ヤン・フス(7)
文字数 1,519文字
これまでフスの身柄は教皇の監視下におかれ知人との連絡が可能だったが、廃位後、彼の身柄はコンスタンツの大司教の元に渡され、大司教の居城であるライン川のゴットリーベン城に送られた。そこでフスは、知人との連絡を絶たれ、昼夜を問わず鎖につながれ、わずかな食事だけを与えられ、病にも苦しみながら73日間にわたり幽閉された。
公判のためにフスはフランシスコ会の修道院に移され、そこで人生最後の数週間を過ごした。1415年6月5日に初公判が開かれた。フスは、パレツ等に対抗した教会論を自著と認め「もし自分が間違っていると証明されれば喜んで改める」と宣言した。公判では、フスには、自分に対する非難に短く要約して答えることしか許されなかった。彼はウィクリフを崇拝しており、自分の魂もいつかウィクリフと同じところに昇りたいと認めたものの、ウィクリフの聖餐論や45箇条の教義を擁護したことは否定した。
聖餐論というのは、カトリック教会と正教会がパンとぶどう酒の実体がキリストの肉と血の実体に変化することを認めているということです。聖餐論はカトリックとプロテスタントでは解釈が違っていて複雑になっています。
6月8日の最後の裁判で、非難者側によって39項に及ぶ記述が読み上げられた。そのうち26項はフスの教会論から抜粋した記述で、7項はパレツに対抗するフスの論文からの抜粋で、残る6項はスタニスラフ・ツェ・ツノイマに対する論文からの抜粋だった。非難者側は、これらの教義が世の中に危険であると一文ずつ説明し、ジギスムントがフスに悪感情を持つように煽った。フスは再び、もし彼が間違っていると証明されたら従うと宣言し、より公平な審判と、彼の主張の理由を説明する時間を求めた。
しかし、フスはその場で4項目を認めるように要求された。
1、彼が今まで主張してきたことは誤っていた。
2、今までの主張を将来も放棄する。
3、今までの主張は撤回する。
4、今までの主張と反対のことを正しいと認める。