ヨランド・ド・バル
文字数 1,340文字
王家の霊廟があるポブレー修道院に埋葬されているのだからよいではないか。余は死んだ時カタリ派に味方した異端とされ、母上が埋葬されたシヘーナ修道院に埋葬されたが、そこは墓地エリア外だった。教皇が変わってやっと遺骸は修道院内に移葬され、そこは母上の棺の隣であった。
ヨランド・ド・バル(1365頃ー1431)はロレーヌ地方のバル公爵家の公女で、アラゴン王フアン1世の2番目の妻。スペイン語名はビオランテ・デ・バル。バル公ロベール1世とその妻でフランス王ジャン2世の娘であるマリーの間に第8子、次女として生まれた。1380年にアラゴン王ペドロ4世の長男ジローナ公フアンと結婚し、1387年に夫の王位継承に伴い王妃となった。
フアン1世との間に7人の子女をもうけたが、生育したのは娘1人だけである。
・ハイメ(1382ー1388)
・ヨランダ(1384ー1442)1400年、アンジュー公ルイ2世と結婚
・フェルナンド(1389)
・アントニア(1391ー1392)
・レオノール(1393)
・ペドロ(1394)
・ファナ(1396)
未亡人になったのが31歳の時、亡くなったのは66歳です。その間に娘ヨランドが結婚し、アラゴン王がカスペの妥協で決まり、孫のルイ、マリー、ルネなどが生まれ、マリーとシャルルが婚約し、シャルルが即位して、1429年に戴冠式を行った時も王妃ヨランド・ド・バルは生きています。