フランス王ルイ7世(12)

文字数 1,262文字

フランス王ルイ7世についての続きです。作品集は下の画像から入って下さい。
1173年、好機が訪れた。若ヘンリー王がヘンリー2世に反発してルイ7世の下へ逃れたのである。これはヘンリー2世が末子ジョンへの領土分割(シノン・ルーダン・ミルボーを授与)を公表したことが原因で、若ヘンリー王が父に反乱を起こすと2人の弟リチャード・ジェフリーや母アリエノールも加勢、アキテーヌ全土やイングランドでヘンリー2世に対する反乱が勃発した。ルイ7世は父子の対立に乗じてアンジュー帝国の内戦を誘発すべく若ヘンリー王を支持、フランス諸侯にも参戦を促し、婿のアンリ1世・ティボー5世兄弟を始め、ブローニュ伯マチューフランドル伯フィリップ兄弟、スコットランド王ウィリアム1世も引き入れて反乱を扇動・拡大、自らも若ヘンリー王と共に出兵してノルマンディー、ヴェルヌイユ、ルーアンなどを攻撃・包囲した。
親子の対立が原因で大変な争いになっていますね。
ヘンリー2世とアリエノールの間に子供がたくさんいるからいけないのです。
しかし、ヘンリー2世はブラバント人傭兵を率いて猛烈に反撃して敵を蹴散らし、1174年1月にアリエノールを捕らえ監禁、ウィリアム1世も捕虜にする成果を挙げ、息子たちも9月に降伏させた。対するルイ7世はノルマンディーから退却、アンジュー帝国の内戦はヘンリー2世に早期鎮圧されルイ7世の目論見は失敗に終わった。この後病気がちになりフランスの将来を考え、王国に禍根を残さないため1177年9月21日にヘンリー2世との和睦を結んだ。
この時のいろいろな出来事が後のイングランドとフランスの歴史を大きく変えているように思います。
1179年8月に息子フィリップを共治王に戴冠する直前にフィリップが急病にかかり、看病する中で自身も9月に病気に襲われ半身不随になり、父子共に命の危険に晒されたが、列聖されたベケットの祠に病気治癒を祈願するため、家臣の反対を押し切りフランス王で初めて敵地イングランドを訪れた。
この時代の人は信仰心も篤く、特にルイ7世は同じ時代を生き自分もよく知っていたベケットに助けを求めたのでしょうか?
ヘンリー2世に丁重に迎えられたルイ7世はベケットの祠を詣で、帰国した時には病気から回復フィリップに迎えられ、11月1日に戴冠式を行いフィリップを共治王に据えたが、もはや戴冠式に出られないほど体力は衰え、風邪を引いて脳卒中も併発、話すことも動くことも出来なくなった。危篤状態の中で妻と実家のブロワ家がフィリップと対立してフランスでも内乱の危機が生じたが、フランドル伯と手を組んだフィリップは母もろともブロワ家を宮廷から追放、1180年4月28日にフランドル伯の姪イザベル・ド・エノーと結婚、それを見届けたルイ7世は9月18日にサン=ポンの修道院で崩御した。

サン=ポンの修道院に埋葬されたが、遺棺は王政復古期の1817年、サン=ドニ大聖堂に移された。

ルイ7世の最後は凄まじい執念と信仰心を感じますが、だからこそフランスは守られたようにも思います。
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登場人物紹介

ラミロ2世。アラゴンの王様だったがいろいろあって今は亡霊となっている

ペトロニーラ。アラゴン女王の名前を使っているがただの主婦。小説家になりたいと思っている。

フェリペ、16世紀のスペインの修道院で暮らすユダヤ人の少年。父親に捨てられて心を閉ざしていたが、ニコラス医師の指導で本来の明るさを取り戻す。まじめで勉強熱心。

ニコラス医師。修道院内の病院の医師で、孤児たちに勉強も教える。心を閉ざしていたフェリペを気にかけ、特別にラテン語や歴史、医学の基礎なども教える。

フアン1世。不真面目王と呼ばれ業績を残さずに死んだが、娘のヨランド・ダラゴンが勝利王シャルル7世を支えている。

ハインリヒ7世。皇帝フリードリヒ2世の長男でアラゴンの血も引いている。父と対立して反乱を起こし降伏して目を潰され。幽閉されて悲劇的な人生の幕を閉じる。

ペドロ2世。ラミロ2世のひ孫でレコンキスタの英雄。戦闘能力はかなり高く、ファンタジー映画やゲームの中では主要キャラになるタイプだが、なぜか小説の中で影が薄い。

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