神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(12)
文字数 920文字
官僚制度の発達が進められていたシチリア王国以外の帝国諸地域は諸侯の分断統治に委ねられており、国王が直接支配する地域は限定されていた。特にゲルマニア(ドイツ)はイタリアの属州とも言える状態にあり、フリードリヒの息子ハインリヒはローマ王(ドイツ王)の地位にありながらも事実上は父のドイツ総督でしかなかった。
ハインリヒは積極的に王権を強化する方策を採り、聖界諸侯(高位聖職者)が領有する都市の自治運動を支援し、彼らの領地経営に介入した。ハインリヒに反発する諸侯は1231年にヴォルムスでの「諸侯の利益のための協定」を結ばせるに至り、諸侯が持つ事実上の既得特権を皇帝に追認させた。諸侯は協定の順行を掲げたが、王としての統治を望むハインリヒは諸侯の専横と皇帝フリードリヒの政策に不満を抱いた。一方で帝国からの圧力を憂慮するグレゴリウスはロンバルディア同盟の再結成を指導し、ハインリヒに反乱を唆した。
グレゴリウス9世の誘いに乗ったハインリヒは1234年にロンバルディア同盟と結託して反乱を起こす。しかしローマ王ハインリヒに味方する諸侯はほとんどおらず、皇帝フリードリヒがわずかな手勢でアルプスを越えようとしただけでハインリヒの敷いた防衛線は瓦解した1235年7月にハインリヒは降伏、王位と継承権を剥奪され、盲目にされた上でプーリアの城に幽閉された。1242年2月にハインリヒは別の城に護送される道中で、谷底に身を投げて自殺した。結局ハインリヒは後の時代でも正統な王と見なされず、国王としては「ハインリヒ(7世)」と括弧書きれる。