない桃川に対し、お京は更に続ける。「そうなんろ?」
桃川は首を横に振る。
「いや、はじめから……」
最後のことばは雨に掻き消された。だが、消されずともその内容はわかりきっていた。
「……どうして、そんなウソついただ」
「そのほうが都合が良かった。現にお馬や……」そこまでいって桃川は口を紡ぐ。
「お馬さんや、何だっていうんだ? それじゃまるでお馬さんがあん盗賊みたいじゃねぇか」
桃川はハッとし、口許を震わす。
「お馬のこと、誰かから何か聴いたか?」
「お雉さんから話は聴いただ。お馬さんは他の人質たちを守ろうとして斬られちまったから、お雉さんが葬ったっていってただ」
「……そうか。てことは、おれがここを通るのもおね、……お雉が?」
お京は頷く。桃川はふと笑みを漏らす。
「……そうか」
「で、村に盗賊がいたみてぇな口振りだったけんど、そんなこと……」
「お雉は何かおれのことをいってたか?」お京のことばを遮るように、桃川は訊ねる。
お京は呆気に取られたようだったが、一瞬口を結び、何かを溜め込んだように話し出す。
「……桃川さんは盗賊を倒すためにワザと記憶がなくなったフリをしていた。桃川さんは八州様の遣いの者で、賊を潰すために賊の中に潜り込もうとしただが、バレて殺され掛けたところを、川に流されて寺のとこまで行き着いた。お雉さんは、そういってただ」
八州様とは、「八州廻り」と呼ばれる役職で、正式な名を「関東取締出役」という。早い話が、関東圏内に於ける、あまり役人の目が行き届いていない場所を回って様子を見、治安の維持をする役職である。
「おねこ……」
桃川は天を仰ぎ、鼻水を啜る。
「どうしただ? 風邪引いたんか? 悪いことはいわねぇだ。寺に戻って養生するだ」
「……そうはいかない」
「どうしてだ!」
「おれは……、あそこにいてはいけないから」
「意味がわからねぇだ! 病や怪我した人にいてはいけない人なんかいねぇだ! それに……、桃川さんには……」お京は一度ことばを飲み込んでからいい直す。「……桃川さんには、あの寺にいて貰いてぇだ」
「おれに? 何故?」
「それは……ッ! じさまも年だし、おらも力は強くないだ! だから、桃川さんみたいに力のある男の人がいてくれると助かるだ!」
「でも、お雉がいってたことが本当なら、おれは八州様。なら盗賊を倒したって報告に上がらなければならない。どっちにしろここを去らなきゃならない。そうは思わないか?」
「なら! 報告し終わったら戻って来ればいいでねぇか! 八州様よか偉くはねぇけんど、村の生活も悪くはねぇだ!」
「それはつまり、八州を辞めておれに戻って来いと、そういうことか?」
「それは……」冷たい雨の中、お京は顔を赤らめる。「……そういうことだ」
桃川は風船が破裂するように笑みをこぼす。
「あ! 笑うことないろうが! おらだって……真剣なんだ」
「かたじけない。でも、何だか……」
桃川は突如にしてことばを打ち切り、飲み込んでしまった。その目許には寂しげというか、悲しげな表情が浮かんでいる。
「何だか、何だ……?」
「……何でもない。ただ、おれはもう戻れない。それにお雉には悪いことをしちまったからな。会わす顔もない……」
「悪いことって……、猿田さんのことか? それなら仕方ねぇだ。おらも悲しいけんど、でも、猿田さんは村のために戦ってくれただ。その命は無駄なんかじゃねえだ!」
「……そうだな」
「だから、桃川さんが気負いすることはねぇだ! だから……、また帰って来てくんねぇか……?」
桃川は振り向かない。ただ、これから去ろうとしている土地に背を向けたまま、うしろから問い掛けてくる女に対していうだけ。
「それは……、出来ない」桃川はグッと奥歯を噛み締める。「……さよならだ」
桃川は歩き出した。もはや、うしろには意識はなかった。雨が桃川の軌跡を消していく。
「桃川さんッ!」雨の音を切り裂くような大声でお京はいう。「おら、桃川さんのこと……」
雨は鳴る。そこには何も残らない。残るのは咽び泣くお京ただひとり。桃川は去るのみ。
桃川の頬には無数の雨水。だが、そのすべてが雨かはわからない。去り際、桃川は呟く。
「ごめんな……」
それが誰に向けてのことばなのか、知る者は誰もいなかった。
【続く】
ボンヤリとした姿で、まるで桃川を手招きするようにユラユラと揺らめいている。
桃川は揺らめく亡霊のような姿を見て一度立ち止まるが、その姿が雨に濡れており、足許と着物の裾が泥で汚れていることに気づくと、ゆっくりとその者のほうへ向かって行く。
桃川は「亡霊」の横を過ぎ去ろうとする。亡霊は何もいわない。ただ、その顔には並々ならぬ感情が浮き彫りになっていたが。
「どうして、何もいわねぇだ……」
亡霊のような者、お京。お京は身体と口許、そしてことばを震わせながらいう。桃川は立ち止まり、意識だけをお京のほうへと傾ける。お京は振り返り、自分に背を向ける桃川の背中に集中放火を浴びせ掛ける。
「桃川さん、あん盗賊の隠れ家にいた時にゃ記憶も全部戻ってたんろ?」何も反応しない桃川に対し、お京は更に続ける。「そうなんろ?」
桃川は首を横に振る。
「いや、はじめから……」
最後のことばは雨に掻き消された。だが、消されずともその内容はわかりきっていた。
「……どうして、そんなウソついただ」
「そのほうが都合が良かった。現にお馬や……」そこまでいって桃川は口を紡ぐ。
「お馬さんや、何だっていうんだ? それじゃまるでお馬さんがあん盗賊みたいじゃねぇか」
桃川はハッとし、口許を震わす。
「お馬のこと、誰かから何か聴いたか?」
「お雉さんから話は聴いただ。お馬さんは他の人質たちを守ろうとして斬られちまったから、お雉さんが葬ったっていってただ」
「……そうか。てことは、おれがここを通るのもおね、……お雉が?」
お京は頷く。桃川はふと笑みを漏らす。
「……そうか」
「で、村に盗賊がいたみてぇな口振りだったけんど、そんなこと……」
「お雉は何かおれのことをいってたか?」お京のことばを遮るように、桃川は訊ねる。
お京は呆気に取られたようだったが、一瞬口を結び、何かを溜め込んだように話し出す。
「……桃川さんは盗賊を倒すためにワザと記憶がなくなったフリをしていた。桃川さんは八州様の遣いの者で、賊を潰すために賊の中に潜り込もうとしただが、バレて殺され掛けたところを、川に流されて寺のとこまで行き着いた。お雉さんは、そういってただ」
八州様とは、「八州廻り」と呼ばれる役職で、正式な名を「関東取締出役」という。早い話が、関東圏内に於ける、あまり役人の目が行き届いていない場所を回って様子を見、治安の維持をする役職である。
「おねこ……」
桃川は天を仰ぎ、鼻水を啜る。
「どうしただ? 風邪引いたんか? 悪いことはいわねぇだ。寺に戻って養生するだ」
「……そうはいかない」
「どうしてだ!」
「おれは……、あそこにいてはいけないから」
「意味がわからねぇだ! 病や怪我した人にいてはいけない人なんかいねぇだ! それに……、桃川さんには……」お京は一度ことばを飲み込んでからいい直す。「……桃川さんには、あの寺にいて貰いてぇだ」
「おれに? 何故?」
「それは……ッ! じさまも年だし、おらも力は強くないだ! だから、桃川さんみたいに力のある男の人がいてくれると助かるだ!」
「でも、お雉がいってたことが本当なら、おれは八州様。なら盗賊を倒したって報告に上がらなければならない。どっちにしろここを去らなきゃならない。そうは思わないか?」
「なら! 報告し終わったら戻って来ればいいでねぇか! 八州様よか偉くはねぇけんど、村の生活も悪くはねぇだ!」
「それはつまり、八州を辞めておれに戻って来いと、そういうことか?」
「それは……」冷たい雨の中、お京は顔を赤らめる。「……そういうことだ」
桃川は風船が破裂するように笑みをこぼす。
「あ! 笑うことないろうが! おらだって……真剣なんだ」
「かたじけない。でも、何だか……」
桃川は突如にしてことばを打ち切り、飲み込んでしまった。その目許には寂しげというか、悲しげな表情が浮かんでいる。
「何だか、何だ……?」
「……何でもない。ただ、おれはもう戻れない。それにお雉には悪いことをしちまったからな。会わす顔もない……」
「悪いことって……、猿田さんのことか? それなら仕方ねぇだ。おらも悲しいけんど、でも、猿田さんは村のために戦ってくれただ。その命は無駄なんかじゃねえだ!」
「……そうだな」
「だから、桃川さんが気負いすることはねぇだ! だから……、また帰って来てくんねぇか……?」
桃川は振り向かない。ただ、これから去ろうとしている土地に背を向けたまま、うしろから問い掛けてくる女に対していうだけ。
「それは……、出来ない」桃川はグッと奥歯を噛み締める。「……さよならだ」
桃川は歩き出した。もはや、うしろには意識はなかった。雨が桃川の軌跡を消していく。
「桃川さんッ!」雨の音を切り裂くような大声でお京はいう。「おら、桃川さんのこと……」
雨は鳴る。そこには何も残らない。残るのは咽び泣くお京ただひとり。桃川は去るのみ。
桃川の頬には無数の雨水。だが、そのすべてが雨かはわからない。去り際、桃川は呟く。
「ごめんな……」
それが誰に向けてのことばなのか、知る者は誰もいなかった。
【続く】