【年経る夜のサイレンス】
文字数 2,560文字
オレンジ色の明かりの中に白い煙が漂う。
鳥肉の焼ける音は天を焦がすようで、蒸発する塩とタレの芳ばしい香りが鼻腔をくすぐる。
土曜夜の居酒屋は繁盛していた。世界中で猛威を奮うウイルスの存在などウソのように。
長年の友人である山田和雅が誕生日におれを飲みに誘ったのは、今年で何年連続となるだろう。少なくともここ五年くらいは、ヤツは自分の誕生日になると、おれを飲みに誘っている。その間に彼女がいたこともあったろう。なのに、山田はおれを誘った。その理由は、
「誕生日くらい、人に気を使いたくない」
とのことだった。こういわれると、まるでおれに気を使っていないようにも思われるけど、それは違う。ただ、気遣いを最小限に抑えられるという意味だ。
山田という男は、それくらいに人間のこころの機微というものに縛られた男だった。
一見すると誰よりも自由に見えるが、裏を返せばそれは誰よりも縛られているということ。
山田はそれを否定しない。むしろ、自分は縛られている。思考や人間関係、自分のマインドに拘束されて縦横無尽に動き回ることができない。そういっていたのを、おれは忘れない。
「また年取っちまったわ」そういって山田はビールの中ジョッキを呷った。
おれは、そうだなといって日本酒を口に運んだ。辛口の酒が甘く感じられるのは、楽しい時間を過ごせている証明だろうか。
「こんな年になるなんて、中学の時は思いもしなかったな」山田は感慨深そうにいう。
それもそうだ。おれも中学の時は、自分が三〇代になるなど思ってもいなかった。が、現実は三六五日、毎分、毎秒毎に進行し、こっちに向かってくる。山田は更にいうーー
「こりゃ、気づいたらすぐ四〇だわな」
いつからだろう、時間の進行が異様に早くなったのは。大学時代にはもうそうだった気もする。ろくに勉強せず、バイトとパチンコに明け暮れたおれの大学時代は、まるで光のような速さで過ぎ去り、気付けば大学を中退していた。
就職してからは更に早い。朝起きて会社にいき、仕事をして帰宅して、食事して風呂に入って床に就く。その繰り返し。こころが踊る出来事などそうそうない。
今の山田もそうだろう。ウイルスの蔓延によって予定していた舞台はすべてキャンセル。習い事の稽古はできているが、何の目標もない今は生活に精彩を欠いていても可笑しくない。
おれは山田に近況を訊いてみた。するとーー
「この前、健康診断に引っ掛かったぜ」
ケタケタ笑いながら山田はいう。意外だった。同年代の人間と比べて山田の身体はよく鍛えられ、よく引き締まっている。運動もしっかりしているはずで、不健康な要素など皆無といっても過言ではない。
が、山田がいうには、脂質やコレステロール値が基準値を上回ってしまったのだという。おれは意外だといわんばかりに驚いた。山田は、
「まぁ、自粛期間で自堕落な生活を送ってたからなぁ」山田は寂しそうに笑う。「でも、ひと月で六キロ落としてやった。ざまぁみろだで」
相変わらずのストイックさだ。おれをはじめ、他の同年代のヤツラなら、三キロ落とすのも厳しいだろう。そもそも、ダイエットを敢行することすら難しいかもしれない。
「でも、すげえな。普通ならそこまでストイックに体重落とそうとかできないぞ」
「体重を落とすのなんて簡単なんよ。考えてみれば、腹に溜まった贅肉だって一朝一夕でそうなったんじゃない。それに比べて減量なんか数日で効果が出る。そう考えたら、太るより痩せるほうが簡単なんよ」
そういわれるとそうなのかもしれないが、果たしてそう考えられる人間が、この世にどれだけいるだろう。それこそスポーツ選手か、プロのインストラクターでもないと、そんなポジティブには考えられないだろう。
数ヶ月前から、おれも山田のススメで筋トレを始めていた。肩、腕、脚、顔と確かに引き締まったかもしれない。だが、腹回りは依然として太く、体重もまだまだ落ちきってはいない。
そう考えると、ひと月で六キロ落とすというのが、どれほどハードかはわかるだろう。
「なるほどな。でも、見た感じは全然なんだがな」おれは思ったことを率直にいった。
「おれもそう思ってたんよ。でも、案外顔は正直でね。ちょっと自堕落になると、顔は腫れ上がって、明らかに弛む」
それはわかる。自堕落な生活が続くと明らかに表情から張りがなくなる。多分、弛緩した雰囲気が顔の筋肉までもを弛緩させてしまうのだろう。おれもそれは実感していた。
年齢を感じさせる会話。子供の頃の自分は、きっとこんな話をすることはないだろうと思っていた。が、今では自分の健康事情について話をしている。改めて年を取ったものだ。
塩の掛かった焼き鳥を口に運ぶ。この塩辛さを堪能できるのもそう長くはないだろう。あまり無茶な楽しみ方をすれば、それこそ一〇年後には身体は壊れているに違いない。
山田は腕時計に目を落とした。
「そろそろ出るか」
おれが同意すると、山田は一気に残ったビールを呷り、ウエストバッグから財布を取り出そうとした。
「今日はおれが払うよ」
おれがそういうと山田は、
「マジか。じゃあ、ご馳走になるわ」
勘定を済ませ天外に出ると、一〇月の心地よい夜風が火照った身体に涼感を与える。この涼しさと寒さの狭間にあるような涼風が、孤独な男ふたりの身体にはよく染みる。
「ご馳走さん」山田がいう。「さて、明日からまたいつも通りの日常か」
山田はため息混じりにいった。幻想的な夜はいつだって一瞬だ。だからこそ幻想的なのだろうけど、どうせならその幻想が一分でも一秒でも長く続いて欲しいものだ。
「外山」おれを呼ぶ山田。「カレーでも食いにいくか」
おれは唖然とした。まったく、食い意地の張った男だ。思わず笑いが込み上げてくる。
「あぁ、いいよ」
「ありがとよ」
まぁ、いいだろう。こんな日くらいは。明日からまた代わり映えのない日常が始まるのだから。一日ぐらいはダラケてもいい。
無限の夜闇が広がる外夢市のストリートに、星とネオンが静かに孤独な光を発していた。
鳥肉の焼ける音は天を焦がすようで、蒸発する塩とタレの芳ばしい香りが鼻腔をくすぐる。
土曜夜の居酒屋は繁盛していた。世界中で猛威を奮うウイルスの存在などウソのように。
長年の友人である山田和雅が誕生日におれを飲みに誘ったのは、今年で何年連続となるだろう。少なくともここ五年くらいは、ヤツは自分の誕生日になると、おれを飲みに誘っている。その間に彼女がいたこともあったろう。なのに、山田はおれを誘った。その理由は、
「誕生日くらい、人に気を使いたくない」
とのことだった。こういわれると、まるでおれに気を使っていないようにも思われるけど、それは違う。ただ、気遣いを最小限に抑えられるという意味だ。
山田という男は、それくらいに人間のこころの機微というものに縛られた男だった。
一見すると誰よりも自由に見えるが、裏を返せばそれは誰よりも縛られているということ。
山田はそれを否定しない。むしろ、自分は縛られている。思考や人間関係、自分のマインドに拘束されて縦横無尽に動き回ることができない。そういっていたのを、おれは忘れない。
「また年取っちまったわ」そういって山田はビールの中ジョッキを呷った。
おれは、そうだなといって日本酒を口に運んだ。辛口の酒が甘く感じられるのは、楽しい時間を過ごせている証明だろうか。
「こんな年になるなんて、中学の時は思いもしなかったな」山田は感慨深そうにいう。
それもそうだ。おれも中学の時は、自分が三〇代になるなど思ってもいなかった。が、現実は三六五日、毎分、毎秒毎に進行し、こっちに向かってくる。山田は更にいうーー
「こりゃ、気づいたらすぐ四〇だわな」
いつからだろう、時間の進行が異様に早くなったのは。大学時代にはもうそうだった気もする。ろくに勉強せず、バイトとパチンコに明け暮れたおれの大学時代は、まるで光のような速さで過ぎ去り、気付けば大学を中退していた。
就職してからは更に早い。朝起きて会社にいき、仕事をして帰宅して、食事して風呂に入って床に就く。その繰り返し。こころが踊る出来事などそうそうない。
今の山田もそうだろう。ウイルスの蔓延によって予定していた舞台はすべてキャンセル。習い事の稽古はできているが、何の目標もない今は生活に精彩を欠いていても可笑しくない。
おれは山田に近況を訊いてみた。するとーー
「この前、健康診断に引っ掛かったぜ」
ケタケタ笑いながら山田はいう。意外だった。同年代の人間と比べて山田の身体はよく鍛えられ、よく引き締まっている。運動もしっかりしているはずで、不健康な要素など皆無といっても過言ではない。
が、山田がいうには、脂質やコレステロール値が基準値を上回ってしまったのだという。おれは意外だといわんばかりに驚いた。山田は、
「まぁ、自粛期間で自堕落な生活を送ってたからなぁ」山田は寂しそうに笑う。「でも、ひと月で六キロ落としてやった。ざまぁみろだで」
相変わらずのストイックさだ。おれをはじめ、他の同年代のヤツラなら、三キロ落とすのも厳しいだろう。そもそも、ダイエットを敢行することすら難しいかもしれない。
「でも、すげえな。普通ならそこまでストイックに体重落とそうとかできないぞ」
「体重を落とすのなんて簡単なんよ。考えてみれば、腹に溜まった贅肉だって一朝一夕でそうなったんじゃない。それに比べて減量なんか数日で効果が出る。そう考えたら、太るより痩せるほうが簡単なんよ」
そういわれるとそうなのかもしれないが、果たしてそう考えられる人間が、この世にどれだけいるだろう。それこそスポーツ選手か、プロのインストラクターでもないと、そんなポジティブには考えられないだろう。
数ヶ月前から、おれも山田のススメで筋トレを始めていた。肩、腕、脚、顔と確かに引き締まったかもしれない。だが、腹回りは依然として太く、体重もまだまだ落ちきってはいない。
そう考えると、ひと月で六キロ落とすというのが、どれほどハードかはわかるだろう。
「なるほどな。でも、見た感じは全然なんだがな」おれは思ったことを率直にいった。
「おれもそう思ってたんよ。でも、案外顔は正直でね。ちょっと自堕落になると、顔は腫れ上がって、明らかに弛む」
それはわかる。自堕落な生活が続くと明らかに表情から張りがなくなる。多分、弛緩した雰囲気が顔の筋肉までもを弛緩させてしまうのだろう。おれもそれは実感していた。
年齢を感じさせる会話。子供の頃の自分は、きっとこんな話をすることはないだろうと思っていた。が、今では自分の健康事情について話をしている。改めて年を取ったものだ。
塩の掛かった焼き鳥を口に運ぶ。この塩辛さを堪能できるのもそう長くはないだろう。あまり無茶な楽しみ方をすれば、それこそ一〇年後には身体は壊れているに違いない。
山田は腕時計に目を落とした。
「そろそろ出るか」
おれが同意すると、山田は一気に残ったビールを呷り、ウエストバッグから財布を取り出そうとした。
「今日はおれが払うよ」
おれがそういうと山田は、
「マジか。じゃあ、ご馳走になるわ」
勘定を済ませ天外に出ると、一〇月の心地よい夜風が火照った身体に涼感を与える。この涼しさと寒さの狭間にあるような涼風が、孤独な男ふたりの身体にはよく染みる。
「ご馳走さん」山田がいう。「さて、明日からまたいつも通りの日常か」
山田はため息混じりにいった。幻想的な夜はいつだって一瞬だ。だからこそ幻想的なのだろうけど、どうせならその幻想が一分でも一秒でも長く続いて欲しいものだ。
「外山」おれを呼ぶ山田。「カレーでも食いにいくか」
おれは唖然とした。まったく、食い意地の張った男だ。思わず笑いが込み上げてくる。
「あぁ、いいよ」
「ありがとよ」
まぁ、いいだろう。こんな日くらいは。明日からまた代わり映えのない日常が始まるのだから。一日ぐらいはダラケてもいい。
無限の夜闇が広がる外夢市のストリートに、星とネオンが静かに孤独な光を発していた。