オンフロワ4世・ド・トロン(4)
文字数 1,023文字
1183年9月、エジプトとシリアを一手に収めたアイユーブ朝のサラーフッディーンがエルサレム王国に侵攻した。オンフロワ4世はOultrejourdainの兵を率いて、ルノー・ド・シャティヨンのもとからエルサレム王国の連合本軍のもとに派遣された。しかし彼の部隊はギルボア山でサラーフッディーン軍の奇襲を受け、ほとんど全滅に近い大敗を喫した。サラーフッディーンも自国の本軍を戦闘に参加するよう説得することができず、10月7日に撤退した。
この時のオンフロワ4世は17歳くらいで僕とあまり変わらない年齢、それなのに軍隊を率いて戦わなければならず、奇襲を受けて全滅に近い負け方をしています。若い時にこういう経験をしてしまうと、戦争に行くのが嫌になるのではないかと思いました。
1183年秋、オンフロワ4世とイザベラはケラク城で結婚式を挙げた。ところがその式の真っ最中に、サラーフッディーンが襲撃してきて城を包囲した(ケラク包囲戦)これはルノー・ド・シャティヨンが2月に紅海沿岸で略奪遠征をおこなったことへの報復だった。エルノールの年代記によれば、サラーフッディーンはオンフロワ4世の母エティエネットに説得され、新郎新婦が身を隠している塔へは攻撃しなかったが、城のそれ以外の部分へは攻撃を続行した。しかし12月4日、ボードゥアン4世とトリポリ伯レーモン3世の援軍が到着し、ケラク城は解放された。
1183年3月、病状が悪化し死が近づいていることを悟ったボードゥアン4世は、姉シビーユとその夫ギー・ド・リュジニャンから相続権を剥奪し、シビーユの前夫との子である6歳のボードゥアン5世を後継者とし、レーモン3世を摂政に指名した。また高等法院は、万が一ボードゥアン5世が死去した場合、教皇、神聖ローマ皇帝、フランス王、イングランド王が、シビーユとイザベルのいずれがエルサレム王位を継承するか決定できる、と宣言した。ボードゥアン4世は1185年3月に死去した。ボードゥアン5世が跡を継いだが、彼も翌夏に亡くなった。