ブルターニュ公ジャン4世(1)
文字数 934文字
ブルターニュ継承戦争(百年戦争)の中の1345年に父が急死すると、リッチモンド伯とモンフォール伯位を継承し1364年までブルターニュ公の座をシャティヨン家(パンティエーヴル家)のシャルル・ド・ブロワと争った。オーレの戦いでブルターニュ・イングランド連合軍が勝利すると、1365年4月12日に調印されたゲランド条約でブルターニュ公であることを認められた。以後、ジャン4世のドルー家(モンフォール家)がブルターニュ公位を継承していった。
1345年に父がシャルル・ド・ブロワとの戦いで戦死した時、ジャンはわずか6歳だったが、母ジャンヌ・ド・フランドルが戦いを継続し、勝利を収めていった。ジャンは1357年から軍事作戦に参加し、1364年にブロワ伯が攻撃の準備をしていることを知りオーレーを包囲した。
イングランドのエドワード黒太子が送り込んだ援軍に助けられて敵軍を粉砕し、オーレの戦いでブロワ伯を敗死させた後、彼の未亡人でジャンの従姉でもある「女公」ジャンヌ・ド・パンティエーヴルと交渉を行い、翌1365年に自らを単独のブルターニュ公であると認めさせた第1回ゲランド条約に調印、ブルターニュ公ジャン4世となった。またこの際、ジャン4世はフランス王シャルル5世に臣従することも定められたが、形式はブルターニュの独立を妨げない単純臣従とも決められ、献身臣従でないことが両家の間の了解となった。