ヨランド・ド・バル

文字数 1,340文字

今日はフアン1世の2度目の妻、ヨランド・ド・バルについて話題にします。作品集は下の画像から入ってください。
この画像はフアン1世とビオランテ夫妻の墓石の彫像です。ポブレー修道院にあります。
つまり私は宮廷を牛耳られた王妃の隣で永遠の眠りについているのですね。
王家の霊廟があるポブレー修道院に埋葬されているのだからよいではないか。余は死んだ時カタリ派に味方した異端とされ、母上が埋葬されたシヘーナ修道院に埋葬されたが、そこは墓地エリア外だった。教皇が変わってやっと遺骸は修道院内に移葬され、そこは母上の棺の隣であった。
ペドロ2世も教皇に異端とされたばかりに死後も差別され、大変な目にあっていたのですね。
ヨランド・ド・バル(1365頃ー1431)はロレーヌ地方のバル公爵家の公女で、アラゴン王フアン1世の2番目の妻。スペイン語名はビオランテ・デ・バル。バル公ロベール1世とその妻でフランス王ジャン2世の娘であるマリーの間に第8子、次女として生まれた。1380年にアラゴン王ペドロ4世の長男ジローナ公フアンと結婚し、1387年に夫の王位継承に伴い王妃となった。
結婚した時フアン1世は30歳、ヨランドは15歳でした。この時はまだジローナ公フアンでした。
父上が長生きだったので、私がアラゴン王になったのは37歳の時です。
ヨランドは病気がちの夫のために頻繁に国務を代行し、またアラゴン宮廷にフランスの文化を持ち込むなどした。
あれ、フアン1世は病弱だったのですか?
そうかもしれません。
フアン1世の資料を読むと王妃とその寵臣が宮廷を牛耳ったと書いてあって、随分酷い王妃だと思ったけど、この文章を読むと、病気がちな夫を支えたよい王妃というイメージです。
王妃は特にプロヴァンス地方出身のトルバドゥールの才能を発掘することに熱心だった。1396年に夫と死別した後は、同名の娘ヨランダの養育に力を注いだ。
王妃は宮廷をフランス風にすることに熱心だったのですね。フアン1世は狩りに熱中して、すれ違っていたようです。
フアン1世との間に7人の子女をもうけたが、生育したのは娘1人だけである。

・ハイメ(1382ー1388)  

・ヨランダ(1384ー1442)1400年、アンジュー公ルイ2世と結婚

・フェルナンド(1389)

・アントニア(1391ー1392)

・レオノール(1393)

・ペドロ(1394)

・ファナ(1396)

ハイメは無事育ってくれたので、私は期待していました。今度こそ跡継ぎに恵まれたと・・・でも6歳で死んでしまいました。神は私から次々と子を取り上げたのです。
フアン1世の死後も、ヨランド・ド・バルはかなり長生きしています。
未亡人になったのが31歳の時、亡くなったのは66歳です。その間に娘ヨランドが結婚し、アラゴン王がカスペの妥協で決まり、孫のルイ、マリー、ルネなどが生まれ、マリーとシャルルが婚約し、シャルルが即位して、1429年に戴冠式を行った時も王妃ヨランド・ド・バルは生きています。
私の知らない娘ヨランドの結婚から孫が生まれた事、義理の孫シャルル7世がフランス王となったことまで、王妃はみんな知っているのですね。
ヨランド・ド・バルとフアン1世はポブレー修道院で隣り合って永遠の眠りについています。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

ラミロ2世。アラゴンの王様だったがいろいろあって今は亡霊となっている

ペトロニーラ。アラゴン女王の名前を使っているがただの主婦。小説家になりたいと思っている。

フェリペ、16世紀のスペインの修道院で暮らすユダヤ人の少年。父親に捨てられて心を閉ざしていたが、ニコラス医師の指導で本来の明るさを取り戻す。まじめで勉強熱心。

ニコラス医師。修道院内の病院の医師で、孤児たちに勉強も教える。心を閉ざしていたフェリペを気にかけ、特別にラテン語や歴史、医学の基礎なども教える。

フアン1世。不真面目王と呼ばれ業績を残さずに死んだが、娘のヨランド・ダラゴンが勝利王シャルル7世を支えている。

ハインリヒ7世。皇帝フリードリヒ2世の長男でアラゴンの血も引いている。父と対立して反乱を起こし降伏して目を潰され。幽閉されて悲劇的な人生の幕を閉じる。

ペドロ2世。ラミロ2世のひ孫でレコンキスタの英雄。戦闘能力はかなり高く、ファンタジー映画やゲームの中では主要キャラになるタイプだが、なぜか小説の中で影が薄い。

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色