ヤン・フス(5)
文字数 1,444文字
この時のヴェンツェルは本当に粘り強く和解を求めています。僕たちの時代のスペインはもうルター派などプロテスタントの集会を開いたり本を持っていたというだけで捕らえられて拷問を受け、処刑されるということになっていましたから。
フスは、それは教会を教皇と枢機卿だけのものにする考え方だとして、強硬に抗議した。一方でフス派は相手側の主張も受け入れるように努力し、「ローマ教会に従わなければならない」という主張に対して、「敬虔なキリスト教徒として恥じない限り」の一文を付け加えた。
これら議論の途中でフスが教会を論じた『教会論』が何度も引用され、賛否両論の意見を浴びた。この著作は、最初の10章まではウィクリフの同名の著作の要約で、続く章では同じくウィクリフの著作の摘要を受け継ぐ者である。ウィクリフは「教会は聖職者だけで構成される」という一般的な考えに対抗して著作を記したが、フスも同じ立場に立たされていた。
ウィクリフはおそらく理論として教会は聖職者のためだけにあるのではないと考えたのでしょう。でもフスの場合は実際に教会権力から攻撃され、教会の腐敗を批判した。現実的な教会権力との戦いの中、ウィクリフの理論が心の支えになったのだと思います。
フスは、論文をオーストリア近くのコジー・フラーデクにある彼の庇護者の居城で著した。原稿はプラハに送られ、ベツレヘム礼拝堂において大衆の前で発表され、これに対して、スタニスラフ・ツェ・ツノイマとシュテファン・パレチとが同名の論文を著して対抗した。この2名の猛烈な敵手がプラハを去った後は、論文の発表の場はフスの支持者で埋め尽くされた。フスは、論文を書くとともにコジー・フラーデクの近郊で説教をした。
ボヘミアのウィクリフ主義は、ポーランド、ハンガリー、クロアチア、オーストリアに伝播したが、この時には教皇の宮殿で特別な動きはなかった。しかし、1413年にローマで評議会が開かれ、ウィクリフの著作は異端とされて、それらを燃やす命令が下った。