教皇ボニファティウス8世(3)
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ボニファティウス8世は1300年を「聖年」に定めて盛大な祭典(聖年祭)を挙行し、ヨーロッパの全聖職者のローマ巡礼を強制して死後の天国行きを確約した。聖年を定めたのはボニファティウス8世が最初であり、それ以前には聖年を祝うことはなかった。
聖年を祝うことはいいことだと思いますが、全聖職者にローマ巡礼を強制したり、天国行きを確約したというのはやり過ぎです。そもそもボニファティウス8世が教皇になった経緯も怪しいのに、そんな人が約束した天国をみんな信じるのでしょうか?
ローマには多くの巡礼者が集まり、フランス王フィリップの教会課税で苦境に陥ったローマ教会の財政は潤いを取り戻した。ジョット・ディ・ボンドーネをはじめとする芸術家がローマに集まり、サン・ピエトロ大聖堂やサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂などが改修された。彼は、彫刻家や画家たちに自分の像を多数作らせている。ボニファティウスはまた聖職者の養成を企図し、1303年にはローマ・ラ・サピエンツァ大学を設立した。
ボニファティウス8世が教皇になるまでにしたことはよくないけど、このような形で聖年を祝ったのならば、私もその時に合わせてローマへ行きたいです。私の場合はちょうど1350年に生まれていて1400年になる前に死んでいるので、聖年が含まれていませんが・・・
一方でボニファティウス8世は、フィレンツェの支配を企図して教皇派の内紛(黒派対白派)を扇動した。フィレンツェでは富裕な市民が白派を支持、古い封建領主が黒派を支持し、両者は互いに対立していた。白派はプリオラートと称される最高行政機関を作って3名の頭領(プリオリ)を選んだが、ダンテ・アリギエーリはその1人に選出されている。教皇がフィレンツェに圧力をかけたことにより、黒派はその権勢の恩恵にあずかろうとした。
さらに教皇庁はフィレンツェに対し、教皇に奉仕する100人の騎兵を出せと命令した。ダンテはこれを拒否する書簡をローマに送ったが、教皇庁が応じないため、1301年、ダンテはフィレンツェ使節の1人として教皇に会ったが、帰途シエーナに滞在中、永久追放の判決を受け、亡命生活を余儀なくされた。