【もがいてもがいて、その先に】
文字数 2,036文字
体育の持久走にて、亡くなった子がいるらしい。
ニュースで見た情報によると、何でもマスクを着用して五分の持久走をしたところ、当事者の子供が突然倒れ、そのままーーとのことで、倒れた時にはマスクをアゴにしていたということだ。
これは多分だが、マスクをアゴにしていたのは、耐えられぬ程の息苦しさを感じ、そうしたのではないかと思うのだ。
今のご時世、マスクの着用はほぼ当たり前になっている。とはいえ、マスクをした状態で運動をするのは、息苦しさという点でも中々に辛いモノがあるのはいうまでもない。
一応、教育委員会のほうでは体育の授業の際はマスクは着用しなくてよいとしていたということだけど、やはり、それも雰囲気や他の何かの要因で、そうしなくなることもあるだろう。
しかし、マスクにもそれぞれ機能差があり、一部では、飛沫の散布を防ぐためのフィルターが入っているためか、ちょっと着用しただけで、ものすごく息苦しくなるモノもある。
飛沫を防げ、ウイルスの感染の予防にもなるのはいいことだけど、それ故に息苦しくなって酸欠、そして死を迎えるというのは何とも本末転倒だ。感染予防をした結果、酸素が薄くなって死んでしまう。それなら走るのにマスクはしなくても良かったのではないかーーどうしてもそう思ってしまう。本当に残念な話だ。
かくいうおれも、つい最近、新しく新調したマスクが苦し過ぎて、たった数秒、駆け足になったり、あくせく働いただけで酸素が薄くなり、頭痛に吐き気、めまいに襲われたこともあって、今回の件は色々と考えさせられた。
ただ、ひとついっておくと、おれは普段の生活にマスクは必要ないといいたいワケじゃない。そりゃ、日常生活の中で少しでもウイルス感染を防げるなら、するべきだと思う。
だが、体育、それも持久走のようなハードな運動をする際にはその対策も考えなければならないとは思う。教育委員会がアナウンスしたとはいえ、それが現場でちゃんと履行されていたかもわからないしな。
まぁ、以前、この駄文集で、100メートルを全力で走って酸欠になって運ばれたヤツの話をしたけれど、その当時もマスクはしていなかったとはいえ、やはり走るというのは苦手な人はとことん苦手で、酸欠になるのも可笑しなことではないのかもしれない。
そもそも、おれだって走るのは得意じゃない。持久力は今でこそマシにはなったけど、小中学生の時はヒドイもんだった。
幸い、走って倒れるということはなかったが、息苦しさがなかったかといわれると、それはダウト。苦しさは間違いなくあった。
別に走る競技は苦手なヤツには危険だから止めさせろとはいわない。だけど、ひとりができるなら全員も同じメニューをこなせるだろうという前提は捨て去る必要はあると思う。
全員一律、この距離を走れ。
カリキュラムの奴隷になって、思考停止のまま走らせるのも、走るのも、考え直したほうがいいのかもしれない。
況してや、マスクを着用するのが当たり前となっているこのご時世で、しかも年々夏の最高気温を更新しているような状況では、これから先、もっと似たようなことも起きるだろう。
酸欠だけでなく、熱中症も増えるだろう。
そうなると何かとナーバスになって、対策を考えていかなければならないと思う。でなければ、一体、体育の授業をする目的とは何なのだろうか。ただ、カリキュラムのひとつだから、と盲目的にやるだけなのだろうか。だとしたら、本当にそれでいいのだろうか。
ちなみに、居合も沖縄空手もマスク着用で稽古しているのだけど、それは指導者の配慮もあってか、マスクをしながらでも不自由なくできている。そう考えると、やはりやり方ひとつで物事は変わってくるということなのだろう。
まぁ、おれのようなチンピラがひとりで真剣に考えたところで、その結論は出ないだろうし、仮に結論が出たとしても、おれがいくら考えても、何かが変わることは、まずない。
うーん、とはいえ、やはり由々しき問題だよなぁ。今、人類はライフスタイルを見つめ直すひとつの転換期に来ているのかもしれない。
そんな中で、おれたちはどう生きて、どう立ち振舞えばいいのだろう。難しい問題だ。
もうすぐ六月だ。これからどんどん暑くなるだろう。これを読んでいるアンタらも、くれぐれも身体には気をつけて欲しい。
まだ大丈夫。そう思っていても、破滅は唐突に訪れる。だから無理せず、適度な具合を見極めて、日々の生活を過ごして欲しい。
命はひとつしかない。
その命を生かすも殺すも、最後は自分次第なのだから。そして、その人生のほんの一部を、このゴミのような文章を読むために時間に割いてくれているなら、おれとしては嬉しい限りだ。こんなクソつまらない文章でも、読む人がいる限りは書く意味もあるだろうしな。
そういうことだ。ハードな世の中ではあるけれど、互いに頑張ろうぜ。何、悪夢はいつまでも続きはしないさ。また、会おう。暇ならな。
アスタラ。
ニュースで見た情報によると、何でもマスクを着用して五分の持久走をしたところ、当事者の子供が突然倒れ、そのままーーとのことで、倒れた時にはマスクをアゴにしていたということだ。
これは多分だが、マスクをアゴにしていたのは、耐えられぬ程の息苦しさを感じ、そうしたのではないかと思うのだ。
今のご時世、マスクの着用はほぼ当たり前になっている。とはいえ、マスクをした状態で運動をするのは、息苦しさという点でも中々に辛いモノがあるのはいうまでもない。
一応、教育委員会のほうでは体育の授業の際はマスクは着用しなくてよいとしていたということだけど、やはり、それも雰囲気や他の何かの要因で、そうしなくなることもあるだろう。
しかし、マスクにもそれぞれ機能差があり、一部では、飛沫の散布を防ぐためのフィルターが入っているためか、ちょっと着用しただけで、ものすごく息苦しくなるモノもある。
飛沫を防げ、ウイルスの感染の予防にもなるのはいいことだけど、それ故に息苦しくなって酸欠、そして死を迎えるというのは何とも本末転倒だ。感染予防をした結果、酸素が薄くなって死んでしまう。それなら走るのにマスクはしなくても良かったのではないかーーどうしてもそう思ってしまう。本当に残念な話だ。
かくいうおれも、つい最近、新しく新調したマスクが苦し過ぎて、たった数秒、駆け足になったり、あくせく働いただけで酸素が薄くなり、頭痛に吐き気、めまいに襲われたこともあって、今回の件は色々と考えさせられた。
ただ、ひとついっておくと、おれは普段の生活にマスクは必要ないといいたいワケじゃない。そりゃ、日常生活の中で少しでもウイルス感染を防げるなら、するべきだと思う。
だが、体育、それも持久走のようなハードな運動をする際にはその対策も考えなければならないとは思う。教育委員会がアナウンスしたとはいえ、それが現場でちゃんと履行されていたかもわからないしな。
まぁ、以前、この駄文集で、100メートルを全力で走って酸欠になって運ばれたヤツの話をしたけれど、その当時もマスクはしていなかったとはいえ、やはり走るというのは苦手な人はとことん苦手で、酸欠になるのも可笑しなことではないのかもしれない。
そもそも、おれだって走るのは得意じゃない。持久力は今でこそマシにはなったけど、小中学生の時はヒドイもんだった。
幸い、走って倒れるということはなかったが、息苦しさがなかったかといわれると、それはダウト。苦しさは間違いなくあった。
別に走る競技は苦手なヤツには危険だから止めさせろとはいわない。だけど、ひとりができるなら全員も同じメニューをこなせるだろうという前提は捨て去る必要はあると思う。
全員一律、この距離を走れ。
カリキュラムの奴隷になって、思考停止のまま走らせるのも、走るのも、考え直したほうがいいのかもしれない。
況してや、マスクを着用するのが当たり前となっているこのご時世で、しかも年々夏の最高気温を更新しているような状況では、これから先、もっと似たようなことも起きるだろう。
酸欠だけでなく、熱中症も増えるだろう。
そうなると何かとナーバスになって、対策を考えていかなければならないと思う。でなければ、一体、体育の授業をする目的とは何なのだろうか。ただ、カリキュラムのひとつだから、と盲目的にやるだけなのだろうか。だとしたら、本当にそれでいいのだろうか。
ちなみに、居合も沖縄空手もマスク着用で稽古しているのだけど、それは指導者の配慮もあってか、マスクをしながらでも不自由なくできている。そう考えると、やはりやり方ひとつで物事は変わってくるということなのだろう。
まぁ、おれのようなチンピラがひとりで真剣に考えたところで、その結論は出ないだろうし、仮に結論が出たとしても、おれがいくら考えても、何かが変わることは、まずない。
うーん、とはいえ、やはり由々しき問題だよなぁ。今、人類はライフスタイルを見つめ直すひとつの転換期に来ているのかもしれない。
そんな中で、おれたちはどう生きて、どう立ち振舞えばいいのだろう。難しい問題だ。
もうすぐ六月だ。これからどんどん暑くなるだろう。これを読んでいるアンタらも、くれぐれも身体には気をつけて欲しい。
まだ大丈夫。そう思っていても、破滅は唐突に訪れる。だから無理せず、適度な具合を見極めて、日々の生活を過ごして欲しい。
命はひとつしかない。
その命を生かすも殺すも、最後は自分次第なのだから。そして、その人生のほんの一部を、このゴミのような文章を読むために時間に割いてくれているなら、おれとしては嬉しい限りだ。こんなクソつまらない文章でも、読む人がいる限りは書く意味もあるだろうしな。
そういうことだ。ハードな世の中ではあるけれど、互いに頑張ろうぜ。何、悪夢はいつまでも続きはしないさ。また、会おう。暇ならな。
アスタラ。